結論
現代のモナドロジー,オートポイエーシス,論理的原子論,多階層動力学的ハイパーサイクル・システム論,そして相互無危害性(安全性)と相互善行性(最適性)原理の存在 今や,この自然は自らが自らを創造し,自らの内に原動力をもち,自らが自らの存在を自らの存在の場において律することによってはじめて存在することができる,という現代のモナドロジーの概念と現代のオートポイエーシスの概念が実証されつつあります.また,多くのロゴス的に<不可分なるもの>がただ1つのロゴスに<空なるもの>において生成し,運動し,変化し,消滅していく,という論理的原子論の風景は,1つの論理的原子を1つの動力学的ハイパーサイクル・システムに対応づけることによって,現代自然学に根拠づけられました.さらに,この自然におけるミクロコスモスからマクロコスモスに至るまでの全進化の過程は,動力学的ハイパーサイクル・システムの形成の原理であるところの相互無危害性(安全性)と相互善行性(最適性)への指向性によって,自然学に根拠づけられつつあります.
したがって,わたしたちは,わたしたちの人生,そしてその生存環境,それじしんをもたえず「再」設計し,その企図(プロジェクト)を実現し,管理し,また運営もしていかなければならないような時代になったのです.自らが,ことの善・悪を判断し,迷いつつもあるときは断固として,行動する他はないのです.自然と共に<ある>しかないのです.できうれば,<よく・ある>こと,つまり自然の内に,自然が作り出したモノどもと,相互無危害性と相互善行性を旨として<共に・ある>こと,断えず自己「再」生産システムとして<よく・ある>ことを目指す,それしかないのです.
真なるかな,美なるかな,善なるかなこの自然は わたしたちヒトにとってよきものとは,この自然,その自然に宿るロゴス,そして自然の内なるヒト,ヒトである私たちのそのうちに宿る,美なるもの,真なるもの,善なるもの,その内においてあるもの,それ以外には,全く・ない,のです.カントが,天上なる星(自然のよきロゴス)と内なる道徳律(ヒトのよきロゴス),といった,それそのまま,なのです.
真とは,自然におけるロゴス的<よさ>であり,すなわち自然そのままに真実であり現実的であることです.美とは,自然におけるパトス的<よさ>であり,わたしたちの感覚におけるあるいは直感や直観における<よさ>あるいは快適さです.善とは,自然におけるエートス的<よさ>であり,それは相互無危害性と相互善行性に即した「行い」のあり方であり,自然の存在様式としてはその「行い」が安全性と最適性において<ある>ことであり,ヒト社会においては,自由・平等・友愛・平和を目指した,つまりヒト社会の最善最適なあり方を目指した「よき・行い」において<ある>ことです.
「自然の鏡」としての「よき・行い」へ 「描く」ことについて,絵画は一介の素人ですから「あたりまえ」のこと以外には何もいえませんが,文章すなわちわたしたちヒトが自然の事物の運動と作用を記述するために発明したオルガノン,におけるそれについていえば,あくまで動的で自己「非」同一的な自然現象を,いかに,静的でかつ自己同一的な記号列つまり文章において,写し取ることができるか,いかに,ただ一つの静的な<空なるもの>の上において,多くの動的な<不可分なるもの>を生成・運動・変化・消滅するものを,そこに映し出すことができるか,が自然学の最大の問題なのです.自然学の観点からいえば,物書きとは,自然の全存在を映しだしその内に再現することができる動的な「自然の鏡」の一部を,この文章列の内において,新たに作り出そうとする不断の営みであり活動なのです.