資本主義の起源

 

ユダヤ思想における労働の蔑視  イデオロギーとしての資本「主義」を語ろうとすれば,忘れてはならないのがユダヤ思想です.第2次世界大戦において,ナチがユダヤ民族を「粛清」しようとしたのも,彼らが資本「主義」という「悪」をゲルマン民族にもたらしたからだ,という地中海世界全体,そしてヨーロッパ全体に広がった「根深い迷信」がもとになっていると考えられます.

ユダヤ民族は,古代地中海世界においては,ギリシア民族と並ぶ,あるいは対抗することのできる,高度な文明をもっていました.彼らは,ギリシア人と同様に,富をもとめて,地中海沿岸地方に植民都市を作りました.その中心がエルサレム王国であり,『旧約聖書』とは,その神話化された民族誌であり民族史です.

『創世記』は,「無(カオス)からの(=自然のロゴス,による世界の)創造」を説きます.これは別途詳細に説明する機会があるでしょうが,概略をいうと,無(カオス)とは,自然学的には一種の動的平衡状態としての<空なるもの>のあり方のことであって,そのまま放置したのでは,いかなる有秩序状態(コスモス)をも作り出すこともありません.この「無」秩序状態に,自由エネルギーがいわば「吹き込まれる」ことによって,それは生命の種子ともいうべき動力学的ハイパーサイクル・システムの原動力と<なる>ことができるのであって,あくまで自然・内・存在としての動力学的ハイパーサイクル・システムそれ<のみ>が・「有」秩序状態(コスモス)を・作りだすことが<できる>のです.

この『創世記』の中の「失楽園」の項においては,ヒトが「知恵の木の実」を食べるという神に対する「原・罪」を犯したために,エデンの園を追われて,「男は地に働くことに苦しみ,女は苦しみて子を産む」とあります.つまり,ヒトが「知恵をもつ」ことがヒトの神に対する「罪」で,耕作すること(労働すること,自己を「再」生産すること)そして子を産むこと(種族を「再」生産すること),およそ自己を個としてそして種として「再」生産するために「苦労する」ことが,その「罪」に対する神の「罰」であるというのです.

現代の常識でいうなら,これほど奇妙なことはないでしょう.わたしたち,少なくとも1労働者としてのわたしなどは,労働することこそは自己の価値「再」生産の唯一の方法なのだ,と考えます.そして,わたしたちは「生活の知恵」すなわち「技術システム」を個々の内に,また社会の内にもつことによって,その生涯にわたる労働(=自己再生産の手段)の負荷を軽減してきたし,また産みの苦しみ,老いの苦しみ,病気の苦しみ,そして死の苦しみをも少しずつではあるが,克服してきた,と考えます.

しかし,ユダヤ民族は,なぜ,こうした現代常識に反したことを民族思想として持つようになったのでしょう.これは,彼らが経験してきた,古代奴隷制と深い関係があるのではないのでしょうか.

ユダヤ民族は,「バビロン捕囚」という「大事件」,ユダヤ民族それ自体が全てバビロニア帝国の奴隷となったこと,を経験しています.そうした事件を合理化するために,それはユダヤ民族が知恵(高度な技術文明)をもつという「神=自然」に対する罪を犯したがために,奴隷として労働させられるようになった,という神話を,彼ら,とりわけ当時の知識人である司祭階級は「ひねり出した」のではないか,ということです.それが,その後彼らが「大脱出」に成功して,王国を建設することができるまでの成功を収めたとき,つまり彼らじしんがその蓄積した富によって「奴隷を買える」ようになったとき,そして,ユダヤ思想から出たキリスト教が,ローマ帝国をも思想的に支配するようになったとき,それは,奴隷(当時の労働者)のしていた仕事である農耕「労働」の蔑視,という思想にまで繋がっていったのではないでしょうか.

ヨーロッパ近代においては,支配者階級による「労働者階級への蔑視」とその反面で彼らからする「革命への恐怖」,それが「共産主義の亡霊」となっていったように,それがまた,ユダヤ人こそが資本「主義」つまり金儲け「至上主義」の本源でありそれがまた社会的諸悪の根源でもあるかのように思わせる,その原因になったのではないでしょうか.それは「金が・ヒトを・食う」現象に対して,ヒトの側からする根深い「復讐のロゴス」の発動であったのではないでしょうか.

 

お金(貨幣)とは何か  「お金(貨幣)」の正体とは,紙幣が単なる紙に印刷された「数字列」であるように,あるいは銀行の預金残高が「数字列」であるように,今や単なる記号化された「数・量」としての存在にしかすぎませんが,その「お金」の「数・量」をあらわす「数字列」が今や,あらゆる「産業システム」の「活・動」の原動力(デュナミス)となっていることは,万人がこれを知っています.マルクスが『資本論』に書いたように,GWG+ΔG,つまりお金(G)が,ヒトの人間活動,自己価値「再」生産活動,すなわち諸労働を組織化したところの「産業システム(W)」に入力されますと,「お金」は労働力市場から労働力商品を購買し,その労働力商品を消費することによって生産システムが活動し,その生産システムが生産した商品が,商品市場にもたらされて,お金に変えられて,ついに剰余価値ΔGを生みだす,というわけです.

  この「記号(数字列)」で表現される「数・量」としての「お金(G)」もまた,一種の自己増殖するイキモノのようです.「記号」としてのお金の「数・量」を増殖させるために,ヒトの労働力が消費されます.労働者はその消費された労働力を賃金(=お金)でもって「再」生産することによって生活します.つまり「お金」が「お金」を生むのです.ヒトが作りだした単なる「記号(情報)」であるはずの「お金」が,現実の労働過程のいわば原動力(デュナミス)となって,現実の存在(エネルゲイア,活動態)としての「産業システム」を運動せしめ,活動せしめる,ということ,それが資本主義社会における「産業システム」のあり方です.

 

万能(自由エネルギー)通貨としてのATP  驚いたことに,生物にも,ATPとよばれる,「万能(自由エネルギー)通貨」に相当するものがあります.生物体においては,ATPが原動力(デュナミス)となってDNA/RNA/タンパク質から構成される諸々の動力学的(化学的)ハイパーサイクル・システムを回転させ,そこにおいて多様な生体高分子を作りだし,また自らをも不断に再生産することができるのです.

ただし,生体内の場合では,ATPは「実際に」自由エネルギーを蓄積していて,それがADP(+リン酸基)に分解されるときるときに放出した自由エネルギーが,動力学的(化学的)ハイパーサイクル・システム(=諸タンパク質からなるシステム)を駆動します.そして,この動力学的(化学的)ハイパーサイクルの運動や作用を制御する情報は,DNAに書き込まれています.したがって,情報を担うDNA分子と自由エネルギーを担うATP分子とは一応キチンと分離しています.ほとんどそれだけが違いで,このATPは過剰な場合にはグリコーゲンなどに変って肝臓にストックされますし,そして,血流中には断えず適量の酸素とブドウ糖があるように調節される,といった具合に,全「産業システム」(すなわちヒト社会システム)にとっての「お金」←→全「生命システム」にとっての「ATP」,として11に対応させて考えることができます.

  実際,わたしたちは自己を「再」生産する場合に,現実のエネルギーが必要な場合には,貯金(ストック)から現金を引き出し,そのお金を食料品に変え,お金をガソリンに変えます.現代の人びとは今や,お金をほとんど唯一の社会的ストック(蓄積)としています.ですから,金融資本というのは,そうした社会的ストックを産業システムに流しそれを適量に管理する「しくみ」であって,人体でいえば肝臓のようなものであるといえます.世界金融システムは,ヒト社会システムのいわば肝臓である,ということです.これが肝硬変(機能マヒ)を起したり,寄生虫(金食い虫,詐欺)に取りつかれたり,ガン(独占的な金融資本のみが肥大する)に蝕まれたりしたら,このヒト社会は死滅するしかないでしょう.米国はようやく,リーマン・ショックによって,こうした金融資本を制御しようとしはじめました.日本では,金融危機以来ようやく金融資本が,ちょっとだけでしょうが,制御可能になりはじめました.

 

万能自由エネルギー通貨(ATP)の源泉としてのプロメテウスの「火」  あらゆる生物体がそのエネルギー源としているATPの,その本源は,むろん太陽エネルギーです.植物は,太陽から出た光子 -それ自身が,1つの究極のミクロなハイパーサイクル・システム,なのですが-のエネルギーによって,多くのタンパク質が関与する複雑なサイクルを経て最終的に,水素からプロトンを電離させます.このプロトンがプロトン・ポンプを通過するときに,その制御された運動エネルギーつまり自由エネルギーの「流れ」が分子モーターを回転させます.分子モーターが1回転すると,結果的には,そこに2個のATPが生産されるのです.これは,水車が水の「(自由エネルギーの)流れ」によって回転し,この制御された回転運動が,多様な仕事を「行う」ことができるのと,全く同様の「しくみ」です.

この太陽光に由来する自由エネルギーを,最終的ATPに変換し蓄積する「しくみ」である光合成過程は,およそ27億年前に,藍藻類がはじめて発見したものです.この「大発見」によって,地球の生態システムは,ほとんど無尽蔵な太陽エネルギーをATPに変換することができはじめました.ATPを「万能(自由エネルギー)通貨」とすることによって,全生態システムが急速に拡大「再」生産され,生物は次第に巨大化し,進化できることになったのです.

  古代から数十億年の永きにわたって,厖大な数のミクロのプロトン・ポンプが,延々と回転し続けてATPを生産してきました.このATPを使ってあらゆる生合成が行われました.プロメテウスの「火」,それはこのミクロなプロトン・ポンプの活動がもたらしたものだったのであって,神々の長であるゼウスの館といわれるオリュンポスの奥津城からもたらされたものでは全くなかったのです.

太陽から由来する自由エネルギーが,油脂として蓄積したのものが,石炭や石油です.つまり,石炭や石油は,太陽に由来する「自由エネルギー」の,地球生態システム全体のための蓄積(ストック)なのです.これを消耗し尽くしたら,いったいどうなるか,それこそは地球生態システム全体が「滅びへの道」へ赴くことになるでしょう.

そうなったら,この地上の手近にある太陽エネルギーであるところの,原発や核融合が「安全に・安心に」使えるようになるまで,一体わたしたちはどうすればよいのか,それが「福島原発以後」のわたしたちが,今,早急に解決すべき「大・問題」なのです.太陽光,風力,いろんな自由エネルギー源に関する選択肢がありますが,とりあえずは厖大なエネルギーを消費する(あるいは浪費する)大産業システム自体がまず,もっと安全かつ効率的なものに変っていかなければなりますまい.

 

「産業システム」が機能し続けるために必要なものとしての政治(ポリスの業(わざ))  「お金」がATPと決定的に違うのは,お金それじしんはヴァーチャルな「記号」にすぎず,それが一旦,自然のエネルギー源である自由エネルギーに交換されてはじめて,「産業システム」を動かすことができる,ということだけですが,しかし,それが決定的な違いでもあるのです.お金はそのまま置いておいたのでは「いざ,という時のために,これがある」といういわば「気休め」以外には,全く何の役にもたちません.戦時国債のようにハイパー・インフレで,価値「0」,全くの無価値になってしまうことさえもあるのですから.わたしたちにとっては,病的なデフレでもない,病的なインフレでもない,それぞれが安心して働き,老後資金をある程度貯めることができる,という状態が一番安心できましょうね.

  お金がお金として十分に機能するためには,一体,何が必要なのでしょう.お金がお金として正常に機能し続けるためにこそ,「ポリスの業」,つまり政治 -politics<police,ポリスを支配するというより病的な状態に陥らないように健常性を保つべく制御する技術- がそこに必要になるのではないでしょうか.

政治とは今や,ヒトがヒトを支配するためのものではさらさらなくて,「産業システム」の健全性を保つための「よき・魂」としての「よき・技術システム」であるべきなのです.政治の役割とは,ヒト社会の安全性・最適性,つまり「産業システム」の最善・最適を目指した,その進化を保証するための,諸々の「正しい・技術的な・行い」であるべきなのです.

そこにこそ,自然学的知識に基づく,メタ自然学的知識に基づく「賢慮・節度・勇気」が最も必要なのです.世界自由市民社会への進化と発展の「ための」政治,それが「人民による人民のための人民による政治」であり,真のデモクラシーであるべきでしょう.あくまで,この視点でもって議論しなければ,それは党派の利害「のみ」に偏った,非常に危ういものになってしまうでしょう.

 

ポリスの業(政治)として虚偽を説き,ポリスを滅ぼすものとしてのデマゴゴス  ポリスの業において人びとに利を説いて,ポリスを結局は滅びに至らしめる人びと,そうした人びとをデマゴゴス(大衆煽動家)といいます.そうした人びとは,古代からず〜っといたのです.アルキビアデース(プラトン『饗宴』にも登場する美青年)は,アテネの民会で,美辞麗句を連ね,空想的な利益を説いて,人びとをシュラクーサイへの「侵略戦争」に駆り立てたのでした.アテネはその侵略戦争において5万の市民兵を失い,ついにはペロポネソス戦争において,スパルタに大敗北を喫することになるのです.

このように,古代における世界都市(コスモポリス)であったアテネを,敗亡の淵にまで,その自滅の道にまで追いやったもの,それは「虚偽」であり,その虚偽にマンマと踊らされた大衆が行った「戦争」です.このように,大衆に対して美辞麗句と利益によって飾られた「虚偽」を語って,かれらを自滅への道へと誘うもの,それをデマゴゴス(大衆煽動家)というのです.かくして,虚偽において雄弁であるよりも,真理において寡黙に徹すること,そのほうが余程マシなことであったので,「沈黙は金,雄弁は銀」といわれるのです.

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