はじめに
自然システム論の基本テーマ: はじめに「行い」ありき 自然・内・ヒトの存在の,その全ては,この自然の内において「よく・生きる」ための諸々の「行い」すなわち諸活動から出発しているといえましょう.さらには,わたしたちを取り巻くこの自然と,わたしたち自然・内・ヒトそれ自身,つまり自然の内にあって不断に自己を「再」生産することなしにはありえないヒトと,それ以外には,この世界において,わたしたちが関心をもつべきものは何もない,ともいえましょう.この自然と,わたしたち自然・内・ヒトとが,共に・よく・生きること,それのみが,わたしたちが存在するということであり,「よく・生きる」という「行い」あってのわたしたちの存在です.
わたしたち個々人,わたしたちがそれに帰属しわたしたちがその構成要素となっているあらゆる組織体,家族,会社,そしてそれらを統合する社会は,自然・内・存在として,自らを「再」生産することなしには存在することができません.この自然においては,あらゆる存在者は,自らを,自らが,自らの努力によって,日々「再」生産しないならば,決して存在することができません.
この自然において,あらゆる存在者は,それぞれがすでに1個の「産業システム」 –自己を不断に「再」生産することを,その生業(なりわい)とする1つのシステム- としての存在なのであって,1つの活動体であり活動態(エネルゲイア)なのです.そうした個人,家族,組織,そして会社を含めた全産業システムの総体としてのよき社会システムこそが,わたしたちがこの自然の内においてよく生きることができるためには,必要にして不可欠な存在なのです.したがって,わたしたちがよく生きることができるためには,それぞれの存在の階層における,「よき・産業システム」としてのあり方,が探究されなければなりません.
この研究室ではこの間,自然学とメタ自然学に関連し,労働とその価値の概念から,個人,家族,組織,要するにヒト社会の存在原理について,そして労働者をその要素とする「ヒト社会価値「再」生産システム」とその労働者の魂ともいうべき「技術システム」について勉強し探究してきました.あらゆる「産業システム」のいわば「魂」とよばれるもの,産業システムが自己をよく「再」生産するという「行い」を,よりよく・行うことができるために必要不可欠な存在,それが「技術システム」です.この全てのヒトに宿る「技術システム」の総体として社会技術システムこそが,プラトンのいう古代的ヌース(知性)であり,ヘーゲルのいう「世界精神(Welt Geist)」の正体だったのです.
この社会技術システムが進化し発展することによって,わたしたちヒトはこの文明化された社会を作り上げてきました.しかし同時に,この社会は多くの文明病ともいえるようなもの –多くの戦争や福島原発事故をその典型とする-ものをも生みだしてきました.この文明病を根治させることなしにわたしたちは「よく・生きる」ことができないところまできているのではないでしょうか.この文明病を完治せしめるためにこそ,わたしたちがもつ「よき・技術システム」を不断に改善することが,今,必要不可欠なのではないでしょうか.
諸々の「技術システム」の改善の諸過程は,自然とヒトとの真摯な対話によって行われなければなりません.そのためには自然の真実のロゴス(コトバ)を知らねばならず,またヒトのロゴスをも自然のロゴスに即して,自然の真実をそこに映し出すことのできる,いわば「自然の鏡」としていかなければなりません.そして,自然のロゴスとヒトのロゴスとの不断の対話による,この「技術システム」の不断の改善過程を遂行する最もよい方法,それがわが「自然の弁証法」なのであり,そうした方法の現代における「解き明かし」こそ,わがメタ自然学研究室が,いつかは成し遂げようと目指すところのものです.わがメタ自然学研究室は,かくして日常の諸活動の分析から出発して,ついには究極の<不可分なるもの>としてのミクロコスモスへ至り,それらをよりマクロなものとして統合しつつ,ついには究極の<空なるもの>としてのマクロコスモスに至り,こうした円環運動を断えず行いながら,自己を「再」生産しつつ不断に改善しついには進化し発展することができるような自然システム論の,不断の「再」構築活動を目指します.