オルガノン・システムの発見

 

オルガノン・システムとは何か  ヨーロッパ中世では,アリストテレスの「論理学に関する著作群」のことを「オルガノン」といいました.論理学が何で道具や器官や機関なのだ,といわれるでしょうが,それは正しい対話を「行う」ための法(弁証法)や正しい思考を「行う」ための方法であり,すなわち道具なのでした.それらは,ヒトの言語行為やコミュニケーション行為,具体的には「聞く・話す」や「読み・書き」を「よく・行う」ことを目的とするその手段であり道具だったのです.自然学のオルガノン,というと,それは,ヒトと自然とが「よく・対話する」ことができるための,ヒトがそれを使って自然と「正しく・対話を・行う」ことができるための,その行いの「核・心」となって機能する機関であり器官であり道具のことです.

「オルガノン」を『広辞苑』で調べてみたら,「機関・道具の意」とちゃんと出ています.中学生の社会科教科書には必ず出てくるF.ベーコン(BaconFrancis;1561-1626)の著作に『ノヴゥム・オルガヌム』というのがあります.ラテン語ではNovum Organum,それをそのまま英訳すれば,New Organ,新しい機関あるいは器官(有機体),ということです.

現代ではIT用語で,software tool,ソフトウェア・ツールというものがあります.これは道具と訳されますが必ずしもモノすなわち個体ではありません.HPを作る人誰もが使っているコンピュータ・プログラム・システムがそうです.Tool boxって,道具箱ですが,その連想で,いろんな機能をもつプログラムたちがつまっているものです.このように,機能が近ければ,必ずしもモノとしてのカタチがないものでも,道具といえるのではないでしょうか.論理学,オルガノン,対話の道具としてのコトバとその使い方,わたしは不自然には感じません.どうしても気になるようなら,あらゆる自然の事物がもつ道具「性」,それがオルガノン・システムの正体である,といいましょう.

 

自然におけるヒトの「行い」の「核・心」に位置するもの  Organの具体的な例は,楽器のオルガンです.それは音楽を奏でる道具です.これもヒトと一体となって,音楽を奏でる,という目的を果たすことができます.オルガン奏者としてのヒトと,楽器としてのオルガンは,「音楽を奏でる」という一つの目的をもつ「行い」に対しては,その「行い」の「核・心」にあって,ヒトが「(音楽を奏でる)行い」をなすその手段でありまた道具でもあります.これは中学卒業生だったら知っていることでしょう.

手は,それを使ってヒトがモノを作ることができるモノであって,モノを作る「行い」に対しては,その「行い」の「核・心」となることができる身体器官(organ)です.足は,ヒトがそれを使って歩くことができるモノであって,歩くという「行い」に対してはその中心となって機能し,ヒトが「歩く」と行いをなすための本質的な道具となることができる身体器官(organ)です.これらは日本語として,ちっとも不自然ではないでしょう.

 

道具と器具  オルガノン・システムを「道具」というのもまた誤訳の1種ではないでしょうか.「道具」って,仏道に具えるところの「仏()具」から発しています.仏道修行つまり「行い」を修めることを目的として,それに対する手段となるもの一般のことです.そこから転じて弓矢などの具体的なある目的をもって使うモノ一般をさすようになったのですが,むろん「方便」とか「手段」の使い方もあります.IT関係だと,ソフトウェア,ロゴス・システム,って無体物,いわゆる固定したカタチをもつモノではないものだから,その機能について着目するのです.自然のモノ全てがもつその機能それ自体のあり方を,それを「利用する」あるいは「活用する」モノにとって,そのモノがもつ「道具性」として,これを了解することができます.

自動機械的なつまりそれじしんが積極的能動的に何かを「行う」道具(オルガノン)に対して,自動機械的で<ない>道具つまり直接に道具的には使われない間接的な道具,むしろ作業環境を整えることに役立つような,いわば受動的な消極的な「器具(スケウオス)」という概念があります.

器具とは,モノ作りの現場でいうと,あるにこしたことはないがなくても代替品によってナントカなるような「什器備品」あるいは機械を保守したり整備したりするための「消耗品」といった類のものです.日本語で道具とりわけ仏道修行のための道具などというと,あるにこしたことはないが,そもそも仏道修行なんて「本来無一物」つまり「裸一貫」で行うもの,自らの身一つが修行の手段なのですから,チャラチャラしたお飾り的道具など一切なくても一向に差支えない類のものです.

人びとが日本語で「道具」といわれてとっさに思い浮かべるモノとは,自動機械的道具(オルガノン)というよりはどうやら「器具(スケウオス)」の概念により近いのではないでしょうか.たとえば,大工道具というと鋸や鉋などの「純然たるモノ」が思い浮かべられますが,それを大工さんが実際に使って仕事をしている風景は滅多に思い浮かぶものではありません.しかし,道具が道具として機能し活躍するのは,そうした道具を実際に使って,「鋸が・材木を『切断する』」とか,「鉋が・材木を『削る』」とか,大工さんが仕事をしている「行い」の現場の,その「核・心」に<ある>場合なのです.こうした「誤・訳」を避けるために,オルガノンとは,それ自身ではなくても「何者かが・『行い』をなす場合,その行いの『核・心』にあって機能するモノ」である,として定義します.

 

オルガノンは「活・物」であって,進化することさえできる  ギリシア古代におけるオルガノン(機関,道具)のことですが,彼らは道具を一種のイキモノだ,つまり有機体(オルガノン)だ,と考えたのでした.それは日本語での「静・物」としての「道具」というよりはむしろ「活・物」としての「(自動)機械」の概念に近かったのではないでしょうか.自然の事物の道具性をめぐる近代の議論のすれ違いは,ギリシア語感覚的な「活()・物」としての「(自動)機械」と日本語感覚的な「静・物」としての「道具」あるいは「器具」との区別をきちんとつけると,スッキリするところがありそうです.

  まず,ヒトにとっての道具は,生きたヒトが,それを道具<として>使う場合において道具<である>,ということです.そこに金属の塊があって,それを使って生きたヒトが釘を打つ場合に,それはトンカチと呼ばれる道具<である>ということです.それが,モノが道具<として>の「性(状や本)質」をもつ,ということです.イキモノが何かを「行う」ときに,「使う」モノとしてのあり方,それが道具性です.

たとえば,古代機械においてもっとも典型的なものとしては,それを文字通りにいえば,「機」としては織物を生産する道具としての機(ハタ)織り機,「械」としては戒めのための道具つまり武器,がありますが,それらは自ら動くことによって(機のように)何かを作り出しまた(飛ぶ矢のように)何かを破壊する力を内在させている,と考えられていたのではないでしょうか.むろん,その原動力は,人間がそれを与えていることは彼らも知っていたことでしょうが,しかし,ヒトがそうした機械に,技(わざ)(すべ)と呼ばれるいわば「魂」を「込める」ことによって,織物生産手段としての「機(はた)」はよりよい織物を作り出しますし,動物殺傷手段としての「矢」は狙った獲物をより正確に倒すことができる,と彼らは考えたのではないでしょうか.「一球入魂」なんてコトバもあるくらいですからね.こうして,オルガノン・システム=組織体,機関,イキノモ,「活・動」するシステム,として理解することができます.

道具とは,それじしんが一つのイキモノのようでもあります.ヒトがモノ作りするためには道具が必要不可欠です.結局,ヒトは道具を作り,その道具を使ってまたその道具を作るでしょう.この道具の生産サイクルを道具からの視点で見れば,まるでそれは道具が,ヒトを道具として使って,自己増殖しているように見えませんか.

自然と共によく生きようとすれば,その手段としてよい道具を作る必要があるでしょう.畑を楽に<よく>耕そうとすれば耕運機が必要になります.それを楽に<よく>運ぼうとすれば軽トラという道具が必要になります.馬のように<よく>(早く)目的地に着こうとすれば自動車という道具が必要になります.鳥のように<よく>空を飛ぼうとすれば飛行機という道具が必要になります.もっと<よく>(早く)計算しようとすればコンピュータが必要になります.そして,よい道具だけが,たとえば燃費のいい,そして安全性能が高い自動車だけが,最後には生き残ることができるでしょう.オルガノン・システムもまた,それを使うヒトをその手段に使って,進化することができるのです.

作物たとえばお米だってヒトの生存のためには道具でしょう.お米の品種改良とは,結局は,ヒトの道具としてのお米の改良です.コシヒカリがうまい,よく売れるとなりゃ,みんなコシヒカリを作ろうとします.コシヒカリの視点からすれば,それはヒトの味覚を道具すなわち手段にして,自己を増殖させていることでしょう.コシヒカリは<うまく・なる>方向に進化することによって,ヒトをその手段として増殖することができたのです.ヒトにとって<よい>ことが,結局,コシヒカリの存続にとってはきわめて有利にはたらいています.ヒトに<よい>ことをすれば自分にも<よい>ことになって返って来ています.これが無意識的な相互善行性の発露であり,それこそが,共存共栄のロゴス,でしょう.

動力学的ハイパーサイクル・システム=オルガノン=組織体=個体=イキモノ,というわけです.つまり,自然のモノ全てが1つのシステムであり,1つのイキモノであり,それ自身が他のモノにとっては1つの道具であり,等々,それらオルガノンが,自由・平等・友愛・平和という原理で結合しえたときにはじめて,また新たなシステム,たとえは家族が,社会が,国家(ポリス)が,次々と形成されていくでしょう.それらが,相互無危害性と相互善行性という共存共栄のロゴス,を体得したときにはじめて,それらの組織体すなわちオルガノンは,永遠性,不死性,を獲得することができるでしょう.ヒト社会においては,それぞれの個体が不可欠な存在であり,種の存続には家族が不可欠なそのあり方です.個々人や個々の家族のためにこそ組織や社会があるともいえるのです.

 

自然的オルガノン・システムと人工的オルガノン・システムとの境界は,実は<ないわたしたちの身体は,自然が作り出したものつまり自然物でしょうか,人間が作り出したものつまり人工物でしょうか.わたしたちの身体において,自然と人工の境界は一体どこにあるのでしょうか.

手は私たちが何かを「掴む」という「行い」を行うために自然が作り出した器官(オルガノン,道具)です.その道具の延長としてロボット・ハンドなどの人工物があります.足はそれを使って私たちが「歩く」という「行い」を行うために自然が作り出した道具です.その道具の延長として自転車や自動車などの人工物があります.つまり,ヒトの身体という自然的オルガノン・システムの1部が外化したものが,人工物としての道具であり自動機械としての人工的オルガノン・システムです.

逆にいうと,人工物の極致であると思われているコンピュータだって,実は自然・内・(自然の)事物です.鉄は鉄鉱石という自然物から,シリコンはシリカゲルとよばれる自然物からヒト手を加えて作り出したもので,それを加工した電子回路からコンピュータができあがっています.そして,そのコンピュータは,自然が作り出した「考える」モノそのものであるといえるヒトの脳神経ネットワーク・システムと,本質的には全く同じ働きをしています.

コンピュータを考える機械(thinking machine)といいます.それは自然が作り出したヒトと全く同様に「考える」ことができる機械なのです.

バスカルは,人間は「考える・葦」である,といいました.じゃ「考える・機械」を,彼は自然が作り出した人間と全く同様なシロモノである,とは言わないのでしょうか.

デカルトは,「われ・考える」ゆえに「われ・あり」といいました.じゃ,彼は,「コンピュータは・考える」ゆえに「コンピュータ・あり」とはいわないのでしょうか.

コンピュータは,「自然にはありえないもの」あるいは「神に由来するもの」などではなく,自然が作り出したヒト,そのヒトの脳神経ネットワーク・システムが果たす機能をより強力に,より高速に果たすことができます.ヒト中心主義的見方をキッパリと離れていうならば,それはむしろ「自然が・ヒトを道具として使って・作り出した・モノ」なのであり,自然法則に従って機能しているヒトの脳神経ネットワーク・システムを,それより正確迅速にシミュレーション(模擬)することができるモノ,ヒトという自然の内にあって「考える」ことができる存在を,より忠実により正確に真似した(再現した)モノ,なのです.

結局,ヒトのあまりにも「自己中心主義的」な意識,自然蔑視という「高慢と偏見」に満ちたいわゆるヒトの主観が,自然とヒトの境界を,得手勝手に作り出しているのです.自然とヒトの境界は本来自然にはないものであって,互いに溶け合い浸透しあい,交互作用しあっているのに,ヒトの「自己『中・心』主義的」意識が,ヒトと自然の間に勝手に境界を作り出して,自然とヒトとを対立させてきたのです.

あるいは,ヒト手すなわちヒトの活動が「少しでも加わったもの」を人工物である,といっているだけでしょう.しかし,お米は? 野菜は? 山菜は? キノコは?

人手が加わらなきゃお米や野菜はとれません.ヒト手によって市場にもたらされ,ヒト手に買われて,料理されないかぎりそれはヒトの口には入りません.ヒト手が加わらなきゃ,どんな山菜もキノコも採れもせず,ヒト手が加わらなきゃどんな食い物にもなりはしません.

人工物といったって,ヒトが自然のサル真似をしてきた,自然法則を自分勝手に利用してきた,ただそれだけです.200万年にもわたる永年のサル真似のおかげで,裸のサルはヒトに<なる>ことができ,やがてヒトはプロメテウス(先見性をもつヒト)と呼ばれる巨人となり,自然とヒトとが対等に向き合えるときが,現代において,ようやくやってこようとしているのです.

人びとがもつ「自然の観念」もまた,「あるがまま」どころか多くの人手が加わって成立している立派な「人工物」だ,ということです.とりわけ「主観」といわれるものには古い「手・垢」がタップリとついて凝り固まっています.それらの「高慢と偏見」を取り払うことによってはじめて,自然とヒトとが対等に向き合い,対話しはじめ,共生しはじめることができるのです.

 

自然のパトス・ロゴス・エートス・システム=自然の技術システム  あなたの「立派な感性」が何か仕事(製作)をしようとするとき,自然の美を「写・生」しようとするとき,つまり「活・写」しようとするときに,そこで活躍するのは何でしょうか.それは「立派な感性」というよりは,あなたの「手」であり手を動かす「技」でありましょう.「立派な感性」を実際に美として実現することができるのはその手段であり道具としての「手」と「技」でしょう.「手」と「技」がなくては,いくら立派な感性があったとしたところで,自然の美を,しかも自然の素材がなければ,それを「活・用」して,そこに美を「再・現」することは決してできないでしょう.

自然の美を認識しようとするには,確かに自然に美を見出すことのできる「目」すなわち目を介した「立派な感性」が必要不可欠でしよう.しかし,この場合には,感性はヒトという主体がもつ美的な判断力(悟性)にとっては,自然の美を認識する,美を感じ取る「手段であり道具」にすぎますまい.

要するに,一人の美術家あるいは芸術家と呼ばれる主体にとっては,感性も悟性も実践理性も,つまりヒトのもつパトス・ロゴス・エートス・システムも,道具であり手段にすぎません.そうした個々の手段であり道具であるものたちが一体として,それこそ動力学的ハイパーサイクル・システムとして結合し,協力しあってはじめて,美なるもの真なるもの善なるものを制作の場において実現させることができます.それが「技術システム(techno-logos-system)」の存在のあり方でしょう.

 

オルガノン・システムの共生態としての社会  ヒトをそのまま「道具」に使う場合がよくあります.少なくとも古代にはありました.主人は奴隷を「道具」に使うわけです.現代でもありますよ.部下を自分の「道具」としてコキ使うとか,異性を自分の欲望充足の手段すなわち「道具」にするとか,いわゆるパワハラ,セクハラがそれです.

つまり,自己の目的遂行のために,その手段として使われる他のモノ,それが「道具」です.ヒト社会(ポリス)1つのシステムとして見た場合,政治家は頭で,戦士は心臓で,普通の平民は胃袋である,というわけで,それぞれは1つの社会目的を果たすための手段に組み込まれており,したがって全て人間でありながら同時に,ポリスにとってはその手段でありその道具である,ということです.古代においては,手段=道具として使われうるものその殆どが人間であったということです.

カントの格率は,他者を自己の目的達成のための道具とすることなかれ,です.つまり,他者を一方的に支配してはならない,自由・平等,ということです.ヒトをしてある目的に対する手段としてこれを使役しようとするならば,その対価をキチンと払って,しかも自発的に,これを「してもらう」ことでしょう.それが友愛原理のあり方なのです.

ちょっと自然学的(生物学的)な解説がいるかもしれませんが,ヒトの身体を「1つのシステム」とした場合,感性・悟性・実践理性からなる脳神経ネットワーク・システムは1つのサブシステムで,それは同じく身体のサブシステムである手足を,道具つまり手段として使って,その目的を達成することができるでしょう.

もっとミクロな領域においていえば,DNARNAを道具すなわち手段として使ってタンパク質を作り,RNADNAとタンパク質を道具すなわち手段として使って自己を作り,タンパク質は自分を作ったDNAをコピーしてあげる,といったように,お互いがお互いにとっての自己増殖のための道具であり手段となることによって,共に存在することができます.これが生体高分子たちの細胞・内・共生のロゴスであり,生体高分子の作る社会における相依性であり,自然の「技術システム」の存在です.

ある個体を,1つの存在目的をもつシステムとして見た場合,下位の(サブ)システムは,その存在のための手段であり道具(オルガノン,組織体)である,ということになります.ここで「サブ」,英語のsubとは,下にある,基礎としての不可欠な存在,という意味であって,上位・下位は,いわゆる身分の「尊/卑」とは全く関係ありません.上位・下位のシステムは同時に存在することによってはじめて全体として機能することができるのですから,存在価値としては全く対等な関係にあります.

これは個体間の関係にも言えることです.花はミチバチを手段つまりその道具に使って受粉することができます.ミチバチは花を蜜や花粉を集める手段つまり道具に使っています.つまり,お互いがお互いを,無意識的ではありましょうが,その手段とし道具とし合っているのです.

外部道具だって身体の一部になることがあります.お年寄りが骨折する部位は大腿骨が多いのです.その代りに人工骨を入れます.外部道具が身体の一部になって十分機能することができます.

それほどじゃなくても,名人ともなると道具をまるで体の一部であるかのように使うことができるでしょう.馬術だって,人馬一体とならなければその目的を達成することができますまい.

文明というのは,ヒトが使うことができる諸道具すなわち生産手段の総体であり,その存在形態です.新石器を諸道具として使う時代が新石器時代,青銅器を諸道具として使うのが青銅器時代,鉄器を諸道具として使うのが鉄器時代です.この延長上に,情報処理装置を諸道具として使っている情報化時代としての現代があります.文明の興亡というのは,結局は,道具システム,オルガノン・システム,の興亡なのです.

 

自然の「技術システム」とは「よき常識」(bon sense)である  公開の社会的市場に出て「金」という社会的客観的対価を出してそれを買う社会的客観的なモノである「商品」について,いえばたとえば,チョイ見ておいしそうな桃を買ったとしましょう.それを食べてみて,こりゃ固くてマズイ,失敗した,と思うのが感性なら,そりゃふつう誰が食べても固くてマズイでしょう.金に見合う味がしないなら,それはハッキリとその商品の品質が「悪い」のです.外見ばかりおいしそうで中身のない固くてマズイ桃,それがマガイモノです.

生物学的に全く同一種であるヒトの感性が,それぞれにそんなに違うわけはありません.舌の病気で全く味がしないというのは,そりゃ感性の異常でしょう.それと同様に,ごく普通のしかも多くの健常者が固くてマズイと思うようなモモを,あくまでウマイと言い張る人がいたら,それも感性の異常を疑わざるをえないでしょう.

「もし」それをマガイモノである,と判断せざるをえない私の感性が大多数のヒトがもつであろう「ごく普通」の「ごく平凡」なものであれば,それをあくまでホンモノといいはる感性のほうがよほど異常で非凡で天才的でしょう.そして,自分の感性がよほど正常だ,健常なものだ,というのならわたしの感性はよほど異常で病的だろう.さぁ,どっちだろう.

a. 私の感性が普通の平凡なもので,あなたの感性が異常で非凡である.

b. 私の感性が異常で非凡なもので,あなたの感性が普通で平凡である.

このどっちかしかないでしょう.わたしにはどうしてもaだと思えるのです.

自然との正しい対話,そして自然の事物としての相互無危害性と相互善行性原理によってはじめて,自然との共生関係が成立します.共生関係とは,他を自らのオルガノンとし,自らをまた他のオルガノンとして利用することであり,それは相互無危害性と相互善行性の顕現です.

たとえば,花とミツバチは共生関係にあり,それはお互いがお互いを傷つけあうことがないこと,相互無危害性すなわちその関係が安全であること,そしてお互いがお互いを助け合うこと,つまり相互善行性によって,成立しています.ミツバチは花に訪れてせっせと蜜や花粉を「集める」が,花はそれを邪魔したりはしません.あたかも,ミツバチが他の花から花粉を運んでくれて,また他の花に花粉を運んでくれていることを知っているかのように.これは,結局,永年にわたる,たぶん数千万年以上にわたるだろう,花とミツバチの共生関係の,その進化の結果なのです.花とミツバチの共存共栄,それはつまり,ミツバチが花から花へ飛び回って花粉や蜜を集めるという,その「よき・行い」による,「共・進化」の結果なのです.

ミツバチは集めてきた蜜や花粉を食べて,自己および自分がそれに属する「種」を「再」生産することができ,花はミツバチによって受粉して種子を作り,自分の「種」をこれまた「再」生産することができます.つまり,ミツバチがせっせと花粉や蜜を集める「行い」は,自己を再生産することができる自己「再」生産的活動であり,これを労働と呼ぶことができます.私たちもまた価値「再」生産的活動によって,労働によって,「よき・行い」によって,はじめて「自然と・共に・よく・生きる」ことができるのです.しかし,この「あたりまえ」のこと,いわば自然の「よき・常識」に気づいている人は,あまりにも少ないようですね.

わたしは,わたしたちがそれに依って生きているのだが,しかし,わたしたちが意識していないこと,世間の「よき・常識」つまりごく「あたりまえ」のこと,それしか言っていないつもりなのです.たとえば,自由とは,他者を支配することも他者に支配されることもないことである,とか,安全とは,他者に危害を与えることもなければ他者に危害を与えられることもないことである,とか,友愛とは,他者に善きことをなすことによって自らも善きものをそれなる「よき・行い」から得ることである,とか,ね.

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