ポリスにおける自由の起源
自然の存在の原理としての,相互無危害性と相互善行性,そして自由 自然学が明らかにしたように,この自然においては,相互無危害性および相互善行性,つまり共生のロゴス,が自然法の第一の原理である,ということでした.しかし,進化の過程で,たまたまこれを知ったつまり体現した大成功者が現われると,必ずそれに寄生しようとするもの,あるいはそれを攻撃することによってそれから利を得ようするものが現われます.それに対して,やられたらやりかえせ,それが第一の生き残り戦略(ESS)なのですが,それが単なる「敵を撃退する(懲らしめる)」に終わらずに,「殲滅する」ということになると,そこで「血の復讐のロゴス」が発動して,自滅の危険が生じます.
デモクラシー発祥のポリスの1つであったアテナイだって,ペルシアを撃退したまではいいが,ペロポネソス戦争でスパルタを敵に回し,あまつさえ他のポリス(シュラクーサイ)を侵略しようとしてかえって大敗北を喫しました.それが間接的に,当面の競争者たるスパルタにいわば「漁夫の利」を与えることになってしまい,その城壁を自ら毀ち,その覇権に屈することとなったのです.他を支配し滅ぼそうとすることによって,自らの墓穴を掘ってしまったのです.
不正をなすことなければ不正をなされることなし,正義=相互無危害性,それを侵犯しない限りの行動の自由,不正を行わない限りの自由,それが真の自由のあり方です.この自然の法を破ったものは自ら滅びる危険を侵すことになり,ポリスの盛衰は,まさにこのことによって起こったのです.
ポリスにおいて自由とは何か 市民的自由とは何か,@誰にも支配されないことである,と同時に,A誰をも支配しないことです.わたしたちは@を自らにとっての自由であることはよく知っていますが,Aつまり他者の自由を侵害しないこと,他者の自由を尊重すること,つまり自由の相互性を,往々にして忘れてはいないでしょうか.
「自由に」他者を支配するということは,他者の自由を奪うことである,という自明なことを,いわゆる「政治『屋』」つまりポリスを自らの利益のために支配しようとする輩はコロッと忘れて,自らの影響範囲にある人びとを自らの利益に奉仕させることで,その利益から反対給付を与えることによって,彼らを支配しようとします.それが「財産としてのヒトの私有」であり,その典型が奴隷制です.この否定が,真の自由であり自立しており自律していることの基礎である相互無危害性と,真の友愛であるところの相互善行性であり,これが共生の原理です.なお,友愛(相互善行性)とは何度もいってきたように「世話をしあう」ことであり,世話をするということは,価値「再」生産的労働を「行う」ということ,「よい・行い」=ヒトにとっての価値「再」生産に資する活動,ということです.
市民的自由とは,自律と自立であり,その基礎は「熟慮と節度と気概」とに存する しかし,自制心なき子どもたちに,果たしてこれができるでしょうか.彼らは最初,自分の力でつまり自力で自分のやったことの後始末すらできないのです.彼らは結局,回りの人びとを自分の意志に無意識的に従わせることによって,他者を無意識に支配することによってようやく生きることができているのです.ありていにいえば,子どもは生まれながらの暴君なのであって,その「可愛さ」でもって親を支配し利用し,結局は親を「騙して」いるのです.これが自然のロゴスのあり方です.
それは全く無意識的に行われているから,罪することもできず罰することもできない,悪意なき悪意,とでもいえるでしょう.だから,彼らが自立し自律できるようになるまで,彼らには,親「以外」の他人には迷惑をかけることだけはするなよ,という社会からする管理,がどうしても必要になるのです.
美意識だってそうです.誰にも支配されないような,自分だけの美意識を,どうだ,これがオレさまの美意識だ,なんてヒトに押しつければ,押しつけないまでも他人に共感を要求する,果てにそれに客観性を要求する,たとえば勝手に何々派や何々文化の正統を名乗るようなことまでをすれば,さらに他者の美意識を破壊するようなことまですれば,それこそは美におけるファシズムの到来であり,それこそは美意識における暴君の出現にほかならないだろう,とわたしは思います.これは真の探究におけるナントカ学派や,善の探究におけるナントカ宗派やらの,いわゆる精神支配の,その全てにいえることではないでしょうか.
美術クラブでいうならば,それぞれがそれぞれの美意識をあくまで追求する自由があり,それを助け合う,つまりよい点を見出してそれを助長する,万一「変な」点つまり美そのものを滅ぼすような何かがあればそれを端的に指摘し,本人の納得の上でやめさせる,それがほんらいの美術クラブ活動のあり方でしょう.他者の美意識を勝手に滅ぼすようなことだけはするな,去るも自由,来るも自由,なのです.それが自由な美意識の追求,美の探究,ってことでしょう.
このように,賢慮は短慮によって無知に容易に「変わり」,節度は欲望によって貧困に容易に「変わり」,気概は怒りによって野蛮に容易に「変わる」ことに,わたしたちは注意しなければなりません.賢慮とは優柔不断と短慮の中間にあり,節度は放逸と貧困(貪欲)との中間にあり,勇気(気概)とは臆病と野蛮との中間にある,といわれる所以です.
ポリスにおける自由とはまず,法治下において「安全である」ということ 自由とは,誰にも支配されないということと同時に「誰をも支配しない」つまり「誰も奴隷にする必要が<全く・ない>」ということです.また,自由とは,不正をなすことなければ不正を行われることがない,安全であり平和である,ということでもあります.もし,不正をなされることを恐れて,たとえば強盗に出会うことを恐れて,オチオチ外出もできないような社会なら,それは自由でも何でもないでしょう.
したがって,万人が自由であるためには,「不正をなさざれば,不正をなされることなし」という万人が万人に対する平等な保証,法律による統治,法治,安全かつ平和な状態,がそこに成立していなければなりません.自由であるといっても,不正を行うことだけには,法律によって禁止されています.つまり不正だけは,それを「行う」自由は<全く・ない>のです.
「もし」不正を行うことまでが自由ならば,それこそ「万人の万人に対する闘争」が出現するでしょう.それは破れかぶれで自滅寸前のヤクザだけが好むだろう無秩序勝手な戦争状態で,そこでは誰もが,他者を力ずくで支配しようとする「力への意志」がもたらす「死の恐怖」に曝されていて,自由では<全く・ない>状態であり,究極的な不自由状態であり,「復讐のロゴス」だけがモノを言っている,自滅寸前の社会状態でしょう.
こうした,自然のロゴスを巡る対話の「おかげさま」で,古人たちが探し求めていたものが,ようやく明確に発見できたような気がします.すなわち「相互無危害性原理および相互善行性原理」,つまり「自由・平等・友愛」,それがあらゆる「共生の環」の形成原理であるということです.「正義と友愛」こそが,個々人の関係にせよ,家族の関係にせよ,組織の関係にせよ,に内在して,それを「再」生産させ,発展させ,ついには進化せしめるもの,自然に内在する「善・意」,「よく・生きよう」とする意志の現存である,ということです.これが,友たちとの対話からわたしが学ぶことができたものです.
市民的自由の本質とは,誰もが誰をも支配しないことである ポリスにおいては,誰にも支配されることもなく,誰をも支配することもない,それが市民的自由です.つまり,ヒトを支配する王侯の自由というのは,なんら自由じゃなく他人の自由の否定,自己中心的自由,他者への不自由の強制でしょう.
自然においては,全ての事物つまり<不可分なるもの>は,その間のただ一つの<空なるもの>を介して相互作用しあっており,作用があれば反作用があり,他を支配しようとすればその反動によって他に支配されることになるでしょうし,支配するからにはそれを覚悟しなければなりません.それが自然のロゴスにおける,自由の相互性であり相依性です.
したがって,この自然・内・社会において,自由である,ということは,まず,自らの意志によって支配することができるのは自らの身体のみであって,他者を自らの意志によって勝手に支配してはならない,という決意すなわち自制,からはじまるのです.
たった一者や少数者の市民的自由から,万人の市民的自由へ 古代においては,独裁制とはただ1人だけが自由であることであり,寡頭制においては少数が自由であり,民衆制においては多数が自由である,といわれました.多数が自由であることがデモクラシーです.とはいっても,古代においては自由市民そのものが,その支配する奴隷たちにとっての主人でありまた家父長として家族を支配することによって自由であったのでした.古代市民としての自由は,それは多くの不自由人たちの犠牲においての自由だったのであって,それは万人が自由であることでは全くなかったのでした.
現代において,基本的人権が明確に認められることによってはじめて,ようやく個としての自由が,(むろんその大多数は労働者として依然として時間奴隷状態ではありますが)広く認められるようになったのです.まず個としての市民的自由権の平等の概念の確立,それが世界自由市民社会への道,への前提条件です.
「産業システム」の協働体としての「社会システム」,それを支える市民的自由 アリストテレスは,ヒトはポリス(国家,社会)的動物である,といいました.当時,ポリス,都市国家とは,ヒト社会の最大の単位でありました.ポリスは,ヒトの集まりである氏族がまた集まって住むことのできるような,福沢諭吉がいったように会社(産業システム)の集まりとしての社会であり,それは全世界すなわち社会,を意味していたのです.それが.第2の自然としてのポリス=都市国家社会,であり,ヒト社会もまた,自然の神的なロゴス,「不正をなすよりは,不正をなされるほうが,善い」という「善・意」のロゴス,正義と寛容と,によって成立していることが,強く意識されていたのです.
しかし,中世の社会は,この社会の存在のロゴスを,「神から与えられたもの」,つまり不自然なもの,少数の支配者たちだけのもの,たとえば,国王のもの,皇帝のもの,つまり「私有財産」にしてしまいました.フランス革命の理想であった,自由・平等・友愛のロゴスとは結局,自然法としての相互無危害性原理および相互善行性原理への回帰であり,それは市民的自由としての自立と自律の回復に他ならないのです.
「私有財産」としての「奴隷」 ローマ軍の軍旗に描かれた,戦勝をもたらすものの象徴が「金色の鷲」で,ローマ軍団の長が皇帝(インペラトール)で,ローマ軍とは,その実態は,ローマ皇帝の「私有財産」だったのであって,ローマ軍の兵士は退役後に得られるローマ市民権を目当てに集りローマ皇帝に給料をもらって生活している「私兵」でした.神聖ローマ帝国の象徴が「双頭の鷲」,ロシアのツァーであったロマノフ朝も,東ローマ帝国皇帝の後継者を僣称して,「双頭の鷲」を家紋にしています.要するに,軍事権を「私有財産」化して,それを世襲財産にしているのが,皇帝政です.要は,戦前の日本のような,軍事独裁制,をいうのです.日本軍の軍旗が「金鵄」つまり「金色の3本足のカラス」だったのは,ローマ軍の軍旗の,いわば「パロディ」でしかありません.
「自由・平等・友愛」なるフランス革命の理念を実現しようとする当時のコミュニズム,それが「私有財産」を否定するものである,とヨーロッパの君主たちに恐れられたのは,コミュニズムが,絶対君主たちの国家(ポリス)の「私物化」を全く否定しようとしたからです.ポリスを「力の意志」によって支配すること,暴力装置である軍を「私有財産」化<する>ことによって,「死の恐怖」をもたらす「力への意志」でもってポリスを支配することが,独裁制であり皇帝政であって,そうした独裁権や皇帝権の否定が,すなわちポリスの支配権の大衆による「共有」が,デモクラシーであったのです.
アメリカ大統領の紋章も鷲ですが,これはアメリカ固有種である「白頭鷲」.また,大統領職は「私有財産」などではありえませんから,アメリカは一応,帝国では<ない>ということにはなります.しかし,大統領職が軍事統帥権をもつという意味ではアメリカはやはり「帝国」です.
「富の源泉」である「奴隷」を求めて行われた古代の戦争 古代のポリス間の戦争は,あくまで「富を求めて」行われたのであって,それを有体にいえば,「奴隷狩り」そして「身の代金目当て」でした.それが当時奴隷制によって成立していたポリスの業(わざ)すなわち「政治(=少数者による多数者の支配)」の,その延長としての戦争行為だったのです.アテネやスパルタもまた,他の群小のポリスを,その力によって支配しようとしました.当然,戦争をしかけられたポリスの「復讐のロゴス」の目覚めによって,当時の世界大戦であるペロポネソス戦争が引き起こされ,アテネもスパルタも,結局は,こうした戦争行為によって衰退し自滅していきました.
クラウゼヴィッツの『戦争論』は,結局,こうしたギリシア時代の奴隷制を下敷きにした,アリストテレスの『政治学』の延長でしか,政治というものを考えていません.そこでは,近代的奴隷=暗愚な大衆,です.
結局は,巨大「帝国」同士による,「死の恐怖」をもたらす「力への意志」つまり政治的支配権,をめぐる争い,つまり「諸帝国による世界の分割戦」の延長上に,第1次世界大戦が起って,ヨーロッパは一度,崩壊の危機に瀕しました.そうした明らかな失敗にもかかわらず,ドイツに莫大な戦時賠償を要求したので,全ドイツの人びと,要は「暗愚な大衆」の「復讐のロゴス」を目覚めさせ,結局はナチの台頭を許し,第2次世界大戦を引き起こしてしまいました.
現代戦は人類を滅ぼすのみ 万人が万人を法によって平等に支配する,つまり万人が誰にも支配されず誰をも支配しない,という自由市民社会がようやく実現しつつある現代にとっては,いかなる戦争も,暴力によって,「死の恐怖」をもたらす「力への意志」によって,より多くの人びとを支配しようとする「明らかな犯罪」でしかないのです.そして今や戦争は「単なる戦術レベル」やら「単なる政治の延長」やら,要は,暴力団やら今の北朝鮮やらが使っているような「単なるユスリ,タカリの道具」ではすまなくなっているのです.
核兵器,生物兵器,化学兵器,ABC兵器のどれをとっても,それは結局ヒトがヒト自らを滅ぼす道でしかないのです.ヒト全体が滅びないまでも,戦争は多くの無辜の人びと,とりわけ弱者,子ども老人を含めた人びと,に対する無差別な犯罪行為であり,要はテロ行為であって,現代ではいかなる戦争行為も,「人道に対する罪」として裁かれねばなりません.