自然・内・自由な存在としてのヒト

-わたしたちは,自然システムにおける相互無危害性と相互善行性の概念によって,

身体の自由と共に,心の真の自由をも取り戻すべき時にきている.-

 

ヒトが「自由」であるということは,誰をも支配することなく,誰にも支配されることなく,自立しており,また自律することができることです.いかなる他のモノにも支配されないし,いかなる他のモノを支配することもない,それが自然・内・存在としてのヒトの自由の概念です.第2次世界大戦後の日本ではようやく,自然権としての基本的人権の概念が確立されて,私たちの身体は,ようやく自由を取り戻すことができたのでした.

  しかし,その心についてはどうでしょう.まだまだ神や仏やいろんな人びとが造り上げてきたイデオロギーに無意識に支配されている人が多いのではないのでしょうか.われわれヒトの心も,そろそろ,過去の支配者たちがデッチあげ,人びとをそれによって支配してきた「虚妄」から,完全に「自由」になってもいい頃ではないでしょうか.

これまでこの自然は全知全能の神が作り出したものである,とか,三劫という永遠に近い時間をかけて仏が作り出した世界がある,とか,された時代もありました.ところが,神やら仏やらの生きた姿は,この世には,それこそ宇宙のミクロからマクロまで,宇宙の果てから果てまで,どんなに探したって<全く・ない>ことはもう明らかでしょう.現代に残っているのは,神や仏の偶像,その死せるモノ,残骸,遺物,でしかないのです.

  いかなる神や仏も,そのイメージは,ヒトの似姿であって,ホラー・ビーストと同様の,「虚仮威し」でしかなくなっています.神や仏とは,自然の産物としてのイキモノやココロあるモノでは<全く・ない>のであって,それらはヒトの「空想」の産物にすぎず,それはありていにいえば「虚妄」あるいは「真っ赤な嘘」にすぎません.

  中国の道教にある「天帝」や「玉帝」とても,今や,人びとの「虚妄」のみに巣くうことができるものになってしまいました.それは「皇帝(そのパロディが共産党の一党独裁でしょう)」がこの世の人びとを現実に支配してきたものであるように,いわばヒトのココロを支配するために支配者階級によって,皇帝を真似て捏造された「幻影」にすぎません.現代の「贋作者」たちは,「将軍さま」やら「共産党書記長さま」やら,に似せて,その「玉帝」を描くことになるでしょう.神や仏とは,ヒトの他者への支配欲,いわゆる「死の恐怖」によって他者を支配しようとする「力への意志」とよばれるもの,が神格化されたものに他ならないのです.

  わたしたちの心が,誰の心によっても支配されないし,むろん誰のココロをも支配しない,それがわたしたちココロの真の自由なのです.いわんや,いかなる過去の虚妄や幻影にも,全く支配されないこと,それがココロの真の自由なのであって,自然システムの探究はこの自由なココロによって支えられ,また自然システムの探究によって,身体とココロの自由こそがわたしたちの目指してきたものであることが明らかにされ,ヒトのココロはより自由に<なる>ことができるのです.

→戻る