PDCAサイクルの発見

 

「行動の構造」の進化  この宇宙は,ミクロコスモスからマクロコスモスにいたるまで,進化し続けてきました.進化し続けているこの自然の,その真只中において「存在する」ということは,「進化し続けることができる」ということであり,それ以外では全くありえないのです.ここまで進化し続けることが,とにもかくにもできたわたしたちは,もう立ち止まることはできないのです.

わたしたちが過去を探究しようとする,つまりhistoria(探究)<する>のは,わたしたちが過去において行ってきた「過ち」あるいは「失敗」をキチンと反省し,それをよき未来の創造において活かすためでしょう.要は,わたしたちが「よく・生きよう」とするためには,わたしたちの「行い」の総体の背後に潜むところの本質,「行い」の普遍的存在様式であるところの「行動の構造」(structure of action)を,断えず<よく>する,つまり進化させることができなければなりません.

その「行動の構造」を進化させる原理が,PDCAサイクルの存在です.わたしたちはわたしたち自身の「行動の構造」を断えず進化させるために,自己の「行い」が引き起こした問題点を反省し,その問題を解決し続ける,というPDCAサイクルを永遠に回し続けるしかないのです.2度と繰り返すことのない過去へ,わたしたちの未来への希望を投影することなどはキッパリとやめて,現実を直視し,そこに問題点を発見し,その問題を解決する方法を見出し,それを実践することによって,自己とそれを取り巻く環境を次第に改善していく,それが,古代仏教において説かれはじめた「4つの真理と8つの道」であり,それこそが,わが自然学およびメタ自然学の目的とするところ,であります.

 

「行動の構造」の進化の原理としてのPDCAサイクルの発見  PDCAサイクルを発見した功績は,インド古代仏教徒に帰せられると思います.その成果は「4つの真理と8つの正しい道」(48正道)としてまとめられました.この方法は,古代の医「術」(いわゆる頭の中だけでやる「()学」だけではなくて,実践応用をも含めたという意味で)から発生したのでした.この観点から,ヒトのパトス(感性,判断力)・ロゴス(悟性,論理)・エートス(実践理性,倫理)を見直してみると,以下のようになります.

:パトスpathos. 英語ではペーソス,と発音されて,人生の苦悩,悲哀,といった意味で受け取られますが,これは古代での病気の概念のように,何かしら得体のしれないものがヒトに取りついて,その結果として,心身が悩み苦しむ,ということです.これはつまり,この世界からわたしたちに押し寄せてくる「苦しみの正しい感受」です.それをもっと積極的にすると,この苦しみを苦しみとして受け止め,それを解決すべき問題として「認識する」あるいは「判断する」ということです.それはまず,苦しみを正しく直視し,正しく問題の存在を認識せよ,という真理であり,つまり解決すべき問題の発見です.

:ロゴスlogos. ギリシア語を語源とするロゴスとは,何度もいってきたように言語や理論,ヒトにとっては彼に特有と考えられた「言語活動一般」を称します.わたしたちは言語を,世界のいろいろなモノを分類することに使います.たとえば,「リンゴ」といった場合,「リンゴ」というコトバは,世界からリンゴと呼ばれうるもの「だけ」をヒトに「集めてくる」はたらきがある,と考えられました.それをさらに延長すると,リンゴがリンゴであるための本質が,リンゴというコトバに,いわば「籠もっている」と考えたわけです.それを敷衍すると,苦しみをもってして,これなる「苦しみ」が「病」<である>と認識した場合,ヒト「病」に<する>「原・因」が「病」というロゴスそのもの,つまりコトバにある,と考えたわけです.つまり,それは「苦しみの原因の正しい究明」,「何が(主語)・いかに存在するか(述語)」ということ,いかなる原因の存在によってこの病が結果として起こるのか,という因果関係に係わるロゴス的判断,悟性的活動,正しい言語的活動,正しい推理推論活動の存在を意味するのです.

:エートスethos. やはりギリシア語を語源とするそれは,倫理と訳されます.それは実は,ヒトの習慣のように,無意識的にせよ意識的にせよ「行動を引き起こす何か」のことです.たとえば,寝て起きたら顔をあらう,というような,一種の習慣的な行動パタンのことです.ヒトが自分自身を「苦しめる」その原因であるところの「病」を発見したら一体,どうしますか? 彼は,その病の原因をとにかく「滅しよう」と行動しはじめる,に違いありません.わたしたちは,わたしたちの身の回りに諸問題や不具合を発見したら,とにかくその原因を探し出して,その原因をとにかく滅ぼうそうとするでしょう.たとえば,蚊にさされた,カユイ(),これは蚊かがそこにいてヒトを刺すという「行い」を原因にしているに違いない()からだ,さぁ,とにかくこの蚊を滅亡させなければ,と行動を開始する()ことによって,「蚊を・叩く」という実際の「行い」が起こる,というわけです.つまりこれは,「苦しみの原因に対する正しい問題解決行動」つまり正しい実践理性のあり方を示します.

:過程pathway. さて,このように考えると,苦しみの正しい感受(),その苦しみの正しい原因()の探究,その原因を消滅させる正しい行動(),は1つの習慣的な「正しい・行動パタン」,1連の過程,を生成していることがわかります.これが「道」です.ヒトが何度もそこを歩くことを習慣にすると,そこには結局,通い慣れた「道」ができます.たとえば「蚊を・叩く」という「行い」を咄嗟にほとんど本能的にできるようになります.このように,苦・集・滅,という3つの要素が結合されて,1つの正しい道,としてまとめられることになります.4つの真理とは,3つの正しい要素(苦・集・滅)からなる1連の正しい「道」,をそこに表現している,といえます.この「道」とは結局,1つのPDCAサイクル,1つの問題解決法(solution)の成立にほかなりません.

「八つの正しい道」も,このように,3+13+1,とまとめることができます.正しい認識(),正しい思考(思惟),正しい言語活動動(),それを1つの正しい生活習慣(業,なりわい)にせよ,そして,正しい行動目的に向う(命,開始点)ところから始めて,正しい努力(精進)をなし,ついに正しい思考方式()に至るまで,それによってついには,一つの正しい不動の境地(定,終着点)が完成するであろう,と.むろん,古代には人びとの行動範囲はきわめて限られていましたから,そのココロの鍛練,ココロの浄化,を専ら行うしかなかったから,人格の完成といったところで,それは一つの前人未踏の心境に到達しえた,(と彼らは思った,確信した)にすぎなかったわけでしょうがね.

ようは,あらゆる状況にあってその状況下で,最も正しい行動パタンを選び,それを自らの心身において体現し実践すること,現実の諸問題を正しく認識し,正しく解決する方法を探し出し,その方法を正しく実践することです.その一連の「よき・行動のパタン」(それは,古代にあっては「無危害・行」,そして「善・行」であり,それが「正・業」です)を学び,それを自らにおいて完成させること,それこそが,自然学の探究を通じた,その人格の陶冶である,ということでした.

現代では,「苦・労」=「苦」しみ・かつ・心身を「労」することです.「苦しみ」とは古代仏教においてはドゥカ([]パトス),とよばれましたが,これは自然と直に接すること,自然の存在を「感受する」ことです.わたしたちが心身を「労する」ことは,エートスとよばれ,問題解決行動や価値「再」生産的労働のために自然に働きかけるためです.「苦・労」とつなげるのは,ヒトの行為には,受動・能動,の両側面があってはじめて成立する,ということです.逆に「労・苦」というのは,ヒトが自然に働きかけた結果,その反作用がヒトに帰ってきて,それを感受することになる,ということです.

もっというと,「苦」とは,pathos. pathosとはpassive senseつまり受動的感性, それは「苦・楽」の苦じゃなくって,ヒトの心性をカントのように「(受動的な)感性・悟性(判断・推論)(能動的な実践)理性」としたときのむしろ「感性」にあたるものです.ふつう,解決すべき問題が感受されると,それを解決しようとして(いささかは)苦しむわけですよ.つまり,苦とは,それに引き続いての,イノチあるモノ全てが行っている問題解決行動の,その「はじまり」なのですから,「苦悩する」ことがイノチあることの証明である,というのはよくわかりますね.

でも,問題解決行動がとても簡単にできてしまう場合には,わたしたちは「苦しみ」を全く意識しません.たとえば,「腹がへった」という事態は自然状態ではもう既に「飢餓状態そのもの」であってそのまま「苦しみ」だったでしょう.しかし,ちょっと近所のコンビニに行ってオニギリでも買って食う,という安易な問題解決行動に慣れきっている現代のわたしたちは,それを「苦しみ」などとは全く意識せず,それこそ日常茶飯,食事時間開始のシグナルのようにみなすようになってしまいました.

しかも,わたしたちはそこで,さあ一体何を食べようかな,あれこれ空想して「遊び」さえします.「もし」お金があったらウナギを食べるのだが,ちょっと懐が淋しいから「実際には」カツ丼にしようか,など.「遊び」つまりこれは環境適応シミュレーション(模擬実験)行動です.

このようにほとんど,遊び=環境適応シミュレーション行動,においてわたしたちは問題解決行動をそれこそ「自然に」習得することができたので,それを「苦・労」とは全く思わなくなってきました,むしろそうした問題解決行動一般を,退屈な仕事の繰り返し,つまり「暇つぶし」であるかのように,感じるようになってきたのではないでしょうか.繰り返し勉強する,繰り返し運動する,それは実は,問題解決に関わる諸行動を,より洗練することに役立っているのかもしれないのにね.

実際には,わたしたちは日常,いろいろな問題に直面しつつ,その問題を解決しながら生きています.大きな問題に直面したときには,その起源に遡って,それを探究し,その問題の本質において解決を計らなければなりません.それが『ナーガの道』の副題である「4つの真理と8つの正しい道」で,現代でいうとそれはあらゆるビジネスマンがその行動の規範として知っているだろう,PDCAサイクル,問題解決の技法,のことです.

  わたしたちは自らを日々絶えず「再」製作,「再」創作しないと生きてはいないのです.わたしたちの現在の「活・動」は,断えず発生する諸問題を解決することによって,わたしたちの未来を「よく・再」製作すること,「よく・再」創作することに賭けられているのです.

 

ヨーロッパにおけるヒトのパトス・ロゴス・エートス論  プラトン,アリストテレスは『ティマイオス -自然について-』にもあるように,わたしたちの住むこの「唯一の自然」の神的な(不死な,「半」永久的な)存在を知っていたのです.古代的ヌース(知性)とは,あらゆる自然の事物に分有され,それら自身を存在せしめていました.そのたった一つの自然が,ヒトの恣意によって「多くの,ヒト中心的な,階層的な諸世界」つまり諸階級別々の世界,に分割されていったのではないでしょうか.デカルトは心身二元論だし,近代啓蒙の始祖といわれるカントでさえ,自然(感性)界,人間(実践理性)界,叡知(純粋理性)界,などとやっています.つまり,ヒトのパトスは自然界に属し,ヒトのロゴスは叡智界に属しており,ヒトは,その自然界と叡智界を結合する媒介項としてのエートスをもって行動している,というわけです.

これをなんとか一続きにしようと努力したのが,ヘーゲルだろうと思います.ただ一つに関連しあい溶け合っている自然の存在,その内に住むただ一種のヒト,そして,古代的ヌースとでもいえるようなそのただ一つの世界精神,それらが関連しあって,この世界を現象させているのが実情であって,それが,自然学のエンチクロペディ=自然のロゴスにおいて弁証法的連環をなすもの,のハズだったのです.

日本では,エンチクロペディは最初「百学連環」と訳され,また「百科全書」とも呼ばれた.しかし,その「百」とか「連環」とか「全」とかが,いつのまにか忘れられて,中国的「科」挙の「科」学,に完全に分裂してしまいました,そのナレの果てが,現代の巨大化した専門諸「科」学でありタコツボ型諸「科」学でしょう.

ただ一つの自然の存在,その内に,自然と共によく生きる他に術はないただ一種のヒトの存在,そしてその「共生」を支えるべきただ一つの自然学のエンチクロペディすなわち「現代技術システム」の存在へ.それが,ヘーゲルのいう,自然・人間・精神,にとってかわるべきものでしょう.

 

「よく・生きる」ためには,まず自然の存在のロゴス,動的な自然の真実の存在,を知ること  自然学の探究において,もっとも危険なのは「独・善」に陥ることでしょう.それは孤立であり,暴君化であり,すなわち亡びへの道にすぎません.「独善」を避けるためには,不断の反省,とりわけ自省あるいは自制,「君子は日々三省す」が必要なのですが,これがまともにできる「偉い人」はあまりにも少ないようです.

真実であることと,虚偽であることとの区別は,とても簡単に思えますが,しかし実は,とても難しいものです.自然は,それが順調な季節の移り変わりを示す場合には,ヒトにとって美しく,真実であり,善きものであると思えます.と同時に,特に自然災害時には,きわめて恐ろしく,その背後にヒトを欺く虚偽を潜めており,ヒトに対して悪意を懐いている<かのように>思えてしまうのです.

アリストテレスは,たとえば「絵画を・描く」ことを,ミメーシス,摸写,であるといいました.それは,自然の存在の似姿(カタチ,形相)を,自然の素材(マテリア)の内にいわば「再・現(実化)」することである,と.カタチづくるコトとは,自然の素材(たとえば,玉石)にその魂(プシュケー,イノチ,ココロ)を吹き込むことである,と.

わたしは,自然であること,それが真実らしさの基準である,と思うのです.この観点でいうならば,その作品が真実であるか虚偽であるか,を決めるのは,そこに自然な魂すなわちイノチやココロ,が宿っている<かのように>思えるか否か,ということになりますね.

ヒトの感性とは,生きた個体を静物として,動的な風景を静止画として見てしまうのです.これはベルグソンも『創造的進化』で言っていることです.

わたしたちはふつう静的なカタチ,それのみを自然の事物のカタチだ,と思っていますが,自然が生みだしたカタチには,静的なそれと,動的なそれとがあります.ここでいう動的なカタチとは,芋虫が蝶になるような,いわゆる「変・態」をいうのではありません.「行い」のカタチ,すなわち行動のパタン,すなわち「行動の構造」がそれです.わたしたちにとっての動的なカタチとは,その「行い」のカタチ,例えば,歩く,座る,臥す,といった常・住・坐・臥に関するような,わたしたちがいわゆる「動詞」によってそれを表現するような「行動の(繰り返しの)パタン」のことです.

わたしたちはわたしたちが経験してきたことをのみ(無意識に)記憶していて,たとえば,身の回り品などは,自分が動かさなければ動くはずがない,と(無意識に)思っているから,それは実際静止して見えています.それを他人が動かしたり,ネズミが齧ったりすると,すぐ気がつく,というわけです.

おそらく野生でもそのとおりだったのでしょう.通い慣れた道,見慣れたつまり「静止している<べき>」風景,に「もし」異常や異変があったり,そこにわずかでも動きがあったりすると,それこそ「ピン」とくる,それが近づくべきエサか逃げるべき敵かを咄嗟に判断しようとするでしょう.

わたしたちの感性とりわけ自然の諸々のカタチを「認識する」という「行い」の存在,すなわち認識行為の存在は,私たちが自然の中を生き延びるためには,不可欠な「行い」であり行動のパタン,すなわち「行動の構造」なのでありました.たとえば,ここに1匹の魚がいるとしましょう.彼は,「2つの大きな丸いモノ()」がこちらに「向ってくる」というカタチ,静的なカタチが・動的なカタチをとる,という事態,を正確に認識することができれば,それを捕食者である「大きな魚」として「判断し」,それから「逃げる」という行動パタンを発動させ,結局生き延びることができたでしょう.逆に「小さな2つの丸いモノ()」が・「動いている」という事態を正確に認識することができれば,それを小魚として「判断し」,それを「捕食する」という行動パタンを発動させることができ,それによって生き延びることができたでありましょう.すなわち,世界の事物の存在,すなわちその静的なカタチが・動的なカタチをとること,を正確に認識すること,はわたしたちイノチあるモノ,ココロあるモノが,この自然の内において生き延びるためには,必要にして不可欠な「行い」だったのでありました.

しかし,敵もサルもの,ひっかくモノ,なのでありますよ.「擬態」という現象があるのをご存じでしょうか.小さな魚が身体の側方に大きな「目」を描くことによって,自分を大きな魚だと思わせ,チョウチンアンコウが目の前にエサのような突起を振り回して,それを捕食しようとした魚をかえって捕食してしまう,といったようなコトがそれです.また,わたしたちは動物たちが気付きにくいような,その動的なカタチ,つまり行動のパタンを利用して,その道に罠をしかけたり,飛行路に網を張ったりすることで,動物や鳥を,マンマと騙して,それらを大量に採ることができます.

現代でも,ヒトがそれとは気付きにくい「擬態」現象がよく見られます.それは「インチキ商品」です.キラキラしたモノ,変わった静的なあるいは動的なカタチをもつモノ,がヒトの目をきわめて引きやすいこと,ヒトは珍しいものや変わったモノに気を惹かれやすい「好奇心旺盛な裸のサル」であることをうまく利用して,というより「悪・用」して,中身がまったくないのに,その外見や奇妙な動きだけを飾り立て,ニセモノつまり実用には全くならぬモノ,を掴ませること,がそれです.金儲け「主義」が,自然の静的なカタチや動的なカタチや,ヒトの行動パタンを,「悪・用」する典型例,がこれです.自然を「埴生の宿」とするわれらは,「玉の装いうらやまじ」と,外見のみの「イノチのきらめき」を装うにすぎない,不自然な「インチキ商品」には,とかく気をつけましょうね.

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