相互無危害性と相互善行性原理の発見

 

自然の存在の原理としての相互無危害性と相互善行性  あまりにもあたりまえすぎて,人びとが気づいていない自然のエートス,自然の実践的理性,自然の倫理というべきものがあります.あるいはそれを,共生のロゴス(実践的論理すなわち倫理)ともいうこともできます.それらを再度述べますと;

0)相互無危害性の原理: お互いに,傷つけあってはならない,不正(危害を与えること)をなすことも,不正をなされること(危害を与えられること)もないこと.要は,一緒に暮らすことができるためには,お互いが「正・義」を守っていて,お互いが安全でいなければならない,ということです.

1)相互善行性の原理: お互いに善いことをしてもらったら,善いことでお返しをすること.働いてもらったら,それに対して得られた成果から分け前や報酬を払うこと.これは民族学では「互酬性」として知られています.これを,共(同体的)()産の原理,ということができます.

普通は,この二つ,相互無危害性原理と相互善行性原理,によってあらゆる社会や組織が成立しています.しかし,目先の利益に駆られて,そうした原理を守らない輩,不正をなす輩,が必ず出てきます.要は,共同体に「不正」をなす輩,「寄生」しようとする輩が出てくると,いろんな問題が発生するので,次の原理が必要になります.

-1)血の復讐のロゴス: 目には目を,歯には歯を.やられたら,やりかえせ,です.これが一般やっかいなシロモノで,やられたら,やりかえす,やりかえされたら,またやりかえす,・・・ということが永遠に繰り返し起ると,つまり行為論的ハイパーサイクル・システムが制御不能になると,ついに全面戦争に陥り,それがその共同体の「滅びへの道」となります.

これらが,行為論的なハイパーサイクル・システム,つまりイノチあるモノどもの共生形態,の「形成の原理」なのです.ふつう共生とは,0から1の間に成立します.

特殊な場合として,他者に危害を加えられないよう,そして,危害を加えたらより大きな危害があるよ,という「復讐のロゴス」に,その生き残り戦略をとっているのにハリネズミがあります.彼らに手を出すと痛い目にあうことがよくわかっているので,誰も,ライオンだって,余程のことがなければ手出しはしません.

しかし,彼らの生き残り戦略が成功しているかというと,必ずしもそうでもないのです.針が重荷になって,軽快な動きができない,森林が火事になっても逃げおくれてしまう,ということでは必ずしも適応に成功しているとはいえません.それに針をおったてるのに時間がかかるから,弱い腹なんかに食いつかれたら,もうどうしょうもありません.つまり,「武装」にコストをかけ過ぎているので,「逃げる」機能,つまり,リスク回避機能が低下しているのです.結局,ハリネズミ武装論などは,亡国のモトでしょう.

 

古代ギリシアにおける相互無危害性と相互善行性原理の発見  エンペドクレスが,自然の全事物に内在する法,つまり法則性を,「愛」と「憎悪」で説明したときから,自然のロゴスとヒトのロゴスとの関係性における「一種の混乱」は,はじまってしまいました.エンペドクレスのいう「愛」とは,モノ同士が引き合うこと(牽引)であり,「憎悪」とは,モノ同士が排斥しあうこと(斥撥)に他ならなかったのです.

近代科学,とりわけニュートン力学は「()引力」と「斥()力」によって自然の万物が成り立っている,と説明して,「愛」と「憎悪」とは,人間中心主義的価値から全く解放されて,「引力」と「斥力」に還元されました.そこでおさまらないのが,人間(中心)主義だったのです.自然学的観点を,「還元主義」と嫌うようになってしまいました.つまり,自然のロゴスとヒトのロゴスとの「泣き別れ」現象が発生してしまいました.

自然学は自然学で,ヒトにとっての諸「価値」つまり<よい/よくない(悪い)>を自然学的に説明する努力を怠ってきました.たとえば,「美」であることは,美学にまかされ,「善」であることは狭い意味での,いわゆる講壇哲学たとえば,西田幾多郎の『善の研究』などにまかされてきました.

文「科」系で,とりわけて人間「中心」主義の薫陶を受けた人は,自然の原理であるモノ同士の「相互性」あるいはモノ同士の「対等関係」をよく忘れるのです.たとえば自由といった場合,自分「だけ」が支配されることのないことであり,自分「が」他者を支配する自由はある,と思っているでしょう.ところが,支配される側からすれば,支配されるかわりにその見返りを求めるでしょう.見返りが全くなければそれに対する復讐,下克上,を考えるでしょう.結局,それは相互自由の崩壊を導き,不自由な支配関係,親分子分の主従関係,がそこに残るだけでしょう.

善行性すなわち「愛」もまた,自然においてそれが存在しうるためには「相互」善行性でなければなりません.愛とは,世話をすることです.母が,危険がないように,その子どもを見守り,食物を与え,下の始末をする,それがキリスト教的愛(アガペー)です.したがって,友愛とは,相互に対等に,世話をしあうことにほかなりません.危険があればお互いに警告しあい,得られた食物を平等に分け合う,それが友愛のあり方です.集団で狩りをする動物においては,相互に能力に応じて働き,それが大成功した暁には相互に必要に応じてとることができる,弱者とりわけ子どもは働かなくても分け前を与えられる,ということ(それが共産主義の理想でもあったことを思い出してほしい)が,自然状態においては成立する場合が,稀にはあります.それがユートピア幻想になっていったのかもしれません.

 

古代仏教における相互無危害性と相互善行性原理の発見  古代インドにおいて仏教徒が発見した「4つの真理と8つの正しい道」を現代に敷衍すれば,正義と友愛の原理に基づいて,現実の諸問題を正しく認識し,正しい解決法を「算如と工夫」でもって編み出し,その解決法を正しく実践する,ということになります.いわゆる「現代の・偉い人」たちが,これをキチンと行っていれば,原発事故なんか,毛頭起らなかっただろうに,とわたしは思います.

諸悪莫作 諸々の悪行をなすことなく,

修善奉行 善き行いをのみなすようにすれば,

自浄其意 そのココロを自ら清らかにすることができます,

是諸仏教 これが諸々のよき人(ブッダ)の教えた法であります.

これは,相互無危害行そして相互善行,つまりヒト社会の存在原理である,自由・平等・友愛,そして永遠平和の法,を勧めたのです.

怨みに対して怨みをもって報いれば怨み止むことなし,ともいわれます.これは「血の復讐」のロゴスの否定です.

ヒトはキチンと相互無危害性と相互善行性の「種子」を宿して生れてきております.しかし,それに基づく「賢慮と節度と気概」とそれに対抗する「無知と貧困と野蛮」とは,ほんの紙一重の差しかないのです.賢慮は短慮によって容易に無知に代り,節度は欲望によって容易に貧困に代り,気概は怒りによって野蛮に代るでしょう.そのとき,そこに武器があったら,それこそ「血の復讐」のロゴスにより滅びの道が出現するだろう,ということです.

 

「血の復讐のロゴス」の克服による永遠平和への道  ヒトがこれだけ地球上にはびこるにいたるまでにあたっては,「血の復讐」のロゴス,つまり「やられたらやりかえせ」が,大きな役割を果たしてきたのは否定しえぬ事実です.要は,敵を徹底的にたたきのめすまでやる,ということで,ローマ帝国もサラセン帝国もモンゴル帝国も,世界帝国として成立しました.このように「復讐のロゴス」が「たまたま」ですが,しかし「大成功」することもあるので,きわめてやっかいなのです.

ローマは1日にしてならず,といわれますが,彼らが成功したのは,戦争に負けなかったからではなく,負けたら勝つまで,敵を滅ぼし尽くすまで,戦争を,つまり不正に対抗するより大きな不正を,行い続けた,ということです.彼らが長年のライバルであったカルタゴに勝ったとき,彼らは何をしたでしょうか.カルタゴ(ポリス)を焼き滅ぼし,その後に一木一草も生えないように,30センチの厚さで岩塩を敷きつめました.

ライバルのいなくなった軍の独裁つまり帝国となったローマは,こんどはゲルマンと戦争を始めるのですが,彼らが奥深い森林に逃げ込んで出てきません.結局,ライン川とドナウ川を国境に定めて,そこにポリスを築くのです.それが現在のヨーロッパの「はじまり」になりました.ライバルを失ったローマは結局,ゲルマンの傭兵によって内部から自滅し,彼らが立てたポリスだけは残って,それが現在のヨーロッパ諸国になっていったのでした.

現代におけるローマ帝国,それはアメリカ合衆国,というわけです.ただ,現在はライパルとしてヨーロッパ,中国が「再」登場していますからね.もういかなる帝国も,また独裁も,生き残りえないだろうと思うのですが.

人びとを自滅の道に至らせる「迷信」あるいは「狂信」とは,インチキ宗教あるいはインチキ政治イデオロギーが,ヒトの本能とりわけ「血の復讐」のロゴスを「悪・用」して行う「洗・脳」の結果ですよ.要は,今までが「戦争と革命の世紀」の延長で,いわゆる「共産主義の幽霊」の復活を恐れてか,軍拡競争に金をかけすぎて,安全確保のために,平和維持のために,つまり社会が孕む諸リスク回避のための機能の向上に「金をかけなさすぎた」のです.

しかし,地球がこのように狭くなって,たった一つの地球になってしまい,ABC兵器とよばれる大量破壊兵器が発明されてしまった暁においては,戦争やテロとは,単なる「殺し合い」にすぎず,ヒトがヒトを滅ぼすだけのこと,つまりヒトがヒト自らを滅ぼす,その所以にほかなりますまい.この「滅びに至る道」だけは,もう二度とは辿るまい,というのが,わたしのささやかな「希望」なのです.

そのためには,自らのものを含めて,過去から現在に至るまでの「亡びへの種子」を徹底的に洗い出し,反省し,それらを,それらがまだ「種子」であるうちに,キッパリと捨て去ることができなければならない,と思うのです.誰もが,自由・平等・友愛,そして平和への道,を自らの内に見出すためにもね.

カントのいう,この世に「美しい秩序(コスモス)」をもたらすものとしての「内なる道徳律」にも,「己の欲せざるところを人に施すなかれ」あるいは「他者を自己の(欲望の実現の)手段とすることなかれ」とあります.それはつまり,実践理性による反省であり相互性の認識,なのです.

道徳的無知つまり野蛮は,相互性つまり反省を知らないことからきます.子どもがそうです.とかく自己都合で行動し,他人(親もふくめて)の迷惑なんか考えていません.それは徹底的に弱者だからこそ許される「甘えの構造」なんですが,そうした子どもたちも,叱られたり,子ども同士でケンカしたりして,何をなさざるべきか,つまり「してはならないこと」を学んでいきます.「汝じしん(のなすべからざる)を知れ」「自省する」,それが大人になることであり,良識(ボン・サンス)の獲得であり,「啓蒙」といわれる所以です.

しかし,ヒトは時々,自然状態というか野生というか,に戻る時がありますね.「恐ろしいもの」「得体のしれないもの」に出会ったら,まず逃げてみる.それに追い詰められたら,叶わぬまでも「必死で」「自暴自棄で」抵抗しようとする.それが「窮鼠猫を噛む」という事態です.

現代でも,いろいろ「恐ろしいもの」「得体のしれないもの」,「ビヒモス」,「リヴァイサン」,わたしたちを「死の恐怖」をもたらす「力への意志」で支配しようとしている<かのような>巨大なもの,ってありますでしょ.巨大資本とか巨大国家とか巨大「科」学とかがそうです.「長いものには巻かれろ」というのではなくて,そうしたものは徹底的にこれを,その自然本性において,「解・明」しなければなりません.そうしたものどもの「解・明」の努力によってはじめて,彼らの自然本性としての真理,自然の真のロゴス,は獲得され,ついに「真理はわれらを自由にする」でしょう.

アリストテレスに「不正(他者に危害を与えること)をなすよりは,不正をなされるほうがよい」というコトバがあります.不正に応えるに不正をもってすれば,復讐のロゴスは,お互いが滅び去るまで止むことがないでしょう.古代的賢慮(プロネーシス),すなわち非武装抵抗の思想,がこれです.ガンジーはジャイナ教徒だったといわれますから,無危害性=善性=いかなるイキモノをもこれを殺してはならない=いかなる不正もこれをなすなかれ,が身に染みついていたのでしょう.

しかし,若い当時の「わたしたち」は,こうしたことは「頭では」わかっていても,しかし若い感性においては,不正に対しては不正で応えるのが当然だ,それをしないのは単なる臆病だ,と思っていたふしがあります.不正に抵抗し,それに耐え,あくまでロゴスにおいて抗議し続ける,ということがいかに勇気と忍耐力と持続する意志の要る行動であるか,がわかっていなかったし,またそうした,勇気を学ぶ時間も忍耐力を養う時間も持続する意志を形成する時間も,十分に与えられてはいなかったのです.要は「未・熟」だった,という他はありません.

 

わたしたちは全てよい・生れ(nature)とよい・育ち(nurture)をもっている  ヒトはその内部に,40億年の進化の果てに獲得した,よき自然本性を宿して生れてきます.これをnature(生まれ)と呼びます.ヒトはその外部において自然環境をもっていて,それと断えず相互作用しています.これをnurture(育ち)と呼びます.ヒトが生れ育つには,「よい・生まれ(good nature)」も「よい・育ち(good nurture)」も必要不可欠なのです.「よい・生まれ」をもっていない種子はそもそも自力で生きることすらできないし,「よい・生まれ」を持っていたとしても,「よい・育ち」がないならば,生き残ることはきわめて難しかったでしょう.

お互いに,「よい・生まれ(自然本性)」と「よい・育ち(自然環境)」を持っていたからこそ,今までここまで,生き延びることができたのです.わたしたちはそれぞれが,生命40億年の進化の果ての立派な「生き残り」なのです.わたしたちは自然のイノチが連綿と40億年の永きにわたって生きてきたその結果として「今・ここ」にいるのです.これを有効に使わない手はありますまい.

 

相互無危害性と相互善行性原理に基づく「よき・ライフサイクル」の確立を  ところで,その昔,4住期の話をしましたよね.覚えてらっしゃいます? その4住期を,誰のための「苦労」か,という観点から見直すと,

教育期: 自己の確立のために,苦労する期間.

家住期: 自分を含む家庭の維持発展のために,苦労する期間.

林住期: 自分のため,家族のため,あるいは,ヒトのため,世のために,残りの人生で,自分が一体何をなすことができるかを,苦労しつつ探究する期間.

遊行期: その結果を,人びととの出会いと対話によって,苦労しつつ世間に広めていく期間.

むろん,いろいろな人生があってよい,と思います.それこそ,相互無危害性(自他をその行為の犠牲にしないこと)が守られる限りは,自由です.一生を自らの確立に使うヒトがいてもいいのではないでしょうか.自らの一生なのですからね.一生を,自らのみのためだけでなく,家族のために,さらに,世のため,人のために使うことができるヒトが少しでもいれば,それでいいのです.でも,自己をあくまで追求することが,それこそ自然に,世のため人のためになるような社会があれば,もっといいでしょうね.

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