最広義の自然学へ

 

「自然の鏡」としての自然学自然学とは,自然の存在と,自然のロゴスの存在と,そのヒトのロゴスによる表現としてのいわゆる「自然の鏡」の存在の探究です.メタ自然学とは,自然・内・ヒトにおける「自然の鏡」の動的な発展的な「よき・あり方」を目指した自然学の探究であって,それはわたしたちの存在基盤であるところの「産業システム」に内在するいわばよき「魂」としての「技術システム」のあり方に深く結びついています.

 

自然システム,自然学システム,メタ自然学システム,技術システムの関係について  古来,学問・芸術が,その探究の対象とするものとして自然界,人間界,叡知界の3区分が立てられてきました.しかし,いまやこの地球上にはただ1つの自然があり,その内にただ1種のヒトがあり,その自然・内・ヒトが作りだしてきた,ただ1つのヒト社会システムがあるのみなのですから,自然の内なるヒト,それに代る現代自然学の3区分として,自然,自然・内・ヒト,自然・内・世界精神を立てることができましょう.この「世界精神(Welt Geist)」とは何ら神秘不可思議なものではなく,「世界」とはヒト社会を表すのみであり,その精神とは「社会精神」のことであり,それは自然と自然・内・ヒトとを媒介するものとしての「産業システム」のいわば「魂」としての「技術システム」の存在にほかなりません.

  したがって, それぞれ,自然,人間,世界精神(=技術システム)に対応させて,わたしたちの探究の対象は以下の3つに集約されます.

(狭義の)自然システム論: 自然に内在する真実のロゴス(コトバ,論理)の探究です.自然そのままであることつまり即自的自然としての自然のあり方の探究です.

自然・内・ヒト論: ヒトのパトス(感性,美の探究)(狭義の)ロゴス(悟性/理性,真理の探究)(教義の)エートス(倫理,実践理性,善の探究)から成立します.自然に対立するヒトの探究という意味で,これを対自的自然の探究であるといえましょう.

メタ自然システム論: 全自然の事物の運動の「数・量」化によって,自然の内において人間が「よく・生きる」ための方法論,自然のロゴス探究のためのオルガノンすなわち「技術システム」(techno-logos-system)を探究します.自然とヒトとが直接向かい合う「産業システム」の領域では,実際に自然とヒトとが共通の存在の場において個々に向き合い個別的に相互作用していますので,これは即かつ対自的自然の探究である,といえましょう.

これらの全体を包摂するものが最広義の意味での自然学です.これら全てを詳論しよとすれば,たいへんな規模なものになると予想されまので,それの入門編あるいは概要編といったものを,本論として逐次発表していくことにいたします.

 

メタ自然学とは何か  ギリシア語でピュシス(phusisphysis)とは「(万物を)産み出すもの」という意味で,自然そのもののことです.自然についての探究がラテン語にphysicaと直訳され,さらにそれが現代でいう(狭義の)物理学(physics)の語源となっていきました.つまり,自然学=(広義の)物理学,古くは究理学,というわけです.

メタ自然学とは耳慣れぬコトバですが,それはmetaphysicsの訳語です.日本語においてアリストテレスの書いたmetaphysicsはこれまで『形而上学』と訳されてきましたが,これは日本語に翻訳した時の明らかな「誤訳」で,原語はmeta ta phusika,つまり自然学の「後ろ」に置かれた書巻(the things after physics),という意味にすぎませんでした.その中身は,というと,自然の神的な(不死な,永遠不変な)ロゴス(コトバ,理論,ヒト的理性)を扱っていて,自然学の理論的なあるいは論理的な部分の「抜粋」でありまた自然学史でもあります.現代でいうと,それは(広義の)数理物理学に相当します.日本は西洋文明を輸入する際に,そうした広義の自然や自然学の意味を,ごく狭義に「誤解」してしまったのです.結局,数学でも物理学でも,自然学という共通の「根」から遊離したものになってしまい,学問全体が細分化されすぎて,都合が悪くなると専門外だからと逃げ,また専門家のいうことに口出しするなと威張る,いわゆる「専門バカ」の巣窟,いわゆる「タコツボ型専門分野」の集合,になってしまったのです.

  また,metaは,中間(media,中道),という意味もあります.ヒトは自然の神的な法に「与る」あるいはそれを「分有する」という意味にもとれます.ヒトは自然から生まれたがゆえにまた「必ず・死すべきもの」ではあるが,自然の神的なつまり「不死なロゴスをその身体において体現するもの」でもあるということです.それは,自然の神的なロゴス(コトバ)を,自然法則を,「理・解する」ことができる,ということでありましょう.

  こうした「誤・訳」に代表される明治以来の根深い誤解を避けるために「形而上学」を避けて,あえてメタ自然学を名乗ることになった次第です.結局,メタ自然学とは,わたしたちを取り巻くこの唯一の自然の存在の,その本質の探究であり,自然学の探究にほかならないのです.

 

自然の万物に内在するイノチやココロ  古代にあっては,自然は,それ自身が大きな,一つのイキモノ,そしてココロあるモノだったのです.しかし,キリスト教の中世そしてそれに引き続く近代が,それを「死せるモノ」,「単なる物質」の集塊=mass,にしてしまいました.たとえば,ガイア(地球,Gaia)を「一つのイキモノ」に例える説がありますが,こんなことをいうと今の地球「科」学者はきっと笑うでしょう.それはただ,他から動かされて受動的にあるいは「機械的に」運動している「死せる物質」の塊にすぎない,と.しかし東日本大震災産によって示された事実はどうだったでしょうか.この大地は「現に」自動的に自律的に運動し続けています.海洋底は日々拡大し続けています.拡大する海洋底と大陸塊とがぶつかりあい,そこに歪みがたまると,今回のような大地震が発生します.

  イノチとは真実には一体何であるのでしょうか.イノチあるモノに必ず宿るココロとは何でしょうか.「一寸の虫にも5分の魂」といいます.イノチ=ココロ=魂,とはほとんど同義なコトバなのではないでしょうか.イノチやココロあるいは魂とは,あらゆる自然の事物に内在しそれを動かすことによって自らも動くもの,すなわち自然のあらゆる事物に内在する原動力(デュナミス,[]dumanis[]dynamic)であり,イノチあるモノやココロあるモノの全てに宿っている「運動の能力の源泉」のことではないでしょうか.

  たとえば,1匹のハエは,飛んでいるときには確かに1つのイキモノですが,潰してしまえば,ただの「死体」であり文字通りに「死せる物質」の塊です.カエルだって解剖すれば,結局は「死せる物質」の塊(mass)になってしまいます.そうした「死せる物質」の中ににいくらイノチの原因を見出そうとしたって,そう簡単に見つかるわけはありません.

イノチやココロの「正・体」とは結局,一体何でしょうか.ハエを活かしているのが(多分)ハエの魂とやらで,カエルを活かしているのがカエルの魂ですが,それはハエが死んだとき,カエルが死んだとき,一体,どこに消えたのでしょうか.

ハエを叩き潰して磨り潰し,カエルを解剖して殺して,そこから死せる物質を抽出してきて,それを「生・物」学と称し,また「生命の探究」と称しているような現代「科」学,そして現代教育の「問題」がそこにあります.本来の解剖とは,その存在の原理を見出すため,解き明かすためであったのに,その存在の原理である当のイノチやココロを既に殺してしまっておいて,さぁ,その死体において,その存在(生きているコト)の原理を見出そう,としても無理な話ではないでしょうか.

  この「死せる物質」たとえば土,に全知全能の神がイノチ(プネウマ,呼吸<する>機能そのもの)を吹き込むと,それがイノチあるモノになる,と古代ユダヤ教では考えました.それが「生気」論のはじまりです.要は,全知全能の神,すなわち,宇宙の精霊=イノチの源泉,というわけですが,では,そのイノチの源泉はどこにあるのでしょうか.

 

「ティマイオスの夢」そのイノチやココロの起源を探究する「神話」が,プラトン『ティマイオス 自然について-』にある,「神の国」=光の国,なのです.神の国には何があるのでしょうか.そこには,まず光があります.じゃ,光とは何か.「生きた3角形」すなわち「動力学的ハイパーサイクル・システム」の存在,がそれです.

  人びとはいうでしょう.「『生きた』3角形だって?  3角形とは『単なる』図形であり記号だ.それが生きているはずがないだろう」と.むろん,わたしは教科書に描かれた図形のような「静止した」図形までを「生きている」というわけでは全くありません.しかし,「もし」その図形が自ら動き出したらどうでしょうか.

  ブラトンの自然学的著作である『ティマイオス』においては,この生きた3角形とは,「火」の純粋なものである光だったのでした.そして「火」とは,実際に自ら動くモノ,つまり「動・物」ではないでしょうか.「火」はいろんなモノを実際に「焼き滅ぼす」という能動的な「行い」をなすことができるではありませんか.プラトンは「火」が,それが触れる全てのモノを焼き滅ぼす様子を,「生きた」3角形がクルクルと回転しながら(現代でいえば丸鋸のように)他のものを「切り裂いている」ことによるのだ,と説明します.

わたしの言うことを一応理解して頂けそうなのは,自然への古代的な素朴な感性をもつ人たちだけなのかもしれません.自然はごくごく「あたりまえ」に生きています.活動しています.運動しています.作用しあっています.これをエネルゲイア(動的な現実態)といいますが,それがわたしたちにはそのまま,イノチあるモノ,ココロあるモノに見え,また思えるのです.

あらゆるイノチあるモノは,その「はじまり」(アルケー,始原)をもっています.これが原因すなわちデュナミス(動力因)です.そして,その「中・間」において活動の盛期(アクメー)を迎え,自己増殖活動を行います.そしてあらゆるイノチあるモノはその「おわり」をもっています.それがテロス()です.ここにおいて1つのライフ・サイクルが完成します.ライフ・サイクルを完結することが完成態(エンテレケイア)であり,そうした完成態を実現することがあらゆるイノチあるモノの「目的」である,といえましょう.あらゆるイノチあるモノ,ココロあるモノは,そうした自己完結的な「目的」すなわち「1つのライフ・サイクルを完成させること」をもって生きているのであり,それが自然の事物が存在することであり,そこに何の神秘も不可思議もありません.

  しかし,現代の教養あるハズの,いわゆる専門「科」学者たちは,それは「死せる物質」の機械論的な,外延的な運動にすぎないのである,というのではないでしょうか.モノが・自ら・動くコト,それがイノチやココロの,そのままの存在証明なのである,ことをいわゆる「科」学者たちは,全く認めようとしていないのです.わたしのいうことを,現代において最も聡明な人びとであるはずの「彼ら」は,聞こうとはしないのです.聞こうとしないだけではなくて,さらに「無・視」しようとさえします.

  自然状態では,わたしたちは素朴に,自然のあらゆる動くものモノには,イノチがやどり,また,そこには必然的に心も宿っている,と考えます.もう一度いいますが,諺に「一寸の虫にも五分の『魂』がある」というではありませんか.

 

デカルトの心身二元論  中世ヨーロッパ神学に影響を受けたスコラ的自然学は,自然のモノからイノチとしての動性(自ら動くモノとしての性質)を分離し,自然をイノチなきモノ,「死せる物質」の塊(mass)にしてしまいました.この自然の「外」から,神が「死せる物質」にイノチ(気息,プネウマ)を吹き込んだ,それで自然が,「死せる物質」が,イノチを獲得した,という古代ユダヤ教の考えを,そのまま持ち込んでしまったのです.「死せる物質」が,神から「自動性」という「魂」を吹き込まれて,それはイキモノに<なる>ことができるのだ,と.

プラトンの『ティマイオス』やアリストテレスの『霊魂論』がアラビア語(イスラーム)文化圏を経由してヨーロッパに再輸入されると,古代ギリシアの自然観がようやく復活しはじめました.ルネンサス以後,近代になってようやく,自然のモノそれじしんが,自然においてそのままイノチあるモノ(「活・動」するモノ,自ら・動くもの)であること,自然の事物の本性が動的であること,がようやく発見されつつありました.

ところが,デカルトがこんどは,イノチと(ヒトの)ココロとは全く違うものだ,自然のモノは,イノチはあるが「思考する」コトまではしない,イノチとは単なる「自・動」機械なのだ,とやったのです.これが悪名高い「心身二元論」あるいは物心二元論で,ワレ・「思考する」,ゆえに,ワレ・あり,つまり思考することがヒトの本質であって,ヒトがヒトとして「思考する」ことの能力,それのみは叡知界にある「全知全能の神」からもたらされた,と宣言しました.

自然のモノと,ヒトのココロとが,ここで完全に「泣き別れ」状態になってしまいました.それをそのまま引き継いで近代「科」学は成立したので,自然の存在はヒトのココロを全く欠いたモノとして蔑視され,暗愚な大衆とともに,物理的征服や精神的支配の対象でしかなく,それらは「迷える子ヒツジたち」であって,保護という名の支配を受け,教育という名の洗脳を受けるべし,とのみされてきたのです.

  こうした考え方,心身の完全な分離,に反対する意見は当時にもあったのです.たとえば,ガッサンディはデカルトに「われ・歩く」・ゆえに・「我・あり」であってもいいではないか「精神さん」よ,と皮肉をいいました.デカルトはこれに対して「身体め!」と罵倒したといいます.

  ところがどっこい,現代においては,自然の「死せる物質」とされているたとえばシリコンなどの鉱物から,「思考する・機械」(thinking machine)つまりコンピュータまでが発明されてしまったではありませんか.そして,そのコンピュータに吹き込むいわば「魂」は,他ならぬ大衆たち労働者たちが,それをプログラミングという「作業」すなわち労働するという「行い」によって作り出しているのです.ヒトはすでに神のみがこれを創造しえたはずの,ココロまでを作り出すことができているのです.

  さて,中世神学が「死せる物質」から分離したイノチ,そして,近代「科」学の始祖とまでいわれるデカルトが,この自然においてイノチあるモノから分離したココロ,それぞれは,この自然の,一体どこにあるのでしょうか.

  イノチやココロ,それははたして,

1)全知全能の神様からの,ヒトへの贈り物なの? それとも,

2)自然の産物なの?

これが,わがメタ自然学研究室の,自然学およびメタ自然学のススメへの,最初で最後の「入門・試験」となるでしょう.

1)と確信(=「迷信」)をもって答えた人は,わたしを徹底的に「天敵・視」しまた今様の学問(=スコラ神学)的にもこれを「無・視」しようとするでしょう.しかし,もしヒトの「思考能力」が天与のものつまり「神の賜物」であるならば,わたしたちは人力でもってそれを変えることができるはずもなく,わたしたちは永遠に無知のままに止まらねばなりませんし,いかなる学問の進歩も,むろん社会の進歩も,決してありえません.最後の審判まで永遠に神学者の支配下にあるような「完全に永遠に静止した(運動と進化を止めた)世界」それこそが神学者の意図するものです.

2)と答えた人は,わたしと一緒に自然の動的ロゴスを探究することができるのではないでしょうか.イノチやココロはこの自然において,いかに<ある>のか,いかにして<よく・ある>ことができるのか,と.わたしたちのイノチやココロが,自然それ自身そして自然の内なるモノであるわたしたち自身が生みだしたものなればこそ,わたしたちは自分自身の努力によって,自分たちで,それを「改・善」<する>ことが<できる>はずなのです.

 

ヨーロッパにおける自然学の伝統  ヨーロッパには,ギリシア語,ラテン語による自然学的著作の膨大な蓄積があります.古代自然学を集大成したプラトンの『ティマイオス -自然について-』,アリストテレスの『自然学』そして『形而上学(メタ自然学)』をはじめとする著作群がそうです.

ローマ時代において,原子論者エピロクスの自然探究の成果は,ルクレティウス"Rerum Natura"にまとめられました.これには『(自然の)事物の本性について』,という訳語がついていますが,本性=自然,事物=法,と置き直して『自然法』とすると,ほとんどの日本人は「法学」に関連する著作か,と思うに違いありません.しかしそれは『自然詩』つまり自然についての詩作なのです.彼のその「詩」の部分だけでも拾い読みしていただければ,彼が何をいいたかったかがわかります.多分彼は,<不可分なるもの>=原子=万物の種子=不生不滅な魂を,自然の事物の諸運動の根元にあるもの,自ら動くことによって他を動かしそれによって自ら動くもの,つまり原動力をもつもの,と考えたのです.

  古代自然学を継承したはずの中世神学は,古代自然学の最高の成果であった古代原子論を,その無神論(というよりは,全知全能の神の否定)の故に抹殺しようとしました.しかし,この古代原子論はプラトンやアリストテレスの中にも深く根付き息づいていたのであって,ルネサンスとともに復活し,ガッサンディやデカルトによって体系化され,自然哲学(natural philosophy)として成立していき,最終的にはボイルやニュートンの「粒子哲学」となっていきました.

そこではしかし,古代自然学が孕んでいたイノチやココロは完全に切り捨てられてしまっていて,「死せる物質」が外力によって(外延的に)運動する姿だけが残されました.これが悪名高い,いわゆる近代的「機械論」の成立です.ここでいう「機械」というのは今でいう古典的「準・静」力学(mechanics)の意味での諸機械にすぎません.現代のような内部に原動力をもつモノ(dynamics)としての自動機械のイメージとはほど遠い,人力や畜力,あるいは風力や水力などのような,機械の「外」からの力によって駆動され,テコや滑車や歯車の原理の組み合わせで動くようなモノに限定されていました.いわゆるカラクリ人形や時計が,当時の機械の最高のモデルでした.

  古代原子論の発生からはじめて,ヨーロッパ中世神学によるその抹殺へ,そしてルネサンスから近代にかけての復活から,現代的論理的原子論における完成に至るまでの自然学史の探究の成果は,未整理の草稿状態ですから,これを整理した上で,逐次公表することにいたしましょう.とりわけルクレティウスの著作の「現代版」を書くことがわたくしの希望です.

 

日本における自然学の伝統の貧困  残念ながらわが日本において,原子論はわずかにインド仏教(アビダルマ仏教)の中に含まれていただけで,全く根付くことがありませんでした.日本人が行ってきた自然に関する思索は,三浦梅園などのホンノ一部のものを除いては,ほとんど体系化されていないのです.中国古代の「易経」に影響されて成立したであろう三浦梅園の自然学つまり自然システム論などは,今となっては,とても「分かりにくい」ものになってしまっています.

  日本の近代(江戸時代)においては忘れてならないものとして,安藤昌益の自然学がありましたが,これは幕府の弾圧を恐れてか広く流通することはなく,好事家の手によって保存されただけでした.それが狩野亨吉によって再発見されましたが,火災によって失われたのは残念なことでした.

  自然学の伝統がこのように貧困なところへ,西洋の学問がドッと入ってきて,各「科」学分野のそれぞれに,それぞれの訳語が行われました.そのために,自然学というヒトの知識の「共通の根」が見失われて,知識の細分化いわゆる「タコツボ化」が,ますますヒドクなってしまいました.

自然 -安藤昌益によって自(ヒト)リ然()ルとよばれたもの- こそが,ただ1種のヒトがこの世界に生きるにおいては,ただ1つの共通の基盤であり,そのロゴスこそがただ1の共通の尺度であるはずなのに,それが多くの,相互に交流のない諸分「科」に分けられてしまいました.ですから,ここであらためて,万人にわかりやすい,自然のロゴスに対応した共通のコトバ,自然の真実を語るヒトの共通のロゴス・システム,をほとんど「最初から」「初歩から」再び,日本語で作り上げる必要があるのです.

 

自然の事物の運動の「数・量」=自然自らが自らを自らにおいて語るコトバ  自然のコトバ,それは自然の事物の運動の「数・量」です.ガリレイが「自然のコトバは数学によって書かれている」といった所以です.「数・量」とは,ヒトがそれを「数える」,「量る」という「行い」によって発生する,その意味と意義(ココロ)です.しかし,この「数・量」のロゴス,数量のコトバは,現代では「数学」と呼ばれて,人びとにはもっとも嫌われるコトバの体系になってしまっています.

  わたしたちは日々,無意識的にあるいは意識的に,自然の事物の運動の数や量を数えたり量ったりして生活しています.たとえば,時間とは,運動の数を数えることです.チクタクと振り子が振動するその数を「数える」という行いによって,時間が成立しています.空間とはやはり運動の量を量ることです.わたしたちは12歩と「歩く」ことによって拡がりを「量る」のであり,その「行い」によって,この生活空間としての時空間を成立させているのです.

自然の事物の運動の「数・量」は,ヒトのみならずコンピュータでもそれを簡単にかつ正確に「数える・量る」ことができます.つまり「数・量」を「数える」とか「量る」ということは,自然の全事物がこれを「行う」ことができるような,純粋な「行い」の1種なのです.このように自然とは,きわめて単純な「行い」としての純粋行為を成り立たせるような,きわめて単純な法則によって<ある>ものなのに,それを必ずしも意識していないのです.

  自然の事物の諸運動の「数・量」の概念,それこそが自然のコトバの根底にあるものです.それをいかに人びとに身近に感じさせることができるか,がわが自然学とメタ自然学の理解の鍵になるのではないでしょうか.結局は,精進あるのみ,自然とその内なる人びととの粘り強い対話あるのみ,なのかもしれません.日暮れて道遠し,ですが,倒れるまで歩き続けるしかないと思われます.

 

今西自然学  なお「自然学」という名称については,今西錦司が『自然学の提唱』とやってしまっています.しかし,彼の残した著作の殆どは,今でいう生態学で,ヤマメとイワナの形態上や生態上の違い,なんかを論じています.自然の本質,自然のロゴスを論じて,現代諸「科」学の共通の基礎となった古代自然学,とは似て非なるもので,それはむしろ自然における生態現象の記述であり,今日では自然史,あるいは自然誌,に分類されるべきものでしょう.

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