進化論的に安定な生き残り戦略の発見

 

互酬性と「血の復讐」のロゴスと  現代自然学は,イノチあるモノの「行動の構造」の中に,おもしろいものを発見しました.それは進化論的に「安定な」生き残り戦略(ESS: Evolutionary Stable Strategy)の存在です.つまり,それ以上の最適な戦略が「未だ」発見されていないところの自然界における「今のところ」最適な戦略,という意味です.その内容は,いわゆる「しっぺ返し」で,「やられたら,やりかえせ」であり,「目には目を,歯には歯を」ということです.

  これの<よい>方面は,「互酬性」として知られています.<よい>行いに対してはそれと等価な<よい>行いでもって応えることです.ヒトは贈物をされたら,その返礼として,贈物をせざるをえません.このことはほとんど本能に近い衝動です.贈物をもらってその返礼を全く「行わない」のは無礼ですし,それは不正であるとすら感じられます.そして,返礼しない人,それによって不正を「行う」は,贈り主の愛情を失う,という罰を与えられることになるでしょう.

贈物を交換しあうことによって,人間関係が<よく・なる>ことは,古来,経験的によく知られています.「よい・行い」をなされたならば,それに匹敵する「よい・行い」でもって応える,これが相互無危害性と相互善行性であって,それによって,よい・関係性つまり協働態が成立することになるのです.現代においては,わたしたち労働者にとっての「善・行」つまり「よき・行い」とはすなわち労働であって,わたしたちは「労働する」コトすなわち価値生産的活動を「行う」ことによって雇用者に貢献し,その対価としての労賃を得ることによって生活していることは,よくご存じのことでしょう.

しかし,この互酬性には負の側面,<よく・ない>側面があります.それは,不正をなされたならば不正によって,期待を裏切られたならば裏切りによって,それにこたえよ,ということです.不正とは「罪」であって,その罪には,それにふさわしい不正であるところの「罰」が伴います.ヒトはある意味で,この罰とよばれる不正を恐れるから不正をなさない,ともいえるのです.対等な力をもつもの同士であれば,お互いに不正をなさない,不正はそれに対応する罰をともなうはず,という暗黙の了解があることによって,よい協働関係を保つことができます.

しかし,自然界においては,より強力なものからなされた不正()は,簡単にこれを罰することができません.捕食者と被捕食者,支配者と被支配者,権力者と「非」権力者,力をもつモノと力を全くもたないモノ,といった非対称な関係性がそうです.この場合は,被捕食者はまず補食者から逃げます.それが成功しない場合にのみ,それこそ必死で反抗します.それがたまたま成功することがあります.いわゆる「窮鼠猫を噛む」ということです.

これがヒト社会にそのまま持ち込まれたのが「血の復讐」のロゴスです.古代社会においては,とりわけ,氏族に対して行われた不正に対してその氏族が全体として復讐しないことは,氏族にとってきわめて不名誉なこととされ,それが氏族間の戦争の原因になりました.現代においては,労働者階級に対して広範に行われた不正すなわち「搾取」に対する「復讐」としての階級闘争が激化したことも,よく御存知のことでしょう.

しかし,大量破壊兵器としてのABC兵器の存在が,戦争を「単なる殺し合い」つまり人類の自滅への道にしてしまいました.通常兵器でさえ,過去の氏族間戦争のいかなる武器とも桁外れな「最終兵器」とでもいえるような殺傷能力をもっていますから,今や,いかなる戦争も「単なる殺し合い」であり,単なる人類の「自殺行為」にすぎません.

人間界は,このような「血の復讐のロゴス」を克服するために,自然が産みだしてきたこのESS以上の,最善・最適な生き残り戦略を「発見」する必要があります.それが「相互無危害性および相互善行性」原理だ,正義と友愛だ,自由・平等・友愛・平和だ,とわたしはもうしあげてきたのです.

また,これは,仏教にも,キリスト教にも,取り入れられてきました.すなわち,仏教では,「悪しき行いをなすなかれ,よき行いをのみなせ」,であり,キリスト教では「汝の隣人を愛せよ」であって,「血の復讐」のロゴスの発動を避けるものが「右の頬を打たれたら,左の頬をさしだせ」です.アリストテレスは,キリスト教がそれを発見する以前に,夙に「不正をなすよりは不正をなされるほうがよい」といっています.

 

自然の存在は本来善悪無記である  仏教には,「善」それに対立する概念として「悪」,善でも悪でもない,という概念として「無記」があります.自然のロゴスは,不垢・不浄であって,それじしん善でもなければ悪でもありません.

自然の存在に,もともと善/悪などはありません.それこそ善悪無記ですから.例えば.蚊のメスは子孫を残すためには動物の血を吸わねばなりません.かれらの生態つまり生き残り戦略そのものが動物であるヒトにとっては「害・悪」と見られることになります.この観点からすれば,「善・悪」の別とは,ヒトが作り出したヒト中心主義的な相対的な観念にすぎない,とさえいえるかもしれません.

とはいえ,自然状態は,「無・垢」,俗世間の「垢()」が全く染み込んでいないこと,「至善」つまり「完全な善」,とは全く違います.子どもが無垢,つまり悪が染み込んでない完全な善性を体現している,などというのは,マリアさまに懐かれたイエス・キリスト,つまりヒトは全知全能の,自然を超越した神,のその似姿であるとするキリスト教が振りまいた幻想でしょう.自然学でいえば,ヒトは「裸のサル」で,子どもはその「裸のサルの子」でしょう.

しかし,ヒトは自然児であると同時にポリス的動物でもあります.ヒトは,社会集団(ポリス)を作ってはじめて,生きることができるのだから,ヒト社会・内・ヒトの行動のありかたとなると,まるっきり話は違ってきます.組織や会社や国家や社会そのものが,この自然の中で存続しようとするためには,相互無危害性と相互善行性原理が必要である,とわたしは強調してきました.つまり,お互いに傷つけあい滅ぼしあうような行動はやはり「悪」としてこれを罪し社会から排除するという罰を与えなければなりません.逆に,お互いに協力しあうような行動を「善」としてこれを推賞しなければなりません.

この観点からいうと,善悪無記な子どもは,ある意味では善にも悪にもなる「危険な」存在なのです.彼らは,好きなもの同士だけでとにかく仲間を作れ,そしてやられたらやりかえせ,という自然の存在のロゴス,ようは生物種としての生き残り戦略,を深く体得していますからね.彼らの自然本性をそのままにほったらかしにしていたら,「仲良しグループ」同士の生き残りゲーム,ようはイジメやら小規模な戦争ゲームやら,がはじまるでしょう.ですから,傷つけあってはいけません,他人を傷つけようとすればもっと傷つけられますよ,だから,汝の隣人を愛しなさい,右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい,と「無危害・行」や「善・行」つまり組織体の「安全性確保」の方法と,友だち作りの方法である「友愛と寛容」を教え込まなければならないのです.実際,子ども同士「仲良くしなさい」と教えるのがいかに難しいか,小学校の教師だったら,よく知っているはずでしょう.

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