動力学的本質の発見

 

自然の事物の不一不異性  本の木にある多くの1枚の葉は似ており「ほぼ」同一な本質をもっていますが,子細に見るとそれぞれ微妙に形状が違います.1つの葉を作る細胞たちは,同じゲノム情報をもっているはずですから,その意味では「ほぼ」同一な本質をもっていますが,発現しているゲノム情報が違うので詳細な機能は微妙に違います.そのようにして,分子から原子へ,と分析していきますと,量子のレベルにたどりつときますが,量子には完全に同一な本質をもっていて,まったく個性というものがありません.その占めるべき(位置も含めた)運動状態の差があるだけです.このように,自然の事物が微妙に異なっておりながら,どこか似ているということを,自然の事物の不一不異性といいます.それらは全く同一なのでもなく,全く異なるのでもないのです.

これを逆にたどると,「ほぼ」同一な本質をもつ多くの量子が,それらがそれぞれの運動状態を占めることによって,多様なカタチや機能を作り出している,ということがわかります.「ほぼ」同じ本質をもつ多くのモノが集まって,多様なカタチや機能を作り出すことができます.それは,点や線を使って平面上に多様な図形を任意に描き出すことができることと全く同様なことです.

この自然は,「ほぼ」同一な本質をもちつつも,しかし,個々には微細に微妙に異なるモノたちの相互運動や相互作用から成立しているのです.具体的には,新聞紙を顕微鏡で見てごらんなさいまし.そこには連続な線から成り立っていた文字は全く消え去って,ただ多くの「ほぼ」同一な大きさの離散的な多くの黒色の「点」つまりロゴス的に<不可分なるもの>が,「ほぼ」均一かつ一様な白色の背景つまりロゴス的に<空なるもの>の上に分布したパタンがみられるはずです.

実際,コンピュータの世界は,こうした(0,1)のパタンとそれらを包摂する空白とがあるだけですが,それがこの世界の殆ど全ての現象を表現することができます.実際,TVの画面は,「点」状の(Red, Green, Blue)領域の,(1,0)つまり<ある/ない>のパタンから成立していて,それらの領域を規則的にon-off「点・滅」させることによって,この世界をまるでそれが「自然の鏡」でもあるかのように,そこに映し出すことができます.自然においても,この点滅の規則性こそが,あらゆる自然の事物が内包する動力学的本質である,と考えることができます.

 

縁起の法  この動力学的本質への気づきが,インド古代原子論(あるいはインド唯物論,インド6派哲学の流れを引くヴァイシェーシカ派)の影響を受けた古代仏教徒によって発見された「縁起の法」です.その縁起の法は,<これが・ある>から<かれが・ある><これが・ない>なら<かれが・ない>,と表現されます.

論理的原子論において,<これが・ある>コトを命題A<かれが・ある>コトを命題Bとしますと,<これが・ない>ことはAの否定である¬A(notA)ですから,縁起の法は,(AB)(¬A→¬B),あるいは(AB)and(notAnotB)と表現されます.ここで,∧はand,連言,「かつ」を表す論理記号であり,→は推論,「ならば」を表す論理記号です.

さて,¬A→¬Bは,その対偶をとると,BAに単純化できますし,結局,縁起の法は,(AB)(BA)であって,それは結局,A=B,と簡単化できます.これは,A命題に対応する事象とB命題に対応する事象とが,11に,因果関係的に,デテルミニスム(必然論,決定論)的に,結合していることです.

  この具体的な例が,「薪の火は・(デテルミニス的に,必ず,必然論的に,決定論的に)煙を伴う」という事象です.事象A=「薪に火が<ある>」,事象B=(そこに)煙が・<ある>(立つ)」としますと,ABです.「薪に火が・<ない>」は¬Aで,「煙が・<ない>(立たない)」は¬Bですから,¬A→¬Bです.縁起の法とは,A=B,つまり薪に火が<ある>コトと,そこに煙が・<ある>コトとは,11に,デテルミニスム的に,必然的に,決定論的に,いわゆる因果関係において,結合しています.

因果関係の必然性を証明するのに,なぜこんなまどろっこしいことをしなければならないのか,といいますと,Aという事象が「前に」起ってはじめてその「後に」Bが起こるのですから,BAは「実際に証明する」ことつまり「実証する」ことができないからです.したがって,¬A→¬Bを「実証する」ことによって,それと等価なBAを間接的に「実証する」ことに代えているのです.すなわち,古代仏教徒たち,少なくとも「縁起の法」の発見者は,対偶の法則(それは,ド・モルガンの法則から証明されます)を「知っていた」ということになりますね.

 

あらゆる自然の事象は,多階層的動力学的ハイパーサイクル・システムの存立である  「縁起の法」がなぜ動力学的本質の発見であるかというと,薪に火が<ある>という事態は,そこには動力学的ハイパーサイクル・システムが存立している,ということであるからです.薪の主成分である炭化水素が酸素と結合することによって,水と2酸化炭素ができ,そこから熱運動エネルギーが放出されます.その熱運動エネルギーによって,微小の金属が熱せられてプラズマ相となって発光します.これが「火が・<ある>」ということです.

その火は,さらに固体である薪を液化させ,そこからさらに炭化水素を気化させ,その気化した炭化水素が酸素と結合してまた新たな火を発生させます.これを「火」がさらに「火」生みだすという意味で,連鎖反応(chain reaction)といいますが,その自己増殖する「火」の正体こそが,その場において動力学的ハイパーサイクル・システムが存立している,という事態にほかなりません.

そして,この動力学的ハイパーサイクル・システムの活動によって,火とともに「必ず」そこに煙が発生します.煙は,主として,薪に含まれていた金属の酸化物つまり「灰」です.つまり火は,薪に含まれていた金属を酸化して環境に放出するわけです.要するに,薪に含まれていた微量の金属が,「火」という動力学的ハイパーサイクル・システムの存在によって酸化され,次々と金属酸化物つまり「灰」になって放出されている,それが「煙が・<ある>」と事態です.

このように,薪に「火が・<ある>」コトと,「煙が・<ある>」コトとは,11の必然的因果関係によって結合されていることは,もはや火を見るより明らかなことではないでしょうか.火中にあって輝いていた金属原子が,それぞれそのまま金属酸化物に転化しているのですからね.厳密にかつ正確に,火中の金属原子の「数」=煙中の金属原子の「数」,なのですから.A=Bを,Aという事象をひき起こすロゴス的に<不可分なるもの>の「数」=Bという事象をひき起こすロゴス的に<不可分なるもの>の「数」,として解釈すればよいのです.この等式は,近代においてようやく発見された「質量保存則」と同程度の厳密さで成り立っています.

 

動力学的ハイパーサイクル・システム論において,エントロピーの増大の法則は必然的である  厳密にいうと,素粒子は静止した図形では全く表現できません.自然のあらゆる存在は,絶えざる運動であり絶えざる相互作用からなる,のですから.エネルギー量・運動量の保存則は,作用あれば反作用あり -作用と反作用とはその量が同じで方向が逆なので差し引きは0- とまったく等価なのですから,この宇宙の全エネルギー・全運動量は完全に一定です(4元運動量の保存則)

ただ,宇宙は断えず膨張し続けているので,エネルギー量・運動量は一定でも,高エネルギー・高運動量領域から低エネルギー・低運動量領域への「流れ(拡散)」がどうしてもできます(エントロピー増大の法則).自然の事象は本質的に非可逆的なのです.

量子論からエントロピー増大の原理はむしろ簡単に説明できます.たとえば,(a,b)という2つの量子状態が,相互作用によって確率p1(a1b1)に,確率p2(a2, b2)に,・・・等々と分岐したとします.この分岐確率において,たとえばp1/p2において,それが「もし」無理数比において起こったとしたら,どんなことをしても可逆過程を作りだすことはできないのです.つまり量子論的相互作用において,1つでも無理数比の分岐過程があったならば,この自然においては,その相互作用の結果として,あらゆる過程は「原理的に」非可逆である他はないでしょう.結果的にボルツマンのH定理が成立し,エントロピーは不可逆に増大する一方です.自然の進化は必然的に,時間的に「非」対称に起こるのです.わたしたちがこの自然の内にある限りは,過去を「厳密に」同一なものとしてとりもどすことは「原理的に不可能」です.結局,わたしたちは存在し続けるためには未来へ未来へと前進し続けるしかありません.

このエントロビー増大の流れ(拡散過程,あるいは散逸構造)は,逆向きの自由エネルギーの流れを伴います.この絶えざる自由エネルギーの「流れ」が,ミクロ領域からマクロ領域において分布した動力学的ハイパーサイクル・システムの「原動力(デュナミス)」となって,かくも多様な自然のモロモロの事物を作り出してきたのでした.

この,一般には多階層的動力学的ハイパーサイクル・システムと呼ばれるものの存在は,究極には全て相対論的統計的量子場の理論によって表現できます.また,この相対論的統計的量子場の理論をプランク定数が0そして光速度を∞とみなした「よい・近似」が,ニュートン力学です.しかし,ニュートン力学は,自然の事物が内在させている諸(内部)運動を全く無視したところで成立しており,自然の外延的運動だけを「よい・近似」で記述できるだけです.このニュートン力学の限界が,当時(18世紀〜20世紀初頭まで)の機械論の限界であり,これがいろんな物議(たとえば「ラプラスのデーモン」のような)を醸してきたのでした.しかし,相対論的統計的量子場の理論の成立以後は,もうそれらは全く無用なかつ不毛な議論になってしまっています.

→戻る