東日本大震災と福島原発事故
–現代技術システム批判の観点から-
1911.3.11,2万人の死者をだした東日本大震災から,日本のみならず世界の様相も一変しはじめたと思います.一人の労働者としてまた技術者として半生を過ごし,これから一人の世界自由市民としてメタ自然学の探究者たろうとしていたわたしにとっても,これは1つの大きな契機でありました.
また福島原発事故は,日本の「技術システム」の振りまいてきた,いわゆる「安全性神話」にも大打撃を与えました.原発事故が起きるとしたら10万年に1度の小惑星衝突による津波ぐらいによるのであって,そうした津波被害などは考える必要がない,原発はそれほど安全である,と主張し続けてきたといわゆる専門家たちはただ「想定外」を繰りかえすばかりで,すっかり信用を失ってしまいました.
「ヒトがそれを意識しなければ,それは存在しないも同然である」,これこそ古い「手・垢」のついた「ヒトの自己中心主義」であり,いわゆる「悪しき観念論」の最たるもの,でしょう.いわゆる専門家が「想定外」と称するものが「実際に」起ってしまったのですから.
この自然は動的な絶えざる変化の内にあり,この自然において永遠なもの,神的なもの,不死なもの,不変なものは,少数の自然法則以外には,全く何もないのです.これを忘れておいて原発の安全性などが主張できるはずはありません.
実際,この大地(地球)は日夜動き続けています.人はそれを全く意識しません.ヒトが意識しないものはこの世には存在しないのだ,という「迷・信」ゆえに,教会は「地動説」を広めようとしたガリレオ・ガリレイを弾圧して平気でした.
地球自身自転し,その上に乗る大陸も大洋もまた,日夜非常にゆっくりとではありますが動き続けています.地球の自転と同様に,人びとはそれを全く意識しません.ウェーゲナーが「大陸移動説」を唱えても,最初はそれを嘲笑しました.
「ごく最近」では1994年に,スマトラ島沖でM9の地震が「実際に起きた」のに,意識しないものは存在しない,あるいはスマトラ沖で起ったからもう日本じゃ起らないだろう,と楽観し「無・視」を決め込んできました.しかし「全く同じ原理」によって,3.11大地震と大津波が起ってはじめて,こうした大地震や大津波が「きわめて頻繁に(1000年というのは地球史のスケールにおいてはごく短い周期なのです)起っていた」ことに改めて気づいた,というお粗末さでした.
目次
相互無危害性(安全性)と相互善行性(最適性)が自然の存在の原理である