労働と技術
「産業システム」と「技術システム」 こうした架空の対話のおかげさまで,わたしもだいたい言いたいことがはっきりしてまいりました.ヒト社会もイキモノでありココロあるものであるということ,つまりヒト社会もまた1つの有機体であるということ,そのココロつまり「魂」ともいえるものが,文化・文明であるということです.むろんこの文化・文明もまたイノチやココロをもっているわけで,そのイノチやココロ,つまり文化・文明の本質とは何か,それこそが,わがいうところの「技術システム」である,ということです.
あらゆる価値「再」生産的労働,あらゆる事物の「再」製作過程には,製作するヒトとしてのホモ・ファーベルの「魂」というべき「技術システム」(techno-logos-system)が機能しています.わたしのライフ・ワークもまた,ホモ・ファーベル(モノを・作る・ヒト)とその魂ともいうべき「技術システム」の探究,つまりヒト学と技術システム論において結実しなければなりますまい.
労働とは何か 労働とはわたしたちが日々無意識的にせよ意識的にせよ「行っている」ところの,自己の価値「再」生産活動一般,をいいます.わたしたちの身体は,無意識下ではありますが,日々「再」生産され続けており,意識的な活動のための自由エネルギーを蓄積し続けているのです.わたしたちがこの自由エネルギーを,意識的労働において「消費する」ことによってはじめて,日々の労働が成立しているのです.
労働って,外見で肉体労働にみえるものでも,いかにその精神つまり身体の脳神経ネットワーク・サブ・システムとよばれる部分を(意識的にせよ無意識的にせよ)よく使うか,は自分でもよくわかります.とりわけ,現代の労働はほとんど,自然・内・事物との対話,つまり「聞く,話す,読む,書く,計算する」等々の,ロゴス的「行い」から成り立っているのですし.
カール・ヤスパースのコトバに「学問研究による人格の陶冶」というのがあります.古代人たちは自然学研究を通して,その「魂」を磨いたのでした.現代では,ほとんど全ての人びとがその生涯にわたって労働者であり,つまり自分の労働を社会に売って,その労働の社会的対価である賃金で生活しています.したがって,労働者はその一生涯の労働を通してのみその「魂」を磨くことができるのです.
わたしもまた,自分の労働を通して自分の魂を磨くほかなかったのでした.今は自然学およびメタ自然学の研究という,いわば私の生涯最後の「労働」こそが,労働者としなのわたしの「魂」であるところの「技術」を磨いてくれている,と思うのです.
労働者の「魂」とは,その「技術」である 技術,技(わざ)・術(すべ),これらは,ヒトが・何事かを・「行う」場合,その方法,いわば行動の順序,具体的には諸々のそれに関する「行い」の手順のことをいっているのです.たとえば,弓術では,矢を弓につがえ,的を狙い,弓の弦を引き絞り,そして弓を放つ,そうした「一連の手順」の総体が弓を射る技術です.
こうした「行い」の手順をキチンと守りさえすれば,一応は弓を「射る」ことはできます.ただ,「よく・射る」ためには,「修・行」つまりその行いの繰り返しによる「術」の「洗・練」そして「体・得」がいります.そうした修行を経て,十中八九的を射ることができれば,ようやく弓術を会得した,弓術を体得した,といえるでしょう.さらに名人の域に達するには,一生をかける必要があるかもしれません.
わたしが知識もまた技術の一部だ,というのは,「知る」あるいは「識る」という「行い」それじしんが「一つの技術システム」の1要素であるからなのです.たとえば,ユークリッド幾何学を「知っている」といえるためには,ユークリッド幾何学の基本構成要素である「点」とか「直線」とか「平面」が「いかに・描かれうるか」を知っていること(know how to do),つまり必要時に,実際にそれを(思い)描くことができること,が必要です.
ヒトが「点」とか「直線」とか「平面」を「描く」技術を実際に持っている,というヒトの純粋な「行い」が可能である,というヒトの「行動の構造」に対する基礎的な要請を「公準」(postulate)といいます.そして,そのような「線」や「直線」や「平面」を実際に「(思い)描く」ことができるという単純な基本技術要素を用いて,実際に,ピュタゴラスの定理を「証明<する>」ことができなければ,ユークリッド幾何学を「知っている」ことにはならないのです.
ユークリッド幾何学の「知・識」とは,まず単純で基本的な図形を「描く」ことが<できる>ことです.そして最終的には,ユークリッド幾何学の基本定理(=公理,axiom)であるピュタゴラスの定理を「証明<する>」ことが<できる>ことです.結局,「知っている」ということつまり「知識」とは,ヒトの諸々の「行い」に関する「技術」から成立している,ということ,「生きた知識」もまた「生きた技術」の一要素である,ということなのです.
小学校で教師が,πが3.14であることや,いろんな算術公式を「教えている」といいますが,あれは,本来はイキモノとしての知識あるいはイキモノとしての技術の,その「死せる断片」を,子どもに「天下り式に」無理やり押しつけているだけのことです.それこそ子どもに「生活の知恵」ようは「生きるための技術」がある程度つくまで,子どもがいろんな「生きるための技術」を覚えることができるまでは,ある程度の「丸暗記」はしかたがないこと,なのでしょうけれども.
全自然を活動せしめているその原動力である魂というのは,「よく・活動し,自己をそこに実現する」ことが<できる>といういわば技術なのであり,自然学およびメタ自然学とは,自然の内なる「よき・生き方」を学びそれを実践する,という技術の一部でありその「はじまり」にすぎないのです.ヒトがよく生きようとすれば,自らをよく「再」生産する,労働するという「行い」による他はなく,労働するためには,ヒトを動かす原動力としてのその魂が,「よく・生きる」ことが実際に<できる>,という技術を体得していなければならないのです.全てのヒトが体得しそれに与るところの諸技術の,その総体が,ヒトにとってのただ1つの「よき・技術システム」なのです.かくいうわたしも,1個の労働者です.労働者がそれによって実際に生きることのできる「魂」とは,すなわちその「技(わざ)・術(すべ)」であり,それ以外では,全くないでしょう.
「技術システム」は「産業システム」の「魂」である 「技術システム」(techno-logos-system)とは,私たちの価値「再」生産活動つまり労働の,その習慣から発生し,そこから進化してきた私たちの「行動の構造」(structure of action or performance)です.いかなる「社会システム」(social system)も「産業システム」(industrial system)に支えられて存在しています.ヒトの身体にとってその「魂(Geist)」とは,実は「脳神経ネットワーク・システム」そのものの活動態であるならば,「技術システム」こそは「産業システム」の中で活動している,その「よき・魂」であり,ヒトの全身体における脳神経ネットワーク・(サブ・)システムに対応するものである,といえましょう.
緻密に地道に積み上げられてきたもの,人びとの身体にいわばしみついた社会的価値「再」生産過程の存在,すなわち労働の習慣と,その労働の習慣を支えているよき生活のための「技(わざ)・術(すべ)」は,人びとが存続するかぎりは,決して滅びはしないし後戻りもしないでしょう.その堅実な蓄積の上に,そうした人びとの存在基盤の健全さの,その上にはじめて,いわゆる文化・文明すなわち現代でいう「産業システム」が成立するのだ,とわたしは思うのです.
ヒトの「技術システム」は進化し続けてきた ヒトは「裸のサル」として生きているときに,むろん,その前から,自然の神的なロゴスである共生の原理,相互無危害性および相互善行性原理の何たるかを,その行動の構造として体得してきたのです.ヒトの文明は,そのようにして体得してきた生きるための技術としての行動の構造の上にはじめて成立しています.つまりヒトの「技術システム」は,自然と共に生きる,その試行錯誤によって,おそらく数百万年にわたって,進化し続けてきたのです.
現状の諸問題を正確に把握するためには,問題としての「このコト」が現在<ある>その所以を知らなければなりますまい.何が<あった>がゆえに,このコトが<ある>のか,そして,もし何が<ない>ならば,このコトが<なくなるであろうか>,つまり問題解決が行われうるであろうか,と.つまり,因果関係を自然のロゴスすなわち自然法則として知ることができなければなりません.それが自然のロゴスの探究です.このロゴスの探究において,現代自然学は,これ以上はないほど大きな成果を収めつつあります.現状把握<する>という「行い」の意味において,現代自然学をその内に意識的に含むことによって「技術システム」は大きく進化してきました.
静態観察という比較的簡単な側面をとってみても,わたしたちは,あらゆる事象を「正・確」に測定することのできる「技術システム」を持っています.100m離れたモノの位置をほとんど1mmの精度で測定できるのです.静態観察という意味からも,ヒトをその内に含む「技術システム」は大きく進化してきました.そして現代「技術システム」のあり方は自然の動態の「再ほ現」へ,と大きく変わりつつあります.
「技術システム」のサブ・システムとしての「オルガノン・システム」 わたしたちは,自然なカタチの理想,美なるものの根源にあるカタチとして,「点」あるいは「直線」あるいは「円」を知っています.しかし,それを正確に「描こう」とするならば,どうしても「道具」とそれを使いこなす「技術」がいります.
例えば,「点」を「打つ」ことは先端が鋭利な道具,たとえば鉛筆などによらねばなりますまい.鉛筆なる道具を使いこなして所定の場所に「点」をうまく打てる3才以下の幼児などは,まずいません.むろん,3才児以上の「優れた感性」をもつサルにも,これは到底できない「技」でしょう.「直線」を「描く」ためには,定規が必要ですが,その定規を「作る」ことはおろか,定規を使って「直線」を「描く」ことのできる3才以下の幼児や「叡知あるサル」はまずいません.「円」を「描く」のにはコンパスが必要ですが,そうした道具を作り,またそれを「使って」円を描けるようなサルときては,到底ありえないでしょう.
そもそも,彼らサルは,ヒトより遥かに優れたその「感性(認知能力)」をもってしても,その「イノチのキラメキ」とやらをもってしても,「自然を・描く」という「行い」をなすこと,「自然のカタチを・再現する」こと,には全く関心を示さないし,サルに絵具を与えたって,自然美(コスモス)どころか現代絵画のような「混沌(カオス)」がそこに出現するだけでしょう.それを「写・生」などと,いわんや絵画における美である,などと言えるはずがありません.
学問・芸術=[ラ]ars=[ギ]techne=技術,という話は何度もしましたよね.自然のカタチにただ共鳴しただ感動することは,たぶんサルの「優れた・感性」でもできるでしょう.しかし,自然の美を,美として絵画において「再・現」することができるためには,幾多の道具を作り,さらにそれらを使いこなすという「高度な・技術システム」,ヒト社会の「魂」ともいえるような存在が,必要不可欠なのです.
厳密にいうと,幼児期って3才児ぐらいまでのことです.ふつうの犬だって3才児ぐらいの知能はあるといわれています.チンパンジーやオランウータンだと,ちゃんと道具を使って問題解決することができるし,言語能力の「はしり」はあります.ヒトと他の動物の境界は,とりわけその「感性」においては,次第に消滅しつつあるのです.
ヒトとチンパンジーの,「感性」なんて,そんなに差はないことになると,いわんや同じヒトである幼児期,第一反抗期,第二反抗期,そして大人と,ヒトの「感性(それは,本来の感性,すなわち認識能力というよりは,むしろ「情念」,喜怒哀楽の感情,を交えたもののことらしいのだが)」がそんなにも違っているはずがありません.大人になると,喜怒哀楽の感情である情念を直接的には表現しなくなる,制御できるようになる,ということはあるでしょうが.
「技術システム」は「オルガノン・システム」と不可分一体である 道具のことですが,「真っ直ぐ」な線を描くということは,実はちょっと難しいことなのです.直線って,曲がってない線のことなのですが,その曲がってないことをどう確かめればよいのでしょう.結局,直線とは点と点との「最短距離」を結ぶ線である,と「幾何学的に」キチンと定義しなければなりません.それで大工さんは,真っ直ぐな線を描こうとするときには,大工道具として「墨縄」を使うことになるのです.このように,直線を描く技術は,ヒト社会には必要不可欠です.もし家の柱が曲がっていたら,床が真っ直ぐ水平でなかったら,イノチにかかわりますもの.
むろん,絵画は「単なる遊び」であって,イノチや実生活には全くかかわりがないとおっしゃるのであれば,絵画に描かれた家の柱が,たとえ曲がってようが,床が水平でなかろうが,全く関係ないでしょう.しかし,それじゃあまりにも不自然だ,というので,心ある画家は,自分が描いた線が真っ直ぐなものかどうかを,例えば「真っ直ぐな」筆を使って確かめようとするでしょう.すると,その筆が立派に定規の役割を果たしていることになります.
さて,その筆が実は曲がっていたらどうなります? そんな筆は使いにくくてしょうがない,とわたしだったら思いますよ.「弘法は筆を選ばず」だ,なんて名人の境地に達していらっしゃれば,わたしのいうことも全く無用なことでありましょうけれど.
日本画では顔料の調整に手間がかかって大変だ,ということを聞いたことがあります.無彩色の水墨画だって,墨の濃い薄い,を出す技術が必要でしょうし,とにかく,ヒトが何かを作ろう,製作しよう,とすれば「道具システム」とそれを使う「技術システム」とは,一体不可分に必ずついて回りますでしょう.そして,あらゆる素材は,わたしたちを取り巻く自然から,わたしたちの「労働」によってこれを得なければならないのです.
「オルガノン・システム」もまた進化する 勾玉に穴を開けようとすれば,現代のわたしたちは鉱石用のドリル(先に人造ダイヤモンドのついたもの)で簡単にあけるでしょう.それと全く同じように,縄文人たちは,まず先の尖った固い石器あるいは水晶質のカケラか何かでそこに傷をつけ,その傷跡に研磨剤をつけ,あとは木材でも何でもいから回転する棒と研磨剤とをうまく使ってゴリゴリと丹念にその傷跡を拡げていくしかなかったでしょう.ドリルは,しかし,その先端はといえば古代人が思いも寄らなかったダイヤモンドで武装されており,古代人が知らなかった鉄でできているから簡単に折れもせず,しかも人力ではなく古代人が夢にも思わなかった電気力で駆動されていて,非常に短時間で,縄文人がかけたおそらく1万分の1以下の時間で,はるかにキレイな穴を,勾玉にあけることができるでしょう.
わたしたちがドリルを使ってやることと,縄文人の丹念な作業とは,その原理はといえば,それは自然のロゴス,自然法則そのもの,なのだから,寸分と違うはずがありません.ただそれにかけるヒトの労力(=労働時間)が,ケタ外れに少ない,つまり労働効率,作業効率がケタ外れによい,ただそれだけの違いです.
わたしたちは古代人の造形をみてそれを,美しいと思ったり,おもしろいと思ったりしますが,実は,そこに,彼らと全く同一の生物種に属するわたしたちじしんの,美意識や関心の向うところを,「再」発見しているのだ,ということになります.古代人が美しいと思うものを,現代の私たちもやはり美しいと思うだろうし,現代人が関心をもつものを,古代人もやはり関心をもつだろう,ということです.古代人は,わたしたち自身の内に「も」ちゃんとそのままの姿で生きているよ,ということです.結局,古美術のコレクションは,その所有者自身の美意識と関心の向うところそのもの,その美意識の権化であり関心の存在そのものなのであって,それ以外のものでは何もない,ということでしょう.
古い思い出話で恐縮ですが,20年ほど前,四国に行ったとき,自動墓石製造器(?) とでもいえるものを見学させられたことがあります.いわゆる「黒御影石」をツルツルに磨くことはむろんのこと,「南無阿弥陀仏」なんて文字を,完全自動で彫ってしまうのです.鉄工場でいうところの,NC (Numerical Control) つまり数値制御を,墓石にまでさっそく適用したのでした.手彫りの墓石なんて,それこそ骨折り損のくたびれもうけで,今じゃ四国のどんな頑固な石屋でも,ほとんどやってはいないでしょう.
それからすでに20年が経っています.NCのための元データ作りなんて,PCが1つあれば簡単にできてしまうご時世です.さぁそうなると,それを「古」美術,玉の「造形」,にまで適用しよう,な〜んて「小賢しい」連中が出てきてもおかしくありません.中国のコピー文化は,それこそ「すさまじい」から,簡単にあなどっちゃぁ,いけません.ホンモノの古美術品のネタを写真にとっておいて,それを伸縮させ,さらに組合せて,どんどん多量にパタンを発生させれば,コピーとは全く気づかれないでしょう.古い玉を下地にしておいて,その上に重ねて,趣味人の気にいりそうな「古くて,美しい(と彼らが思う)」パタンを,そこにコピーすれば,さらに気づかれにくいでしょう.
「自然なカタチ」をヒトが「描く」こと,それじしんが「高度な技術システム」の存在を前提にしているのであって,それは子どもには至難な「技」なのですよ.いわんや,ヒトとその「感性」を殆ど共通にするであろう,むしろヒトよりも高度な自然の事物の認識能力,立体物の認知能力,動態視力を持つ猿,などにも,それはとうてい不可能な「技」であり「術」なのです.
「技術システム」の進化の原理の表現としての「自然の弁証法」 自然の全存在は,動的であり,生成・運動・変化・消滅を繰り返しつつ,進化し続けてきました.しかし,その進化の根底には,不変かつ普遍的な進化のロゴスが存在しています.それが動力学的ハイパーサイクル・システムの存在です.
また現代生物学の教えるところによると,今の地球上にいるヒトは全て,唯一の生物種に属しており,しかも,この(約)10万年来「生物種としては全く進化していない」のです.具体的にいうと,古代縄文人も,(古)遼(今の遼寧省)人も,わたしたち現代人とは生物学的には全くの同一種だ,ということです.したがって,古代人の個々もまた,わたしたち現代人の個々と「全く同じ」感性,悟性,理性,ヒトのロゴス,をもっていた,ということです.古代人が,石器や土器,そして青銅器に描き,造形し,そこに表現しようとしたイメージを,わたしたちは,完全に共有することができるということ,これはいかなる謎でもなく,きわめて単純な生物学的な事実に基づくこと,なのですよ.
じゃ,何が進化したのか.わたしたち個々の身体でもなくいわんやその身体の一部である脳神経ネットワーク・システムつまりココロの座といわれるものでもありません.その個々に支えられてその関係性から構成される「社会システム」であり,その社会システムのいわば「魂」ともいうべき「技術システム」が,ここまで進化した,それだけのことです.
自然の進化を記述しヒトがヒトとして「よく・生きる」方法たるべく登場したヒトのロゴス(言語システム,知識システム,技術システム)もまた,生成・運動・変化・消滅を繰り返しつつ,進化し続けてきました.しかし,その根底には,やはり不変かつ普遍的な進化のロゴスが存在しています.それが,自然とヒトとの対話の法であり,わがエンゲルスのいうところの『自然の弁証法』なのです.
ヒトにおける言語(ロゴス)システムもまた「技術システム」の一部である 赤ちゃんの場合,コミュニケーション能力は,泣く,笑う,むずかる,等々のごくわずかな身体的行動にしかありません.腹がへったといって泣く,満足したら笑う,ウンチが出て不愉快なときにはむずかる,といったほとんど母親だけとのコミュニケーション能力で間に合っています.
第一反抗期近くになると,家族全員ばかりでなく子ども同士のコミュニケーション能力つまり「見る,聞く,話す」ことができて,情念をようやく細やかに表現できるようになります.これが個としての自立のはじまりでしょうね.
第二反抗期近くになって,「読み・書き・そろばん」という社会的コミュニケーション能力が,いわゆる学校教育や集団的遊びの中で発達してきて,ようやく社会的に自立できるようになるわけです.しかし,この「読み・書き・そろばん」の能力ってやつがくせもので,万人がこれをうまくできるとは限らないし,それがまだうまくできてないのに社会に放り出されることになって,そこにいろんなヒト-社会間的諸問題が発生してしまうのです.
「信念の体系」(信念システム)としての宗教もまた「技術システム」の存在形態の一種である わたしはユダヤ教をはじめとしていかなる「いわゆる宗教」をも宣揚するものでもありません.今や,ユダヤ教において神とされたであろう自然そのものも,生れ・病み・老い・死すべきものであって「神的なもの(つまり不死なるもの)」では<ない>ことが明らかになっています.いわんや自然の事物においてをや,でしょう.全ての自然の事物は生れ,老い,病み,死んでいきます.そのように生成運動変化消滅する自然において,神的なものとは,自然のロゴス(法,コトバ),それ自身の他には,全くありえないだろう,ということです.自然と・共に・よく生きる,その方法(オルガノン,すなわち道具)である,相互無危害性と相互善行性の原理のみが,神的であり不生不滅であり永遠であろう,とわたしは思います.
虫歯の治療に「捨て身」もないでしょうが,わが『ナーガの道』の冒頭にある「雪山の詩」の雪山童子の話がいわゆる「捨身」の原型になっています.仏教が平安時代に知識人の間に受け入れられたときに,この雪山童子の話,半偈(詩の半分)を聞くために「身を捨てる」,つまり真理の探究に捨身になる,ということが日本人に「一種の驚き」をもたらしたことは事実で,「枕草子」にもそれに関連する場面が,冗談半分ですが,出てきます.
でもね,彼が捨身で求めた法,ってのは,つまるところは,老・病・死に至る過程にあるような「ヒトに苦しみをもたらす原因」からの自由であり解放であり,すなわち「解脱」であり,事物の生成・運動・変化・消滅にともなう苦しみを完全に滅し終えたところにある「静かな安らぎの境地」なのですから,そりゃ結局は,QOL(Quality of Life,生活の質,つまり健康)の維持・向上に帰着するのではないでしょうか.それを平たくいえば,心身ともに健康で安全である,ということにすぎません.要は,身心の健康を保ち,身心の病気を癒すこと,です.つまり,原始仏教とは,インド古代における「医術」そのものの一般形だったのであって,現代でいえば「保健・医療」に係わる「技術システム」の存在だったのです.
「産業システム」と「技術システム」は共進化する さて,わたしの「自然学およびメタ自然学の探究の旅」も,なんとなく煮詰まってきたような気がしております.『共産党宣言』の中に,「人類の歴史は階級闘争の歴史である」という有名な「階級闘争史観」というのがあって,その自然学的基礎がどうやらダーウィンの進化論のなかの「生存競争」に行き着くらしいので,あちこち調べてみましたら,意外なことがわかってきました.
エンゲルスは「生存競争」を特殊な場合,たとえばわたしが「クロイモリの共食い」についていったような「過剰棲息状態」には認めるが,それを進化の原理としては必ずしも認めていないのです.かえって,マルサスの人口論でいわれるマルサスの法則つまり「人口は制限さなければ幾何級数的に増加するが,生活資源は算術級数的にしか増加しない」によって,生存競争が必然的になり,資本主義社会では資本の競争つまり富の奪い合いが激化し,強者はますます強者になり,弱者はますます弱者になり,それが階級対立を引き起こして,それがついに革命の引き金になって,というようないわゆる機械論的な図式を,むしろ<否定している>のです.
じっさい,「有限な」富の奪い合いだけでは,それは「血の復讐」のロゴスを引き起こして,結局は,人類全体が滅び去るだけのことでしょう.ヒトとよばれる自然種が「無限につまり(半)永久的に」生き続ける,存続し続けることができるためには,かれにとっての富は「無限につまり(半)永久的に」生みだされつづけることができなければならないのです.ここにおいて,わが[論理的原子=動力学的ハイパーサイクル・システム]論,[社会的価値「再」生産システム=産業システム]論,そして,技術システム論が,必要不可欠になりましょう.
さてしからば,社会システムの進化の原理とは,それが生存競争に比されるところのいわゆる階級「闘争」などでは<全く・ない>としたら,一体何であるのでしょうか.それこそ,わが「動力学的ハイパーサイクル・システム」の出番なのであって,ヒトの「社会システム」の場合は,それの存在基盤が,社会的価値「再」生産システムつまり「産業システム」と呼ばれる存在であり,その「核・心」をなすものが「技術システム」の存在なのです.つまり,「社会システム」の進化はすなわち,「産業システム」の進化に支えられており,それはまた「技術システム」の進化によって支えられているのです.
ヒトの「社会システム」の存在の原動力はむろん,人間の価値「再」生産的諸活動が生産する,より多くの自由エネルギーを内在させた生産物の存在です.「産業システム」の存在の原動力とは,自由な人間の諸労働そのものなのです.「技術システム」の原動力とは,しからば何か.それは人間の自由な知的活動あるいは精神的労働です.なお,ここでいう精神的労働とは,いわゆる「単なる・頭脳」の労働などではなく,「脳神経ネットワーク・サブ・システムを中心とする身体システム全体」の諸活動のことであって,いわゆる全身全霊的諸活動,その人がもつ「技(わざ)・術(すべ)」を総動員した活動,を意味しています.
「産業システム」と「技術システム」の進化の原理もまた,相互無危害性と相互善行性にある 動力学的ハイパーサイクル・システムの形成と存在の原理は,それを構成する諸要素が,相互無危害性原理と相互善行性原理において諸々の諸活動を「行う」ということです.要するに,システムの構成要素が,互いを決して傷つけあうことなく,むしろお互いが自発的に自律的に自立して協力しあうことによってはじめて,それらの存在にとって価値あるモノを作り出すことができるのであって,動力学的ハイパーサイクル・システムの存在とは,それ自身が,それ自身にとっての,価値「再」生産システムの存在なのです.
その自己価値「再」生産システムは,その存在の本質でありその存在様式である「技術システム」によって支えられています.つまり,社会シテムの進化は,技術システムの進化によって,つまり人間の知的あるいは精神的労働によって支えられているのです.要は,わたしたちの住む自然も第二の自然も,自然の事物およびヒトびとの,価値「再」生産的諸活動によって,とりわけその知的あるいは精神的諸活動によって支えられており,それが進化するためには,その知的あるいは精神的諸活動の様式が進化しなければならない,ということになります.
これまですべての自然の事物は,ミクロコスモスからマクロコスモスにいたるまで,これまでに進化してきました.ヒトは,それを意識的に<よい>方向に進化させることができる方法,その「技術システム」の改善の方法を,ようやく獲得するに到りました.それら進化するシステムの存在の原理こそ,相互無危害性原理と相互善行性原理,すなわち自由・平等・友愛そして平和の法,なのであります.ひらたくいえば,安全安心平和にそして自由に,それぞれの価値「再」生産的活動に勤しめること,それぞれの価値「再」生産活動の様式を不断に「改・善」し続ける努力を怠らないこと,ただそれだけのこと.
なかなか意を尽くせませんが,「技術システム」論の骨子である労働と技術の関係は以上です.多くの人びとを納得させるに至るには,まだまだかもしれませんが,まぁ今まで通り,おそらく死ぬまでシコシコやり続けるしかありませんね.