論理的原子論の成立
能産的自然と所産的自然との一致: この自然においては,モナドロジーの概念とオートポイエーシスの概念とがともに矛盾なく成立していて,それは現代自然学において,確実に実証されつつあります.この2つの概念の帰結するところは,「自然が・自然<する>」ということであり,自然こそがこの世界の全てであり,究極の主語でもあり,究極の述語でもある,ということにほかなりません.
古代ギリシアにあっては,自然とは,自然の万物をそこに「産み出すもの」(ピュシス,physis)の意でした.つまり,自然は産み出すもの,能産的自然(能動態であり,主語である)であり,また同時に,自然によって産み出されたもの,所産的自然(受動態であり,述語である)でもありました.
ヒトもまたそうです.ヒトが(主語)・他ならぬヒト自身を(対象)・産み出す(述語),のであって,ヒトに・産み出されたモノが・(また同時に)ヒト<である>のですから,ヒトはヒトにとっての究極の主語であり,また究極の述語でもあるわけです.このように,この自然において,自らが自らを自らにおいて生みだすことができるもの,それがイノチあるモノ,ココロあるモノなのです.わたしたちは,ただ1つの自然の種子 -究極の主語となり究極の述語となるべきモノ- から生みだされた自然の子たちなのであって,むろん,自然の子の親に<なる>こともできます.したがって,そうした自然の種子が内在させているはずの,その究極の本質を「分有する」あるいは「分け持つ」ものであるはずです.
ギリシアのみならず,一般に,インドでも日本でも,古代世界にあっては,自然の万物は「自然の(神的な,不死な,永遠不変な)法」に則って生き,「よく・生きよう」と意志する,自然の「内に」しか生きられないイキモノであり,自らが自らを自らに於いてこれを産み出すもの,だったのです.そこにあっては,死とは「再び」自然に帰ることであり,また生とは「再び」自然から出て,自然という存在基盤の上に成立するこのヒト社会に「再び」参入することであったのです.そうした,自然←→ヒト社会,の不断の循環運動あるいは往復運動の中にわたしたちは生きてきたし,また生きてもいるのですし,自然の内なるヒトとして生きている限りは,永遠にそのようでありましょう.
自然において自由であるとは,自らにより,自然法によるのみ: あらゆるヒトは,この自然と自らをのみその拠り所としているのであって,それ以外に拠り所とするものは一切何もないのです.自らに拠り,自然のロゴス(法)に拠り,わたしたちは生きているのです.それが,わたしたちがこの自然の内において自由である,つまり,自らが主語であり,自らの述語としての「行い」,自らがそれを意志しそれを「行う」ことによって,つまりその「自由な意志」によってこれを「作りだす」ことができる,ということです.
これは現代のわたしたちには「あたりまえ」すぎるほどあたりまえな,ごくごく簡単なことですが,実は,きわめて重大なことです.たとえば,「ヒトが・歩く」といった命題を考えてごらんなさい.「もし」わたしたちが究極の主語となるべきものすなわち「実体」としては存在していないなら,一体「誰が」歩くというのでしょうか.また,わたしたちが「歩く」という述語の究極となるべき「(歩くことの)本質(としての動性)」を全く<分け・持つ>ことができ<ない>のなら,一体どうして「歩く」ことができましょう.
この現代の余りにも自明な常識に反して,わたしたちヒトは「真の実体」すなわち「究極の主語」となるべきものでもなく,「真の本質」つまり「究極の述語」をもつべきものでもない,と考えられた馬鹿げた時代が実際にあったのです.ヨーロッパ中世神学がいうように,「もし」わたしたちを動かす「魂」が,「神」の意図によるものであるならば,わたしたちじしんは,真の実体つまり主語となることができるものではなく,むろん,「死せる物質」とても神の創造に係るのですからその本質は「神<である>」ことに与るのであって,わたしたちは神の僕として,神の意図するところに盲目的に従うだけの操り人形のようなものであって,神の思し召しのままに,神が作りだした世界の内に,神が命ずる通りに,ただ<ある>だけで,その他には全くありえません.要は,「神が・神<する>」ことが,わたしたちが・何事かを「行う」コトの本質でなければなりません.「もし」唯一の主語としての神が,神が創造した「ヒトの魂」を,これもまた神が創造した「死せる物質」に吹き込んだ,というのであれば,結局,ヒトとしては全く不自由な不条理なそして無能力なことにならざるをえないのです.ヒトの自己責任もへったくれもなくて,この世の出来事は善いことも悪いことも全部,神様の責任に,神様の思し召しのままに,となります.
結局,古代原子論は,このように究極の唯一の主語としての神,究極の唯一の述語としての神を立てるヨーロッパ中世神学にとっては,きわめて危険な思想だったのです.なんとならば古代原子論の本質とは,多くの主語となることができる原子すなわちロゴス的な<不可分なるもの>が実際にあり,それぞれが自由に,それぞれ自らの意志で,それぞれ自らがもつ本質がそれを作りだしておりまたそれに与るところの自然法に則って,相互に運動し,また相互に作用しあうことができる,つまり述語と<なる>ことができる,自己責任において何事かを「行う」ことができる,ということだからです.古代原子論がなぜ,ヨーロッパ中世神学によってかくも排斥され無視され忘却されたか,がわかるでしょう.
論理的原子論(logical atomism)とは何か: 近代において原子論が真に復活しえたのは,ようやく20世紀初頭に,ボルツマン(Boltzmann, 1844-1905)によって唱えられた分子運動論が実証されてからのことでした.それと時期をほとんど同じくして登場したのが,論理的原子論でした.それをはじめたのがウィトゲンシュタイン(Wittgenstein,1889-1951)で,それを体系化し『論理的原子論の哲学』(Philosophy of Logical Atomism)に整備したのがB.ラッセル(Russell, 1872-1970,ノーベル賞受賞)です.
論理的原子(logical atom)とは,1つのデキゴト,1つの「何かが・(何かを)行う」コトを,1つのロゴス(コトバ,logic<logos)的に<不可分なるもの>(原子,個体,individual<indivisible)とみなし,それらが私たちの言語空間(ロゴス的に<空なるもの>,つまり諸個体たち=原子たち,の運動の「場」)を作り上げている,という考えかたです.ごく簡単にいえば,たとえば「ヒトが・歩く」コトを1つの命題として,1つの論理的原子に対応させることです.そうすると,たとえば,ヒトの1日の行動は,そのヒトが・起きる,次に,そのヒトが・顔を洗う,さらに,そのヒトが・歯を磨く,・・・といった多くの論理的原子たちが次々と,生成し,運動し,変化し,消滅していく風景として記述できるでしょう.
さらに,そのヒトが歩いている間は,「ヒトが・歩く」という論理的原子が存在していて,そのヒトが立ちどまれば,「ヒトが・歩く」という論理的原子がそこで消滅して,そこに「ヒトが・立ちどまっている」という論理的原子が新たに生じることができます.このようにすれば,あるヒトが生きている間に行った「行い」の全てが,そのヒトが辿った「1つの人生」を記述していることが,容易にわかりますね.
このように,それぞれが1つの「行い」を表す多くの論理的原子たちは,その論理的原子たちに共通の主語である1個のヒトの存在によって結合されており,そのことによって,より大きな「1つの人生」という論理的原子,というより論理的分子とでもいえるもの,を作りだすことが簡単にできます.その人がある会社に帰属していたら,その会社に帰属する論理的分子たちの「行い」は,それぞれが1つの会社の「行い」の要素となることによって,1つの会社組織体の活動の全てを作りだすことができます.そうした会社が沢山集まることによってそこに1つの社会が成立するでしょう.このようにして,論理的原子論は,ヒトがそれを「行う」ところの全社会的活動の全てをキチンと記述することができます.
さらに重要なことは,この論理的原子論のモデルは,自然のあらゆる事物の「行い」にこれを適用することができることです.ヒトのみならず,イヌだって歩きます.イモムシだって立派に歩くといえるのです.自然なモノであれば,どんなモノ(個体)でも論理的原子の主語となることができます.また,そのモノが「行う」ところのあらゆる運動やあらゆる作用はその述語となることができます.
かくして,全自然現象は,全自然に包摂されているきわめて多くの「モノが・(それが「行う」ことができるところの,何らかの「行い」を)<なす>」というコト(事象)から成立しています.ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで,そうした多くの論理的原子が生れ,運動し,変化し,消滅していく風景の総体として,この全自然の現象が成立しているのであり,これが,論理的原子論が描き出すところの,この自然の風景なのです.
相対論的量子場の理論の成立と論理的原子論: ウィトゲンシュタインやラッセルが論理的原子論を唱え始めた頃に,1905年にアインシュタイン(Einstein,1879-1955)が相対性理論を発表し,それよりちょっと先に1900年にプランク(Planck, 1858-1947)が量子論を発表しました.この相対性理論と量子論とは,多くの人びとの努力によって統合され,相対論的量子場の理論となり,今では,それがこの自然の全存在の基礎を形作る標準理論となっています.この相対論的量子場の理論は,極微のミクロコスモスである素粒子の世界から,極大のマクロコスモスである大宇宙に至るまで,欠けることなく厳密に成立しているものと考えられます.いわゆる古典力学(ニュートン力学)とても,この相対論的量子場の理論の,光速度を無限大,プランク定数を0と見なした場合の「きわめてよい近似」に他ならないのです.そして,この相対論的量子場の理論こそ,論理的原子論を基礎づけるものに他ならないのです.
相対論的量子場の理論においては,静的な状態というのは全くありえません.相対論的量子場の理論において,全てのシステム(系)は運動状態でありエネルゲイア(運動の現実態)であり,そこに1つの相互作用(interaction)が起こると,その運動状態が変化します.これを(a’, b’)=Interaction・(a, b)と書くことができましょう.運動態aと運動態bとが,1つの相互作用(interaction)という「行い」によって,運動態a’と運動態b’に変化した,とこれを読むことができます.するとこれは,論理的原子論の風景そのものです.1つの「行い」としてのInteractionが「作用素」(operator)として「作用する」(operation)ことによって,運動状態(a, b)が消滅し,その代りに,運動状態(a’,b’)が生じた,ということになります.
このようにして,相対論的量子場の理論が,極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスに至るまで成立しているならば,論理的原子論もまた,極小のミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで,成立しているに違いないのです.論理的原子論が,相対性理論および量子論とほとんど同時期に発表された,ということは単なる偶然では決してなかったのです.人びとは,20世紀になってようやく,自然の存在の真の本質とでもいえるようなものに,気づきはじめたのでした.