オート・ポイエーシスの概念

 

自らが,自らを,自らにおいて作り出すことができる自然  この自然は,中世のスコラ学者やデカルトが考えたような「死せるモノ」あるいは「ココロなきモノ」としての自然ではもはやありません.あらゆる自然の事物は,そのミクロ領域においては断えず熱運動しまた量子的にゆらいでいます.

わたしたちは日常的に,そうしたミクロ領域における不断の熱的な運動や量子的な「ゆらぎ」を「意識する」ことはほとんどありません.しかし,それらミクロな諸運動の総体を「感覚する」ことは簡単にできます.たとえば,冷/暖や乾/湿がそうです.古代においてすでにアリストテスは,冷/暖,乾/湿を,自然の事物がその内部にもつ本質的属性であると考えました.

現代自然学の証明したところでは,冷/暖とは,その物質のもつ熱的な諸運動の総量の<少ない/多い>であって,温度計でこれを正確に測ることができます.乾/湿とはそれが含む水の分子(それらは断えず運動しています)<少ない/多い>であって,湿度計でこれを正確に測ることができます.この自然はミクロ領域からマクロ領域に至るまで,運動と作用に満ちている「活・物」なのですが,それがわたしたちと動的な平衡状態の関係にある場合には,わたしたちはそれを殆ど感覚しないし意識しもしない,ただそれだけなのです.

また,「モナドロジーの概念」においても述べたように,現代自然学は驚くべきことを発見しました.この自然は138億年前にたった1つの「点」状の厖大な運動の量をもつ領域,たった1つの「宇宙の種子」とでもいえるようなものから出発して,光速度に近い速度で膨脹し,進化・発展してきた,ということでした.したがって,この自然は,自らが自らにおいて自らを形作ることができる力を内在させていなければなりません.

詩をpoetといいますが,そのギリシア語源であるポイエーシスpoiesisというのは,詩作することです.詩作することだけではなく,広く製作すること,とりわけ新たなものを創作することです.詩作するということは,コトバによって何かを創作するということであり,創作とは新しく作りだすことであって,それは進化することができること,でもあります.

これを一般化して,自己を新たに製作する,創作することをオート・ポイエーシス,auto-poiesisといいます.オートはオートバイとかの「自から動くもの」すなわち「自・動」の意です.わたしたちは日々絶えず自らを「再」創作する活動を「行う」ことによって,生きています.生きていることは,活動していること,何事かを「現に・行っている」ことです.その「行っている」こととは,自己をたえず「再」創作している,その結果として,ホンノ少しずつではあるが進化し続けている,ということです.

この自然はたった1つの種子的存在からはじまって,この状態に至るまで進化してきたのです.自らが(主語が),自らを(対象を,目的語を),自らにおいて(存在の場に<おいて>),作り上げ(述語<する>),創造し,進化し続けることができるという自然の概念は,今や疑いの余地なく実証されつつあります.この自然は自己完結的に「存在する」ことができます.これを「オート・ポイエーシスの概念」(auto-poesis)といいます.

1つの「人・生」って,1人のヒトの数々の「行い」を11つの「数珠玉」に例えると,その「一連の・数珠・繋ぎ」というわけです.数学では,「1つの線」とは,無(限定な)数多の「点」の秩序づけられた集まりとして,つまり,無限定な数の多くの点からなる「1つの・集・合」だ,と考えます.それと全く同じことなのです.

ヒトの身体システム(ミクロコスモス)を考えてみましょう.ヒトの「1つの身体」とは,ただ1つの受精卵細胞(ヒトの「種子」)から分化して枝分かれしてきたものです.だから(4次元)時空間上で人体の成り立ちを考えると,それはあたかも「1本の世界樹」のように見えるでしょう.

進化論では,この地球上にある「1つの生態システム(マクロコスモス)」が,ただ1つの種子的な生命から発生しそれが多くの種に分化しその種が次第に進化してきたと考えます.だからそれを4次元の時空間上で描けば,「1つの巨大な進化系統樹」ができあがるでしょう.

このことを発見したのは必ずしもこの現代のみではありませんでした.自然の探究に携わってきた多くの人びとが,古代原子論から現代原子論に至るまで,それに薄々は気付いていたのです.しかしそれは中世においては,全知全能の神による自然の創造という独断論的「有」神論によって,独断論的「無」神論として排斥され,忘却され,近代にいたってようやく復活しはじめ,ガッサンディ,デカルト,ライプニッツ(モナドロジー),ニュートン(粒子哲学)等の古典力学の創始者たちによってようやく復活の途につきはじめ,現代において完全に復興することができたのでした.

 

自然の万物は,それぞれが「宇宙の種子」としての自然本性を分け持っている  あらゆる種子は自らが自らを自らにおいて作りだす力をもっています.この場合「1つの種子」を時間的に孤立させて考えてはマズイので,1つのライフ・サイクルの1局面として考えてください.1つの種子に注目しますと,それは発芽して若芽となり,それが長大な年月をかけて大樹となり,それはやがて種子を残して枯死するでしょう.しかし,それが残した種子は,環境さえよければ発芽して,また大樹となることができ,それがまた種子を残すと,ここに1つのライフ・サイクルが完成します.種子→若芽→大樹→種子・・・これが()永遠に繰りかえされているのが,地球上の植物たちのみならず,わたしたちヒトを含めた,イノチあるもの一般の様相でしょう.つまり,この一連のライフ・サイクルを作りだす「種子」は,いわば不死なのです.

この自然がヒトを産みだし,それを「製作するヒト」にまで進化させることができたのは,自然が自らを自らにおいて自らを製作すること,しかも進化することができることを,その本質としていたこと,そして,自然の生みだしたヒトそれじしんが,自然の本質に与っていた,ヒトが自然の本質を分け持っていたから,に他ならないのです.この世に実在するものは,全て,わたしたち自身と私たちが作り出してきたものもふくめて,その全てが自然の産物なのです.

このように,この自然は,自己の本質を世界に展開することができる「万物の種子」に満ちていて,それらからすべての事物が構成されている,と古代人たちは考えたのでした.それをパン・スペルミアー(汎種子生命体)説といいます.このパン・スペルミアーが原子(atom<不可分なるもの>)の正体だったのです.これについては,ルクレティウスの『(自然の)事物の本性(自然)について』を註釈したものがありますので,そのうちに発表しようと思っています.

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