結論

 

主語は述語をともなう  ただ1つのこの自然には,その「魂」とでもいえるような,ただ1つのロゴス・システムがあります.それは,主語・(動的)述語,という構造です.それは,あるモノaが・Aを「行う」,と書くことができます.わたしが今まで探した限りでは,このきわめて単純な文法の以外には,自然の文法は,まず<ない>と思われるのです.このこと「主語が述語を伴う」ことはライプニッツによって発見されました.

  この「自然の文法」といえるものの存在は,自然システム論で述べたように,この自然における存在者は動力学的ハイパーサイクル・システムとしての存在の他にはありえないことから,簡単に説明されます.動力学的ハイパーサイクル・システムが・自由エネルギーを消費することによって,何事かを「行う」,それが,存在者(モノa)が・存在する(Aを「行う」),ということでした.動力学的ハイパーサイクル・システムである主語が・(何事かを)「行う」コト,それが自然現象であって,それ以外には,この自然には何もないのですから,この「自然の文法」の存在は,わが[1つの論理的原子=1つの多階層的動力学的ハイパーサイクル・システム]論に基づけられるのです.

 

自然のカテゴリーの存在証明  古代原子論は,わが[論理的原子=動力学的ハイパーサイクル・システム]論において,完全に復活を遂げることができました.古代原子論の基本テーゼは,この自然は,多くの<不可分なるもの>(原子)と,ただ1つの<空なるもの>(虚空)があるのみ,ということでした.

それに対応して,わがメタ自然学における基本テーゼは,この自然においては,多くの<不可分なるもの>としての動力学的ハイパーサイクル・システムが,その動力学的本質であるところの「相対論的統計的量子場の理論」によって,ただ1つの<空なるもの>としての「時空」において生成し,運動し,変化し,消滅していくという風景がただあるばかりなのです.あらゆる自然における存在者は,その存在の本質であるところの動力学的ハイパーサイクル・システムとして,不断に自己を「再」生産するという「行い」によって存在することができるのみであって,そうした自己の「再」生産活動にかかわる「行い」,それのみが価値ある「行い」であって,「よき・行い」と呼ばれ得ましょう.

そして,自然・内・「行い」とは,動力学的ハイパーサイクル・システムが「行う」ことができることに限られます.つまり,(動力学的ハイパーサイクル・システムとして存立するところの)存在者が(主語)・時空間のある領域において・(動力学的ハイパーサイクル・システムとして)何事かを「行う」(述語),そのコトじしんが,唯一の「自然のカテゴリー(=自然法則)の存在」である,ということがここに証明されました.

  この自然のカテゴリー,すなわち自然法則を記述することのできる「技術システム」は,結局,数学によって表現され,コンピュータ・システム上の再帰関数によって実現される(再現されうる)ことになります.ガリレイの夙に予想していた通り,「この自然の全ては数学のコトバで書かれている」のです.かくして,自然学のオルガノンとしてのメタ自然学が,現代の「技術システム」の内において「自然の鏡」として存立することができること,がここに証明されました.

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