「共産主義の幽霊」の復権

 

「共産主義の幽霊」とは何か  大学に入って最初に買った外国語の本が『Manifest der Kommunistischen Partei』でした.当時の生協で確か,100円もしなかったと思います.その最初の印象的な一文が,"Ein Gespenst geht um in Europa, das Gespenst des Kommunismus."でした.さてここでいう「共産主義の幽霊」とは何だっのでしょうか.

それはズバリ「自由・平等・友愛」という「フランス革命の理念」でした.当時のヨーロッパ各国の支配者たちが恐れたのは,フランス革命の理念の再来だったのでした.実際,それは1871年の「パリ・コミューン」として,再来しもしたのです.

自由とは,ポリスにおける正義の実現であり,誰にも支配されることなく,誰をも支配することなくよく生きることができる,ということで,相互無危害性原理の実現です.それは当然,万人に平等な人格(自然権)が認められていることであって,デモクラシー(大衆による大衆自身の支配,つまりは,法による「自・治」のこと)の存在を前提とします.友愛とは,相互善行性原理のことで,それは善いこと(価値生産的労働)を行えば報酬がもらえ,それによってキチンと生きることができる,ということであって,つまりそれが「共(同体としての価値生)(的行為)」を保障する原理です.

自由・平等・友愛は,わたしの卒業した中学校の校歌にさえ歌われるくらいで,「共産主義の幽霊」とは,現代の「ごくごく,極め付きのあたりまえ」のデモクラシーの理念であり,その体制下での平等な人格性を認められたつまり奴隷では<ない>人びと,自由市民の自由意志による共同体としての生産活動組織への自発的参加,をいうにすぎません.党派的左翼や党派的右翼は,これが全く理解できていないから,ああだ,こうだ,と言い争っているだけです.党派的左翼も右翼も,コトバを正確に定義することなく,恣意的な解釈でもって,すなわち「自己合理化」のために,マルクスやエンゲルスの著作を「悪用」してきたにすぎません.

 

「剰余価値」を生みだすものは,ヒトの価値「再」生産活動であり,それ以外にはない  マルクスはむろんスミスの『国富論』を下敷きにしていますが,最も影響を受けたのはリカードの「剰余価値」の概念でしょう.資本論第4巻ともよばれる膨大な量の『剰余価値学説史』が残されています.

いわゆる資本「主義」の恐ろしさは,お金がヒトを食うこと,つまりお金「だけ」が自己増殖するために,本来の目的であるお金を使うべきヒトを「食い滅ぼす」という現象結果を引き起こすことにあるわけです.資本「主義」下では,貧困者はより貧困になり,富者がより富者になります.本来,ヒトはお金を奴隷のように使うことによって生きているのに,そのお金を増やすため「だけ」に手段を選ばず,ただお金のためだけに生きる,という,いわば「資本の奴隷」になってしまうことにあります.

ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」ってやつがそれです.主人が奴隷を生活の手段として使うことによってそれに依存し,結局,主人はその奴隷に生活の手段として使われることになってしまう,というのです.結局,資本「主義」社会,人間万事金世の中,でナントカ生き残ろうとすれば,どうしても,お金を,世のためヒトのため自分のために「うまく・使いこなす」ことを覚えないといけない,ということです.

  富が富を生む,資本が資本を産む,つまりヒト社会の再生産過程に投げ入れられた富は資本となって,ヒトの労働力を喰い潰し消費しながら剰余価値を得て,より大きな資本として「再・生()」されます.イキモノとしての資本の「再」生産の仕組みもやはり,わがいうところの「動力学的ハイパーサイクル・システム」としての「存在」なのです.資本主義を克服しようとすれば,この資本の自己「再」生産の「しくみ」をよく理解し,それを制御可能に<する>ことができなければなりません.それこそが『資本論』の主旨だったのでした.

 

「資本」とは「産業システム」の存在様式の1つである  マルクスが考えていた「資本」とは,単なる「お金」の集合ではありません.今でいえば,「ヒト・モノ・カネ」からなる1つの企業体,1つの共同体,1つ組織体(有機体)です.それは結局,1つのイキモノとしての社会,1つの巨大なイキモノとしての「リヴァイアサン」すなわち国家(ポリス),に行き着くはずだったのです.

若いときにヘーゲル左派と出発したマルクスが読んだ,ヘーゲルの『法の哲学』においては,社会は理性(世界精神)をもつ有機体(イキモノ)であり,マルクスの『資本論』における「資本(=産業システム)」もまたそうでした.むろん,社会や資本がイキモノでありうるのは,そこに人間の価値「再」生産活動としての,富を生みだすものとしての「労働」が,存在しているからなのです.つまり,労働者「だけ」が富の少なくとも一次的な生産者なのに,労働者「だけ」がそれを全く知らされずに,貶められ,卑しめられて,あげくの果てに,自らを生みだしたはずの富(お金)に食われている,搾取さえされている,といことなのですよ.

  ホップズの『リヴァイアサン』も,国家(ポリス)を「ビヒモス」や「リヴァイアサン」,つまり巨大なイキモノに譬えています.そして,この社会有機体論の起源もまた,プラトン『ティマイオス』にあります.プラトンにとっては,哲学者がポリスの脳(熟慮の源)であり,戦士層がポリスの心臓(気概の源)であり,一般市民大衆がポリスの胃袋(栄養の源)なわけで,さしずめ奴隷はその手足(労働の源)であったといえましょう.

 

「悪しきダーウィニズム」が作りだした「虚構」としての階級「闘争」  わたしたちが若い当時の「教育」を支配していたのが,戦前・戦中派で,彼らが主張したのが「優勝劣敗」つまり生存「闘争」でした.いわゆる「悪しきダーウィニズム」です.エンゲルスが『自然の弁証法』で「悪しきマルサス主義」と呼んで批判しているのがこれです.

自然において生存競争あるいは「闘争」とは,進化の悪しき半面でしかないのです.ライオンとカモシカの関係で考えてみればよくわかります.ライオンが強くなりすぎたら,カモシカが食べられて減るでしょう.そうなれば生存「闘争」で勝ったとしてもライオンは食物を失って,結局はライオンとカモシカの「全体として滅びる」しかないでしょう.

富裕者階級と貧者つまり労働者階級の関係でも全く同様でしょう.武力すなわち「死の恐怖」をもたらす「力への意志」で強制労働をさせて,安い賃金で働かせられたとしても,生産した商品を買う人がいなくなり,富裕者はその投資を回収することさえできなくなるだろうし,ついには労働者階級からする「復讐のロゴス」によって滅びることになるでしょう.つまり,よき競争やよき闘争とは,もしそれがあるとすれば,相互無危害性と相互善行性の範囲においてのみ,要は,お互いを傷つけることなくしかもかけたコストに見合う報酬がえられる限りにおいて,はじめて意味があるのです.

受験競争だって全く同じです.時間と労力をかけて実生活に役に立たないような雑多な知識を詰め込んで,一時的には生き残れたとして,中・長期的にみた場合,長い人生において,それが一体どれほどの見返りをもたらしたでしょうか.当時は,こんなにも簡単なことにさえ,気がついていません.どうしてもわれら貧乏人は,偉い人つまり「先生さま,お役人さま,お坊さま,お医者さま」のおっしゃるままに,だったのでした.

 

われらの内なる「無知と貧困と野蛮」の克服  わたしたちにとって結局,自然法,つまり「よき・生き方」の存在に関する「無知と貧困と野蛮」こそが,滅びに至る道,に他ならないのです.そうした自然法に関する「無知と貧困と野蛮」を滅ぼすために,生活の知恵の獲得のためにこそ,富をよく使うべきで,それが資本「至上主義」克服の道でしょう.

今,エンゲルス『自然の弁証法』を精読し,注釈をつけ,現代メタ自然学の観点から再整理しています.エンゲルスはその『手紙』で,進化の法則は「最適者生存」である,としていわゆる生存「闘争」による「優勝劣敗」つまり「マルサス主義」をキッパリと否定しています.

社会「主義」にしても,共産「主義」にしても,「もし」そうした理想が現代にとっても理想でありうるならば,としてですが,それをホントに実現させようとするならば,それ以前に,まず「自由な個々人の存在」が実現していなければならない,ということなのです.しかし,現実の社会「主義」国家とやらではどうだったか.

それは支配者であるところの,「共産党」を名乗る権力亡者あるいはそれに連なる官僚そして軍,彼らだけが自由であって,しかもその自由たるや「大多数を『支配する』自由」つまり「不正を公然と行う自由」でしかなかったのだ,ということです.それは,詐欺師あるいは大衆煽動家(デマゴゴス)だけが,大衆を一方的に支配する自由をもつような国家,でしかなかった,ということです.マルクス,エンゲルス,あるいはレーニンもそれに含めてもいいのかもしれないが,彼らの思想は結局,デマゴゴスたちに「悪用された」だけだったのではないかということです.

「プロレタアート独裁」という政治概念は,それが登場した当時すぐ,バクーニンによって,その実は共産「主義」政党による労働者の支配にすぎないのではないか,という批判に曝されました.それがホントのこと,現実のこと,になってしまったのでした.

なんにせよ,広義の技術システム,よく生きるための生活の知恵の体系,が真に世のためヒトのため自分のために役に立つのは,誰もが自由であること,つまり平和であってこそ,のことなのだ,ということです.相互無危害性原理および相互善行性原理は,自由・平等・友愛・平和,の原理と等しいのであって,その実現こそ安全かつ最適な社会のあり方なのだということです.

 

資本主義克服の道,それは現代デモクラシーへの道であり,社会システムと産業システムの,より多くの人びとによる共有でありその制御である  マルクスもエンゲルスも,今でいえば一種のジャーナリストだったわけで,彼らのいう「闘争」というのは,言論による「たたかい」にすぎなかったのでした.結局,出版禁止とかで,彼らは当時比較的「言論の自由」があったイギリスに亡命し,イギリス市民権を獲得し,そこでようやく著作を出版することができました.それが全ヨーロッパに広まったわけです.

イギリスのパスポートの威力は絶大だったので,ヨーロッパ保守勢力は彼らを逮捕できなかったのです.結局かれらはイギリスで死にます.あとの顛末は,第1次世界大戦へ,第2次世界大戦へ,そして冷戦下における第3次世界大戦すなわち核戦争の恐怖へ,というわけです.

彼らの晩年の著作においては,資本主義の「諸矛盾」とりわけ「恐慌」の周期的発生が正確に描かれています.そうした諸矛盾は,一つの社会病なのであって,社会全体がそれを「克服すべきもの」であったのです.彼らの計画経済とは,今でいえば,どんな会社もやっているだろう,ホントに人びとが必要としているものを適切な量だけ生産する,ムリ・ムダ・ムラを排除する,といういわばマーケット・リサーチに基づく生産計画の立案にすぎないし,彼らのいう国有化は,現に日本でもやられたような,破綻回避のための,いわば資本が「金儲け」に走りすぎて,無計画な過剰生産に陥ることによって起きる「社会の病気の治療」として,のことなのです.社会貢献,会社の社会的役割の自認,に至っては,それをやらない企業,社会的理念なき企業は,今や一人前とは見なされえない状況です.

彼らは,現代でいう違法行為つまり他者に「危害を与える」行為は全くしていないのです.エンゲルスにしても,現在の「ドイツ社会民主党」に帰属し,その1員として死にました.彼らは革命家でも何でもなかったのです.しかし,彼らは「諸悪の根源」であるかのように言われ続けました.

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