モナドロジーの概念
モナドロジーとは何か: ただ1つの動的な自然の存在 モナドロジー(monadology < monad+logos)とは,ライプニッツ(Leipniz,1646-1716)が立てた概念であって,この世界は1個の種子的存在者(monado,単子)から出発した,という学説です.これは20世紀後半(1965年)に至って,宇宙の2.7°Kの背景輻射が発見されるに至るまで,約250年の長きにわたって,荒唐無稽なそれこそ「形而上学的な」つまり空想的かつ独断的な仮説である,と思われてきました.しかし,宇宙の背景放射が等方的であることから,この宇宙はたった1つの「点」状の超・高エネルギー・運動の量をもつ領域から出発して,現在のこのような状態にまで進化発展してきたのだ,といういわゆる「ビッグ・バン」仮説が有力となりはじめました.
現代物理学(宇宙論)が実証しはじめたところの,この「ビッグ・バン・モデル」によりますと,わたしたちが住むこの世界(大宇宙,グランド・コスモス,=大「自然」)は,138億年前のビッグ・バンつまり1つの「宇宙の種子」ともいえるような状態から生じて,その中に,わたしたち人類つまり唯一種としてのヒトに属する全ての諸「個体」(=個人)を産み,育んできた,ということです.たった1粒の「種子」から長い年月をかけて1本の巨大樹が育つように,このような大きな世界(=「自然」)もまたたった1つの「点」から出発して,その中に,多くのイキモノやココロあるものつまり諸「個体」を産み,育んできたわけで,この自然は,たった1粒の種子から生れた,いわば1本の巨大な「世界樹」のようなものだ,ということですね.
そして,ついにこの理論によって,宇宙の時空的な拡がりが138億光年として決定されるに至ったのです.たった1「点」の時空的領域としての「万物の種子」すなわち「単子(monado)」から出発し,138年にわたって進化発展してきたこの自然,という概念を「現代のモナドロジー」ということができましょう.
わたしたちが住むこの自然を包む時空は有「界」であるが有「限」ではない 現代のモナドロジーの概念の下では,この宇宙はきわめて広いが,しかし明らかに有界です.わたしたちは,少なくとも138億光年の「有・界」な時空の拡がりのなかに住んでいます.その拡がりの外はおそらく,もしそれがあってとしても,運動が<全く・ない>場所なので,この運動に満ちた世界からはいかにしても到達しようがないでしょう.自然の事物の断えざる運動が止むところ,それが真の虚無にほかなりません.そうした虚無こそは<全く・存在しない>も同然のものでしょう.このように,わたしたちヒト(人類)は,たった一艘の「宇宙船地球号」に乗って,この広大なしかし有界な時空,を旅しているのです.
またこの時空の拡がりは有限なのではありません.「有・限」というのは限定されていることですが,しかし,この時空は断えず膨脹し続けてもいるのです.現在138億光年の拡がりをもつ時空は,100億年後には238億光年の拡がりをもっているかもしれません.あるいは拡がりの速度は落ちてきているかもしれません.その可能性は低いと思われますが,収縮していることだってありえましょう.この時空の拡がりは,正確に,かくかくしかじかである,とこれを「限定する」ことができません.それは「無・限定である」つまり無限(定)であるのです.ここでいう「無・限定である」ということは,静的では<ない>,むしろ動的である,ということです.動的であるがゆえにこれを静的なモノで限定することができないのです.ということは,それが進化し発展することができることであり,そこに自己を新たに「再」創造するという自由度が<ある>ということです.
数学的にいうと,この宇宙のあり方は,有界ではあるが,しかし,確定した境界を持たない,つまり「閉じており・かつ・開いている」というモデルで表現することができます.典型的には円環とか球面がそうです.空間は3次元なので,この時空は,動的に拡大しつつある3次元トーラス(円環体)あるいは3次元球面(体)によって表現されえます.
さて,ビッグ・バンとよばれる1つの種子から発生したこの宇宙はどうなるのでしょうか.今のところ,それは1000億年後ぐらいに1つのブラック・ホールに飲みこまれてしまうのではないか,といわれています.そのブラック・ホールがさらに1「点」にまで収縮するようなことがあったとしたらどうなるか,それは想像の他ではありませんが,また「新しい万物の種子」として,それは「再・生」するのかもしれません.なにしろ,この宇宙においては,4元運動量(3元運動量とエネルギー)は「厳密に」保存されているのですから,この宇宙のそれら全部が1つの「点」にまで集中したら,それはやはりビッグ・バンをひき起こすしかないでしょう.つまり,この宇宙は,極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスに至るまで,不断の循環運動,不一不異的な繰り返し,の内に<ある>のではないでしょうか.
自然の事物をカタチ作るもの この自然の中では,自ら・運動<する>ことができること=「存在<する>」ことができること,なのです.少なくとも,この世界は,生きている,活動している,自らが・自らを・自らにおいて,動力学的ハイパーサイクル・システム(自己「再」生産活動のこと)の存在によって,作り出すことができるのです.結論を先取りしていうと,全ての自然の事物は,それじしんが既に何らかの動力学的ハイパーサイクル・システムであって,さらによりマクロな動力学的ハイパーサイクル・システムに参加することによってはじめて,よりマクロに<ある>=存在することができるのです.
この自然がコスモス(cosmos)であり秩序あるものである,といわれるのは,自然の全事物がとる,そのカタチ(形相,形象,エイドーラ>イデア,理念,理想)の普遍性にあります.日,月などの天体は丸い,動物の瞳も丸い,植物の幹や枝は直線を基本として,円がそれに交じり,葉は螺旋状をなして枝につく,といったように,世界のカタチは「概ね」円と直線から成り立っており,そうしたカタチを理想としている,と古代ギリシア人たちは考えました.むろん,直線で囲まれた基本図形である3角形もまた,自然のカタチの1つの理想でした.
このカタチを作る原理が,動力学的ハイパーサイクル・システムの普遍的存在であって,この原理の存在によって,自然は自らが自らを自らにおいて形作ることができることが,ついに明らかになりました.自然の全事物が生きている,活動している,自然が・全てを生みだし,自然が・全てを育むことができる,といいうるのは,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで,素粒子論の領域から,生物の領域を経て,宇宙論に至るまで,動力学的ハイパーサイクル・システムが,自然のあらゆる大きさの階層において普遍的に存在していること,によるのです.
もろもろの文字や記号,すなわちモロモロのカタチを,わたしたがそこに「描く」ことができるのは,またそれを「読み」そしてそれを「話し」また「聞く」ことができるのは,およそ自然の全てが何らかの「行い」を<なす>ことができるのは,この動力学的ハイパーサイクル・システムの存在によるのである,と証明されます.要は,自然の事物のロゴス活動すなわちモノをカタチ作る活動の,その全ては,この自然のミクロコスモスからマクロコスモスに至るまでの,動力学的ハイパーサイクル・システムの普遍的存在,によっているのです.
この自然の事物の全ては,ミクロレベルからマクロレベルに至るまで,自らのカタチを断えず造り上げつつ断えず「再」生産するという「活・動」を「行って」います.この世には「完全に・死せるモノ」などは何ひとつとして<ない>のです.ヒトにとって死と見えるのは,その個体としての,その個体の大きさのレベルでの,その個体維持機能の停止であるにすぎません.