自然システム論から,メタ自然学を経て,技術システム論へ わが自然学とメタ自然学は,極小のミロクコスモスと極大のマクロコスモス,そして,その中間にあるところの,この地球生態システムとヒト社会システム,を行ったり来たりしてようやく,人間の価値「再」生産活動の総体としてあるところの「産業システム」の活動と,その中心を占める人間の諸活動のうちとりわけヒトの価値「再」生産活動であるところの「労働」にまで辿り着くことができました.ヒトの労働こそは,動力学的ハイパーサイクル・システムとしてのヒトの,ヒト社会における最も根源的なあり方なのです.
「労働する」という「行い」においてヒトもまた社会的価値「再」生産システムの1要素として機能しているのであって,それを組織化したものが「産業システム」です.逆にいうと,この産業システムの自己「再」生産活動の「核・心」にあるものが,個々の人間の自己「再」生産活動でありすなわち「労働する」という「行い」です.
この社会的価値「再」生産活動としての労働を成立させるものが,個々の労働者がもつ技術であり,その個々の技術を要素とする社会的な技術の総体が「技術システム」と呼ばれます.人間を産業シテムの要素として成立させることによって,「産業システム」を機能させ,存在させ,つまり維持・発展・進化せしめるもの,ひいては社会システムの維持・発展・進化の原動力となる,社会のいわば「核・心」としての存在,それが「技術システム」の存在,ではないでしょうか.「技術システム」こそ,ヒト社会が自らを「再」生産するための,そのオルガノン・システムともいうべき存在であり,それは人びとの習慣や法律の源泉でもあり,それらを含めたその全体がすなわち,ヒト社会におけるいわゆる「文化・文明」のあり方そのものである,といえましょう.
自然システム論とは即自的自然の探究です.(狭義の)メタ自然学とは自然・内・ヒトの探究であり,それは自らを産みだした自然の内にありながらも自然と対等に向かい合うようになったヒトの探究であり,ゆえに対自的自然であるヒトの探究であるといえましょう.そして,ヒトが自然の内において自己という価値を「再」する「行い」の総体としての「産業システム」は,自然とヒトとが対話する領域に位置しており,その産業システムの「魂」ともいうべき存在が「技術システム」なのですから,「技術システム」の探究とは,即かつ対自的自然の探究である,といえましょう.
かくして,「技術システム」こそ,わがメタ自然学の第3の探究領域であり,それはある意味では,ヒトの「文化・文明」論なのです.わが自然学とメタ自然学の探究は,今は,ヒト社会の価値「再」生産システムである産業システムとそれの核心である技術システム,つまり「労働と技術」の社会的価値の問題,つまり「善・行」すなわち「よき・行い」の研究に帰着しつつあります.時代的には,ようやく日本の現代の入口に辿り着きつつあります.「三枝博音(さいぐさひろと)」って,ご存じでしょうか.技術論をやっていた人で戦後は,横浜市大の学長だったのですが,鶴見事件に巻き込まれ脱線事故で死にました.その人の書き残したものである『技術論』が(私的に)現代的な観点から見ても結構「まとも」なので,それを抜き書きしながら,注釈をつけています.
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