「技術システム」の起源
自然祭祀は,古代における技術システムの一形態であり,その起源でもあった 今や人類は,「人・種」を統合する「類」ではなくて,ヒト(ホモ・サピエンス,英知あるヒト)と呼ばれるただ1つの生物種であることには,もはや1点の疑いもありえません.このただ1種のヒトが,有史前,10万年前くらいにアフリカからエジプト地峡を経由して出て,全世界に広がったのです.
ですから,古代の人びとの内なる自然であるそのパトス・ロゴス・エートス(自然の事物を認識し,その価値判断によって行動を計画し,その計画によって行動し,その目的を完成しようとする)と,現代人のそれとが本質において異なるはずもないわけで,そうした行動(行い)の手段となりオルガノンとなるものだけが,現代では古代とは大きく異なっているだけです.心象風景すなわちヒトの内なる自然を「描く」ことと,それを「書く」ことも,そう異なっているはずもないと思います.
古代的祭祀の様相は,ギリシアも,インドも,中国も,つまり西洋と東洋とで,そんなに変わるところはなかった,ように思われます.ギリシアでは,建国(ポリスの創始)の英雄たちは,天空を司る神ゼウスの子孫を自称しましたし,中国では,皇帝は「天・子」を自称したのです.天はヒトの上にヒトを作らず,天はヒトの下にヒトを作らず,自然が産みだし育んできたものは,みんな平等,という思想もあったにもあったはずなのですが,それはほとんど大衆の中にのみ,生き続けてきました.
古代環日本海世界における自然祭祀 アジア大陸の日本海沿岸には,漢族にとっては,いわゆる鮮卑,魚を食う卑しい人びと,と呼ばれたのが住んでいました.彼らがおそらく,遼やら金やらを建国し,それが清,満州王朝やらのもとになっていったわけですが,その末裔が,朝鮮であり,日本(倭,ヤマト)でしょう.ただ一つの自然の存在,そこに住むただ一種のヒトの存在,それに付け加えて,もう国境なき「ただ一つの世界自由市民社会」が実現してもいい頃だ,と思うのですが,そのためにも,ヒトにとっての「ただ一つの共通言語」であるところの「ただ一つの自然のロゴスの存在」を明らかにしなければならぬ,とも思うのです.
新石器時代の「技術システム」 新石器時代,磨製石器の製作されたことにおいては,「砥石」の発見がそれに深く与っていたようです.新石器として出土する,矢尻や,槍の穂先だけではなく,祭器としての「玉」の表面も,それで磨いたのでしょう.研磨材も砥石と一緒に,道具システムとして統合して使うことによってその作業効率は上がります.おそらく,大きいものから小さいものまで,多種多様な砥石や研磨剤が活躍したのではないでしょうか.絵(文字)を描くにしても,砥石の角面をうまく利用するとか,微細な岩石粉をニカワで糸に張り付けた糸鋸を利用したとしたら,細い直線もまぁ,ゆがみなく描けるかもしれません.
軟玉は,硬度6.5,つまり石英よりもちょっと柔らかいから,石英で傷がつけられるし,その傷跡を石英質の粉でよく擦れば,そこに溝を作ることができます.鉄器のなかった時代では,勾玉状あるいは円盤状の土台となるような玉に,石英質のもので傷をつけ,それを丹念に石英粉で磨いて,次第にその彫り跡を拡げていく,というきわめて手間のかかる作業,磨製石器を作るのと同等な,むしろそれ以上に困難な作業,が必要だったでしょう.鉄器とりわけ「鋼」の道具ができるまでは,軟玉といえども,そこには浅い陰刻,しかもそう鮮明ではないもの,しか描くことができなかったのではないでしょうか.したがって,大きな複雑な図形をもつもの,その図形の切り口がきわめて先鋭なもの,さらに,その図形が浮き彫りになっているようなものに至っては,明らかに鉄器発生以後のもの,古代どころか,ガラス器具加工場によくあるような,ドリルやら旋盤やら金鋸やら,の存在するような,はるかに後世のものであろう,と思われます.
ダイヤモンドはダイヤモンドより固いものでしか磨くことはできないでしょう.したがって,ダイヤモンドをカットしたり磨いたりするのはダイヤモンドの粉を貼り付けた諸道具です.翡翠とても,翡翠より固いものでみがくより他はありません.翡翠に翡翠で穴をあけようとすれば,その穴と同じ量の翡翠がすり減って粉になってしまうでしょう.結局は,その翡翠の「粉」を利用して,それでまた翡翠を磨くことになるでしょう.
固い鉱石の「粉末」であれば,布にニカワで付着させてそれを張り付けるとか包むとかして,いろんな形状の道具を任意に作り出すことができます.糸にニカワで張り付けると,それによって石材を切断することができる糸鋸ができます.素材に対応した,研磨剤や,研磨剤を付着させた諸道具,そして研磨法が,古代の職人や技術者の,いわば知的な財産であったのでしょう.それにしても,人力で石を滑らかに磨き,そこに何かを描くのは,きわめて時間のかかる作業だったことでしょう.
古代では,素材が貴重なもの,美しいもの,固いもの,永遠なもの,であればあるほど,そこに細工をすることは素材の無駄と余分な労力を消費してしまうのです.素材が貴重な時代にあっては,そこに「何か」を描くことは,その「何か」が消耗される素材や労力よりは,よほど貴重なものであった証であって,それが「美」であり,善きコトバでしょう.古代の人びとが残した,そうした貴重な「何か」のメッセージが,いったい何か,それを「今に・読む」ことができればねぇ.
いわゆる「古」美術品を特徴づけるような「多くの,深い,しかも相当に滑らかな,曲線」をもつ石器ともなると,そりゃとても新石器時代では無理があったのではないでしょうか.どんな造形だって,各時代を特徴づける「技術システム」の存在,という「明確な技術的な限界 -単なる空想では,決してそれを飛び越えることはできないし,それを無理にしようすると結局は「嘘」になってしまう-」をもっています.
「紅山文化」をWikipediaで調べてみましたら,「紀元前4700-紀元前2900頃」とあります.それはあくまで「新石器時代の文化」なのであって,いわゆる青銅器文化とすら,全く無縁でありました.その出土品である「玉竜」とされる翡翠は,これはおそらく呪術者あるいは祭祀者(司祭)の腕輪でしょうか,これは玉石には全く素人のわたしがみても,それは「躍動感」にみなぎっており,まことに「美しい」し,これを造形するためには,おそらく年単位の時間がかかったことでしょうから,それを作ったヒトの意匠と,それを作った努力,誠実と勤勉さ,にはまさに「驚嘆すべきもの」がありましょう.
紅山文化出土品の「玉竜」は,多分,自然の威力の象徴として,司祭の腕にはめられ,重大な儀式,たとえば「雨乞い」とかにその「威力」を発揮したのかもしれません.それは古代人の,自然の内なる生活のあり方,自然力に翻弄されるあり方,と深く密着していたと思われます.たとえば「雨乞い」は,現代からみては明らかな迷信ではありますが,当時の人びとの自然力への「願い」や「祈り」には,切実なものがあったでしょう.そうした生活の切実感,人びとの自然力への期待感,と強く結びついているからこそ,この「玉竜」は「美しい」あるいは「見事である」と,わたしには感じられます.
後世において,竜や鳳凰が,「竜・御」つまり竜の飾りのついた乗り物,あるいは「鳳・輦」つまり鳳凰の飾りのついた乗り物,となって,皇帝の権力の象徴となってしまったとき,それは「単なる飾りもの」であり,権力者の「コケ脅し」の種,要は,ホラー・ビースト,にすぎなくなってしまうでしょう.そこには自然の諸力のいわば「盗人」でしかない権力者の「猛々しさ」はあるかもしれないが,自然な美しさときては,そのカケラも,わたしには感じられません.
鳳凰は,今では神社の神輿の屋根の,キラキラする「単なる飾り」になってしまっています.それに「古」美術性の,そのカケラでも感じることは,わたしにはとうていできません.
この観点でいうと,どんな古美術でも,それを作る人,そしてそれを作る道具,それを作る必要性,がないとできないはずです.とりわけ,モノを作るための手段としての道具はとても大事な要素です.「紅山文化」では,玉石を加工することができるような,どんな道具が使われていたのでしょうか.もし,それが石器だったりすると,細工つまり細かい造形はとても不可能だったでしょう.青銅器はきわめて貴重だったと思われますし,やはり玉石を加工するには鉄器の普及が必要でしょう.4,5千年前の東洋に,鉄器が,しかも装飾品としての石細工に使用するような鉄器が,はたしてありえたでしょうか.
わたしは,自然の事物がもつ,ごく単純な,素朴な美しさ,機能的な美しさ,動的な美しさを深く愛するものです.例えば,イルカが「泳ぐ」姿,野の百合が風に「揺れる」姿,を御覧なさいまし,レンブラントの絵画における人物の「動き」すなわちまさに事件が起らんとするときのその「躍動感」を御覧なさいまし.そうしたわたしの「美意識」の未熟さをお笑い下さいますように.
古代の生活とともにあった,古代の「技術システム」 さて,これまた昔話ですが,河口でゴカイ掘りをしていたら,土器のカケラがたくさん出てきました.細片だったのでよくわからないのだが,何となく表面の模様から縄文式土器かもしれない,と思って,それを家に持ち帰ったら,父が,こりゃ骨壺だろう,さっさと捨ててこい,でした.たしかに,そういわれてみれば,それは縄文式土器にしては薄く,表面の模様もそれほどはっきりしません.縄文式にせよ弥生式にせよあるいは近現代の骨壺であったにせよ,「土器」なるものの時代様式の鑑定法は当時のわたしも父も知るはずもなかったので,今となってはどっちが正しいかは,全くわかりません.
「紅山文化」 -それは『新石器時代』の文化の名称だということをよく意識しておいてくださいね- の影響云々,といわれるものは,これと全く同様のことでしょう.わたしたちは,膨大な数量の過去の人びとの活動の蓄積という,いわばその「墳墓」の上に生きているわけで,そこには当然大量の「祭器」つまり,わたしが川底から拾ってきた「縄文式土器あるいは骨壺」の類,が埋まっているはずでしょう.
さらに「紅山文化」のことですが,そこから出土するのは,彩陶や,農機具としての石器が主で,装飾品としての石器(玉器)のほとんどは,細石器,つまり日本でいうと「勾玉」程度の大きさの,身につける,日本でいうと「お守り」の元祖のような装飾品,といったものでしょう.巨大な,しかも置物になるような装飾品としての「大石器」を,どんな王侯貴族豪族にしても,当時の「手で,人力で磨くしかなかった」手間を考えれば,大量に作れたはずもなかったでしょう.大多数の人びとは木器や土器,せいぜい陶器を日常的に使えただけでしょう.そうした木器や土器,そして陶器は残らずに,石器だけがその地層に残ってしまうでしょう.
残された石器だってきわめて「怪しい」ものになってしまいます.それが埋まっている地層に無頓着に,乱暴に掘り出して,表面に加工して「売る」商売があるとしたら,それがホントに新石器時代のものの残骸か,まったくの贋造あるいは模造か,はその「加工技術」つまり「製法」から判定する外はないでしょう.新石器時代には,磨製石器を作る要領で丹念に磨くこと,さらに素材を先鋭な石器で玉の表面に「傷」をつけて文様を描くこと,それぐらいしかできなかっただろうことは明らかです.そうしてみると,Wikipedia の写真の見事な「玉竜」なども,その起源たるや,きわめて「怪しい」ことになりましょう.
考古学だってずいぶん「痛い目」にあっていますよ.旧石器時代の地層に,新石器時代のものを「コッソリ埋め込み」それを「新発見」として名声を得ようとしたとんでもない「インチキ野郎」がいたのをご存じでしょうか.
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