自然が作りだしたカタチ(形相)の永遠性 現代自然学において,○,△,+,×とかの自然の基本「図形」あるいは自然な「記号」に対しては,それに特異的に反応する脳細胞ネットワークが存在することが知られています.こうした自然・内・基本図形は,自然が作りだしたカタチを純化したものであり,それに反応する「しくみ」は,自然の中に生きるほとんどすべてのイキモノがこれをもっているのであって,ヒトもまた自然の中のイキモノとして進化きたことによって,当然のことに,それを分け持って生まれてきているのです.神秘不可思議なことでは一切ありません.
古代において,火,空気,水,土,いわゆる4大,それらは現代自然学では,それぞれプラズマ相,気相,液相,固相としての存在に対応しますが,これら自然において永遠なるもの,自己同一的なるものは,すべて不死なるものつまり「神的なもの」だったのです.古代において「神的である」ことは,「自然が・その本性において,ロゴス的に<ある>」ということだったのであり,それ以外にはありえません.
自然においてヒトがこれを描き出すことのできる図形,あらゆる記号もまた永遠でしょう.たとえば△は永遠に△です.○も永遠に○です.Aもまた永遠にAです.「あ」という記号は永遠に「あ」です.
あらゆる記号は,永遠であり不死であり神的である,と古代では考えられたのです.こうした自然が作りだしたカタチ(形相)の理想を「イデア」と称したのがプラトンです.また,アリストテレスのいう「形相(エイドス)」というコトバじしんが,ギリシア語でエイドーラ(映像)というコトバに由来しています.エイドーラ>エイドス>イデア,というわけです.こうした自然の事物の理想的なカタチを表す記号たちから,ヒトが自然のロゴス(言葉,理法)をいわば「読もう」とすること,それが自然学すなわち自然からの学び(まねび)の「はじまり」だったのです.
記号と文字 自然の「実・像」を把握しようとすれば,一面的な見方や単なる空想や幻想,要はヒトそれぞれの自己中心的な「思い込み」だけじゃダメだと思います.たとえば,「文字」と「記号」とは,似て全く非なる概念です.
記号とは,要は,モノのカタチ,図形,とりわけヒトが描くことのできる図形,のことでしょう.それは文字よりもはるかに広い概念であり,1まとまりの図形です.この意味でいうと個々の文字はたしかに記号の概念に含まれています.
しかし,文字は,単なる個々の記号としてあるよりも,もっと大きな拡張性をもっています.実際,「文・字」の列は,「語」をつくり,「語」の列は,さらに「文」をつくります.さらに「文」の列が「文・章」ですが,この文章は,あらゆる図形を含めた記号よりももっと大きな機能を発揮しはじめ,文章は,単なる記号よりももっと豊かな概念に<なる>ことができます.ほとんど無際限の長さの文章を作りだすことができる,それがヒトの「言語システム(logos system)」の最も重要な機能の1つであって,この「言語システム」を使ってコミュミケーションを「行う」こと,「コミュミケーション行為」の存在こそが,ヒト社会を特徴づけている本質的なものなのです.
記号の一部が文字となり,その文字列が語となり,語を文法によって秩序づけ配置したものが文です.文は<主語・述語>という自然の基本文法によって,1つの有意味かつ有意義な命題となることができます.この命題は,1つのロゴス的に<不可分なもの>としての事実を,5W1Hを記述することによって,<あいまいさなく>「ほぼ」正確に伝えることができます.1つの自然の事物の「行う」ところの事実を,1つの文(命題)に対応させることによって,論理的原子論が成立します.
自然現象および自然・内・ヒト現象における真実の情報を正確に伝えあうこと,それが言語システムの本質的使命でしょう.この言語システムが虚偽やあいまいさに満ちていたら,わたしたちは社会生活ができません.正確な自然記述言語がなければ,自然学はむろんのこと,どんな「生活の知恵」も成立しません.毒キノコと食用キノコの区別さえも全くつけられなくなるでしょう.
たとえば「△」って,それじしんは「単なる記号そのもの」としての図形(カタチ)にすぎません.それが日本語では,「これは『三角形』<である>」あるいは「これは『三角形』と呼ばれる図形<である>」とか,英語では"This is a triangle."とか,1つの有意味な文の中で表現され,それが正しく解釈されることによってはじめて,それは意味と意義とをもちはじめます.
記号がシンボルつまり何かの象徴として使われる場合がありますが,そこにはどうしても多義性が入ってきてしまいます.ほとんど同じ生活習慣をもつ人びとの間でしたら,それで十分話が通じますでしょう.<あれ>とか<これ>とかいえば,大体,必要としていることがわかります.
しかし,コミュニケーション行為が他の生活習慣をもつ人びととの間に必要になる場合,それが多くは誤解のもとになってしまうし,宗教的「詐欺」とよばれる「犯罪」さえもがそこには忍び込むことができます.「あいまい」な「神様の・お告げ」やいわゆる「迷・信」などは,記号がもつこの<あいまいさ>や多義性を「悪・用」したものです.
「語」の「意味」と「意義」 「文」の構成要素は「語」です.たとえば「語」としての「三角形」のもつ意味([独]Bedeutung)とは,個別的特定の「この・三角形」です.つまり「語」のもつ意味とは直接に自然の存在を「これこれしかじか(のモノ)」として<指示する>ことです.これに対して「三角形」という「語」のもつ意義([独]Sinn)とは,三角形一般,三角形とは3つの辺からなる図形である,という三角形の定義であり,それは「三角形<である>」モノ全てを包摂するクラス(class)を表し,それは三角形の「概念」,いわばそのココロ(ドイツ語でSinnとはココロです)を示しているのです.
ギリシア人が「△」を見たら,これは単なる「記号」あるいは「図形」としての三角形ではなくて,これは「デルタ」と読まれるべき「文字」である,と判定するでしょう.つまり,ある「文」の中において機能することができる,文の構成要素になることができるもの,それが「文・字」です.
いわゆる古代文字のことですが,それらを使って,はたして有意味な「文」をつくることができましょうか.それができないなら,それは「文・字」などではなく,単なる「記号」です.妙チクリンな「記号」が描かれているから,といって,それを「文・字」として使っていた人びとが<いた>,つまりそこに「文・化」があった,とは全く限らないのです.
記号って,要は,カタチであり何かの存在の「しるし」でしょう.たとえば,草原に何かのホンノかすかな踏み跡があるとします.それは何かがそこに歩いた「しるし」です.そこを歩いたのはヒトかもしれませんし,クマかもしれません.その踏み跡はヒトの残した「しるし」か「クマ」の残した「しるし」か,全く識別がつかないとしましょう.このように,「しるし」には「ヒト」と「クマ」との区別の「あいまいさ」があります.つまり「記号」は不正確な意味しかもちえません.
ところが,「クマが・歩く」ことと,「ヒトが・歩く」こととは,つまり「ヒト」という文字列と「クマ」という文字列が意味するモノは,コトバつまり言語においては,大違いでしょう.つまり,記号と文字とは,それが表わすモノの正確さが,格段に違います.文字列は,より正確にモノの「名」やのモノがもつ属性や事態を表現することができます.
アユが川の石の上のコケを齧った跡をご存じでしょう.それはアユがそれを食べたということつまりアユがそこに存在していたことの明白な「しるし」です.しかし,それは文字では全くありえません.それはアユの存在の「しるし」つまり記号としては意味をもつが,「文字」としては全く意味をなさないのです.
ゴカイの這った跡をご存じでしょう.それはゴカイがその場所を這ったということつまりゴカイがそこに存在したことの明白な「しるし」であり記号です.しかし,ゴカイの這い跡を「文字」と勘違いして,それから何かを読もうとするようなヒトがいたら,トンダ「迷・信」家として笑い物になってしまいましょう.
記号から数へ 「1円」が理解できて,「ひとつ」とか「ふたつ」とかが理解できないヒトがいるとは,にわかに信じられません.「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」とモノ(個体)の数を「数える」ことができること,これはサルでもできる,といます.
しかし,「ひとつ」として数えるコトが「1」と書かれる「記号」に対応し,「ふたつ」として数えるコトが「2」と書かれる「記号」にそれぞれ対応する,ということの理解はちょっと困難かもしれません.わたしたちが日常的に「行っている」コトを,名詞や動詞に対応させること,つまり自然言語を習得することはそんなに難しくはありません.しかし,「1」とか「2」とかになると,それに抽象化(というよりは,普遍化)のプロセスが入ってきます.ひとつのリンゴと,ひとつのミカンがともに「1」に対応させられるここと,「ひとつのリンゴ」と「ひとつのミカン」がその場にあると,それは「2」に対応させられること,そうした抽象化され普遍化された「記号」の意味と意義,つまりそのロゴスあるいは「使い方」を「理・解」することがむしろ困難なのです.
なお,「+」記号は「加算する」というヒトの「行い」を指示する「記号」であって,十字架の「十」つまりキリストが「磔になった」コトの象徴(シンボル)あるいは聖痕(イコン)としての「記号」とは,全く違います.「似た」図形すなわち記号を,それが使われる背景(存在の場)を忘れて,あまり簡単に混同しないようにしましょう.
自然は,数学の言葉で書かれている わたしたちをとりまく自然そのものの存在を,1つの巨大な記号システムであり何かの活動の「しるし」である,と考えることもできます.「自然は数学の言葉で書かれている」といったのが,近代自然学の「はじまり」を作ったといわれるガリレオ・ガリレイでした.それはつまり,自然の提示する記号システムを,ヒトの発明した言語システムのうちの数学システム,つまり離散的な数を「数える」,連続な量を「量る」,という「行い」の体系つまり数理的技術システムによって記述することができる,ということの気付きでした.
この方法 -自然の記号システムをヒトの言語システムで表現すること- は古代ギリシアにおいても発見されています.ユークリッド幾何学がそれです.彼らは,離散的なモノを「数える」という技術と,連続的なものを「量る」という技術を,ユークリッド幾何学において集大成することに成功したのでした.それが中世ヨーロッパにおいて継承され,ついにガリレイ・ガリレイにおいて,いわば「甦った」のです.
全てのカタチは,自然が作りだした記号である ヒトは自然が作り出したものであり,ヒトは自然と共に,自然の内に,生きる他にない.ヒト社会は自然が作り出したヒトが作り出したものです.しからば,ヒト社会も自然の産物です.お金はヒト社会が作り出したものです.しからば,お金を表わす「1円」だって,「100兆円」だって,自然の作り出した立派な自然記号です.ヒトは自然の中にあり,ヒト社会も自然の中にあり,むろんお金だってみんな「この・ただ一つの・自然」の中にあります.まさか「1円」と「100兆円」の区別がつかないほど,自分はアバウトだ,自然もまた自分と同様アバウトだ,なんて仰っているのではないでしょうね.
中世・近代においては,自然数ですら,ヒトのココロが作り出した観念であり,「1」や「+」などは,人為的な「記号」であり,それはつまり「文字」であり,「語」の構成要素であり,また「文」の要素であり,等々と思われてきました.しかし,自然数に対する自然のモノが「実在する」こと,それどころか「微分・積分」といったいわゆる高等数学に対応するような自然の事物の「存在」までが,次々に明らかになってきたのです.