自由の概念の発見
相互作用すなわち「行い」のあり方の分類 1つの<不可分なるもの>(個体)は,「もし」それがただ1つであれば,永遠に<空なるもの>(存在の場)の内に運動し続けることができるでしょう.無人の野を行く孤独なヒトの如くに.それは完全に自由ではあるが,いわば空しい自由でしょう.「ただ1粒の麦,もし死なずば,ただ1つにてありなむ」といわれる通りに.
しかし,それが他の<不可分なるもの>に出会うと,そこで相互作用としての相互的な「行い」が起きます.その相互作用としての相互的な「行い」の型にもいろいろあります.典型的なものが以下の3つです.
-1レベル: 2者が相互に危害を与え合うことによって滅ぼしあうあり方.この中には,他方が他方を滅ぼすことによってより大きくなる,というあり方つまり寄生,征服生あるいは捕食,というあり方も含まれます.
0レベル: 2者が相互に何もせずにただ自由に出会いまた自由に分かれていくだけ,それが完全に相互無危害なあり方.
1レベル: 2者が相互に世話しあうことによって1つの動力学的ハイパーサイクル・システムを新たに形成し,新しい何かを生みだす,それが相互善行的なあり方.
素粒子レベルだと,だいたいこの3つに分類されるのですが,もっとマクロなレベルだと,この-1から0を経由して1に至るまでの間に,いろいろなあり方がありえましょう.
わたしたちヒトにとって自由というのは,「だいたい」0(完全なしかし「空しい」自由,お互いに何もしない,永遠の他人同士)から1(密接な友愛関係,共同生活)の間で,要は,お互いにとって有意味なモノゴトや情報(モノゴトに含まれることもある)を交換して,お互いがよい影響を与え合うことです.
0から-1の間となると,結局,どちらかが傷ついてしまうだろうし,いわゆる漁夫の利を占められて双方が同時に亡びる,ということもあるわけで,これを「自・由」とはいわずに,むしろ「自・滅」というべきでしょう.だから,「自・由」であり続けようとするならば「自・滅」だけは避けねばならないことなのです.
わたしたちはその自然本性において自由である 自己の自由な行為の限界は,他者の自由を侵害するという「悪しき」行為において「のみ」あるのであって,わたしたちは本質的には,その自然本性つまり自由と友愛を求めるというその限りにおいては,全く自由なのです.社会生活においては,「悪しき」行いは法においてにせよ道徳的においてせよ「罪」せられ何らかのかたちで「罰」せられます.たとえば友人に対して「嘘」をついてその友人が何らかの危害を被った場合には,その友人の自由を侵害したことになり,その嘘がヒドイばあいは告訴されて友人関係を失い,社会的信用を失い,社会的には自滅する他にないでしょう.
そうした他者の自由の侵害行為つまり「悪・行」,それ以外には,わたしたちは本質的に自由に,自己実現を目指した「行い」を「行う」ことができます.よき自己を実現することの自由,それが自由の本来のあり方でしょう.
自由・平等・友愛の理念 フランス「革命」の理想とは,自由・平等・友愛であり,自由とは,支配することと支配されることからの自由であり,それは支配からの解放,と呼ばれるべきものでした.それは,仏教でいえば,輪廻からの解放,解脱でしょう.
要は,社会的自由とは,支配することと支配されること,支配するものが支配され,支配されるものが支配する,その永遠の繰り返し,「復讐のロゴス」からの真の解放でしょう.それこそがヒト社会における真の自由でしょう.
「個」の自由と「社会」の存在とは,本来対立すべきものでも,反対概念でもありません.個々と個々の関係性の総体が社会であって,社会がなければ個なく,個がなければ社会がない,それはいわば鶏と卵の関係,つまり一体不可分な相補的な関係において<ある>のです.私有財産と共有財産(社会資本)とだって全く同様に,本来は共有すべき財産がたまたま私有化されたとしても,長い目でみれば,それはそのヒトの死後に解体されて,また共有に戻ったり,自然に戻ったりすれば,結局は,社会に帰属することになります.要は,現在の私有財産にせよ共有財産にせよ,ムリ・ムダ・ムラを作らない,不正が起こらないようにすれば,それでいいはずのものです.
自然と人間との関係だって全く同じでしょう.里山のように「共生のカタチ」が本来に近い姿なのであって,ヒトが住まなくなると,自然だって荒れ果てて「山荒れ」するわけでしょ.逆に,都会のスラムのようにヒトが集まりすぎると,ヒトのココロもまた荒れ果てしてしまうのです.ヒトと自然は一体不可分において<ある>のです.モトモト,自然がヒトを産み出したのだし,逆に今や,当の自然がヒトの存在を不可欠にしている部分だってあるのです.自然と・共に・よく生きることができるような・ヒト,であること,そのためには,自然のロゴスの「解・明」を,「自然の弁証法」のできるだけの完成を,急がねばならないと思うのですが.
万人が自由であるべきこと 独裁制,って1人だけが自由であること,共和制,って少数だけが自由であること,民主制,って多数が自由であること,ですが,大多数が自由であるためにとは,少なくとも相互無危害性原理,お互いが,カントのいう「自らが欲せざるところ(迷惑行為,加害行為)を他になすことがない」,あるいはアリストテレスのいう「不正(迷惑行為,加害行為)をなすよりは不正をなされるほうがよい」,という格律を守ることが必要不可欠な条件になるのです.そのようにしてはじめて,永遠平和の理想,は実現されるでしょう.
アリストテレスの師であったプラトンはとうぜんこれに気づいていたでしょう.それが『ティマイオスの夢』です.また,インドでは,無危害行をなすマハーヴィーラ(ジャイナ教の始祖)そして,ゴータマ・ブッダ(仏教の始祖)もまた,それに気づいていたでしょう.それが『ナーガの道』です.
しかし,自由であることは,同時に,自立しており自律していること,つまり経済的にある程度は独立していること,を必要とします.そのためにはやはり最小限の,独立した生計を維持できるだけの富のストック(蓄積)が必要だと思うのですよ.そうした最小限のストックを持ち得ることが,1個の世界自由市民であること,でしょうし,無知と貧困に巣くう「死の恐怖」の支配からの(できれば永遠の)解放であり平和でありましょうし,そのようであり続けたいものですね.
自由は「単なる幻想」ではない 現代において「もっとも恐るべき,ヒト中心主義思想」とは,独我論,つまり「天上天下唯我独尊」というやつだけでしょう.自分が世界の中心で,自分の「精神」とやら以外は,自分あるいは自分がその一部であるところの「全知全能の神」とやらがつくり出した観念であり幻想にすぎない,というやつですね.
自由も平等も友愛も平和もある意味では,ヒト中心主義的思想がつくり出した「ユートビア的幻影」にすぎないとも言えます.ただしかし,それは工夫と努力,仰るような「工夫と算如」しだいで,いつかは実現可能なのではないか? というのが私の「希・望」なわけです.
実際,「自由・平等・友愛・平和」という「フランス革命の思想」そして「共産主義の理想」が,実現できているような「瞬間」だけは確かに<ある>のですよ.「お祭り」空間がそうです.「お祭り」空間,いわゆる「祝祭」空間では,現に誰もが「自由」であり,「平等」であり,その場は「友愛」に満ちており,人びとは,束の間ではあっても「平和」を楽しんでいる(と,少なくとも「思って」はいるだろうし,傍目にもそう「見える」)のですからね.
「私有財産」としての「奴隷」の否定 エンゲルスが否定しようとした「私有財産」とは何か.それは私たち,いわゆる自由市民,がもっているような,衣食住を支えるために必要不可欠な,しかも合法的にその労働すなわち「算如と工夫」で獲得した,なけなしの個人財産などではなくて,ズバリ「奴隷階級」をその中心としたヒト・モノ・カネからなる組織体であり,それはつまり社会的な価値「再」生産手段としての共同体の支配権の「私有財産化」なのです.
ローマ皇帝を例にとりますと,ローマ帝国の属領は彼の「私有地」であり,ローマ軍は彼の「私兵」であり,むろん彼は家父長として,その家庭としての宮廷には,家族つまり「私有財産」としての多数の奴隷や解放奴隷を抱えていたのです.ローマ帝国解体後の,貴族や封建領主たちも,その領地を「私有財産」として,とりわけその領民を「力への意志(=軍)」からする「死の恐怖(=暴力)」によって支配し,その生産物を,初夜権すらも,その税収源にしました.
結局,こうした封建的「私有」に反対して,人びとが蜂起したのがフランス革命であって,それによってフランスにおいては,第1階級である貴族や第2階級である僧侶の封建的特権,第3階級である市民への支配権,が完全に放棄されました.そのときにようやく人びとに,自由・平等・友愛の原理,ヒトがヒトとしてもつべき自然権 -基本的人権- が明確に意識されたのでした.
要は,エンゲルスがとりわけ否定しようとしている「私有財産」の形態は,ヒトがヒトを「奴隷<として>私有する」ことであって,彼が希求するのは,誰もが他者を支配することなく誰もが他者に支配されることのない社会,すなわち万人が自由な「無」階級社会,自由・平等・友愛・平和の理念が実現した社会,なのです.そうした自由な「無」階級社会にあってはじめて,人びとは自発的に自律的に,つまり喜んで,「産業システム」に参加し,「誠実に勤勉に」労働することによって,その「技術システム」を進化させることができるのです.
フランス革命以後も,ナポレオンの帝政(軍事独裁)によって「新」貴族が復活し,王政が復活し,また共和政があり,ナポレオン・ボナパルト(ナポレオンV世)の帝政が復活し,とそれはおっしゃるように,封建制と近代的民主共和政との,いったりきたりで,その最中に,エンゲルスは生きたのでした.
当時の「最高に発展した政治形態(エンゲルス)」は,アメリカの民主共和政でした.しかし,それは大きな貧富の差を伴っており,南部諸州の黒人奴隷制が南北戦争でようやく廃止されたばかりの頃で,現代において黒人の血をひくオバマが大統領になるまで,それから150年もかかりました.かように,人間の解放,基本的人権の確立、万人がゆえなく他者を支配することも、ゆえなく他者に支配されることもない,いかなる人種差別からも階級差別からも全く自由である,に至るまでには,長い年月がかかったのです.
ドイツはヒトラーによる独裁そして敗戦という「痛い目」を経験したから,封建制的領邦制が完全に一掃されて,経済的成長を成しとげることができたのではなかったでしょうか.日本だって,自由・平等・友愛そして平和の原理が日本国憲法によって宣言され,自然権としての基本的人権が確立され,法的にすべての封建的特権が廃止されるにおいては,戦前の軍事独裁による日中戦争,第2次世界大戦,広島・長崎の原爆,そして占領,という大きな犠牲を払った,ということを忘れてはなりますまい.
2001年から,ヒトが鋭意克服すべきものは,戦争とか革命という名の「力の意志」がもたらす「死の恐怖」の支配から,テロや巨大事故といういわば社会基盤システム(social infrastructure system)の安定性における欠陥や安全性における弱点がもたらすそれ,に移っていっているのではないでしょうか.これからのわたしたちが目指すべきものは,より安全な,より効率的な社会基盤システムの存在であって,その「改・善」のロゴスこそが,真剣に求められるべきものなのではないでしょうか.社会的基盤(infrastructure)としての技術システムの「再」構築(re-construction)と,そのさらなる「改・善」と進化の時代へ,と向うことです.
ところが,日本でも,一頃よりは貧富の格差は確実に拡大していますよ.今や資本「主義」を代表する諸悪の根源は,サラ金と労働者派遣法でしょうか.現代日本が直面する諸問題は,それだけでもなさそうですが.