安全かつ最適な「技術システム」を育てなければならない
それにしてもやはり,自然の内に生き延びようとすれば,相互無危害性,安全性,正義,他を傷つけることなく他から傷つけられることもない,それこそが,自然と共に,自然の内において存在する,そのことにおける「第一の優先条件」なのです.ようやく,既往を省みて,これからどのように「自然と・共に・よく・生きる」か,どんな生き方が自然か,つまり「安全かつ最適」か,を考えられるようになったことで,まぁココロを慰めることといたします.
一頃流行った,ハリネズミ武装論やら核武装論だってそうです.核武装は原発の安全管理なんかよりも「余程金がかかる」ことは確実です.つまり,軍拡競争はそれ自身に金がかかって,「もし」それが(悪い意味で)役に立つ時がきたら,結局,それは「自滅の道」にすぎません.
今の巨大原発が日本の「核武装」の代替あるいは見返りとしてアメリカから供与されたものであることは明らかです.日本型の災害なんか全く考えていなかったのです.それが今回の「おそまつな」原発事故の,最も本質的な原因です.
環境に「死の灰」をふりまいた水素爆発だって,あれは最初のステンレスに代えてジルコニウム合金を採用したからで,その理由が,中性子吸収率が少ないから,という「安全性よりも目先の効率を優先する」考え方がモトです.目先の利益を追求して,その結果「万一」事故があったら,どれだけのコストがかかるかをすら,計算していないのです.ホンキで核武装や原発推進をいうなら,原発の安全性の確保のために,より安全な実験炉や実証炉などの「原点」に戻って,その金を投資したほうが余程マシでしょうにねぇ.
ニッチに集中しすぎると,一点集中は,一発当るとそれはいいでしょうが,外れると危険ですよ.環境が変わるとそのニッチに「適応しすぎた」種は滅びるしかない.多様性がいわれるのはこのことによるのです.
成功からもたらされる利益のホンノ1割を,多様性の(その根元に潜む普遍性の)探究,に振り向けるだけでいいのです.たとえば,今回の原発事故.後知恵だけど,その損失を1兆円として,その1割の1千億円を「もしも」の場合の安全管理システムの「カイゼン」に振り向けていたら,どうなったと思います? 安全性(=相互無危害性原理)は全てに優先する,を忘れた,ケチッタ,そのあげくの今回の事故です.
NASAだって,安全性確保にかけるホンノわずかな費用をケチッタために,チャレンジャーの大事故を引き起こして,潰れそう(潰されそう)にまでなりました.今回の東電の安全管理システムの,大地震や大津波がなければ顕在化しなかっただろう「些細なしかし致命的な欠陥」が,大事故に繋がるのと全く同じことでしょう.
環境適応能力,最適化技術がより「汎用的」あるいは「普遍的」そして「より安全(安定的,表面的に何が変わろうが,その本質は同一)」であればよいわけです.たとえば,ヒトが「衣服を着る」ということ,あれは汎用的な行為であって,多様なライフスタイルの源泉でしょう.衣服はそれを,防寒にも,防暑にも,防御にも,異性を惹きつける飾り,に至るまで多様に,変容させることができます.コンピュータだって,その原理が自然の事物の「数・量」に関する情報を処理する,という自然のロゴスにおいて普遍的な「行い」であったからこそ,スパコンから携帯電話まで,多様に変容することができたのです,