多階層的動力学的ハイパーサイクル・システム論

 

動力学的ハイパーサイクル・システム(dynamical Hypercycle system)とは何か  ハイパーサイクル(Hypercycle)とは,ドイツの化学者(ノーベル賞受賞)M.アイゲン(Eigen, 1927-)が最初に言いだした概念で,1つの化学的な閉回路からなるシステムを表します.たとえば,あらゆる生命体の活動の基礎となっているプロトン・ポンプなどがその最もよい例の1つです.それは,プロトンのもつ自由エネルギーを供給されることによって回転することができます.そして,それが1回転する毎に,2個のATPを「作り出す」ことができます.

ハイパーサイクル(Hypercycle<hyper-cycle)は直訳すると「超・円環」です.仏教の唯識には,「円成実性」=「大円鏡智」,大きな円い鏡のようなブッダの智慧,完全な悟りの境地,を表すものがあります.つまり自然の森羅万象をその内に映し出す,自然のロゴスの完全な知識を体現するような,文字通り「自然の鏡」というわけですが,さて,そんな「古くさい概念」を知っている人がいるかどうか.いい日本語訳はないものか,と思って探しているのですがなかなか見つかりかませんので,結局,それで通してきました.

この(化学的)ハイパーサイクルの概念を,動力学的原理(dynamical principle)を用いて一般化したものが,わがいうところの動力学的ハイパーサイクル・システム(dynamical Hypercycle system)の概念です.したがって,動力学的ハイパーサイクル・システムとは,自ら動くことによって(主語となることによって),世界に対して何事かを「行う」ことができる(述語となることができる)システム一般のことになります.すると,それは論理的原子の概念に全く一致します.つまり,1つの論理的原子=1つの動力学的ハイパーサイクル・システムが・(何事かを)「行う」コト,あるいは1つの動力学的ハイパーサイクル・システムが・<する>ところの何らかの「行い」の存在,なのです.

 

1つの論理的原子=1つの動力学的ハイパーサイクル・システム,自然の存在に関する大命題の基礎づけ  動力学的ハイパーサイクル・システムとは結局,「厳密には」相対論的統計的量子場の理論から導出されるところの,各存在の階層における「近似的な」動力学方程式の,その「準」安定解のことであり,結局それは,「慨」周期運動態の存在に帰着します.実際,陽子の周りを電子が周回運動するという量子力学の運動モデルによって,水素原子ができます.水素原子が結合して水素分子ができますが,それは2つの陽子の周りを2つの電子が周回することでありまた1つの水素原子と1つの陽子とが1つの電子を相互に交換しあっていること,等々でもあります.「慨」周期的運動態であるというのは,その周期が完全無欠ではなくむしろ不完全だということで,これによって他と反応する余地が生れます.もしそれが「完全」だったとしたら,永遠に運動し続けるだけで,他とも相互作用するはずがありません.この自然のあらゆる事物は本質的に不完全なのです.ですから,自らを生成し,運動し,変化し,消滅し,それらを「ほぼ」繰り返しながら,次第に進化することができるのです.

目をマクロに転じますと,地球そのものが「自・転」しています.つまり一つの中心軸の周りを「慨」周期運動をしています.その周りを月が「慨」周期運動し,地球システム(geo-system)を作っています.その地球システムが,太陽を「慨」周期運動し他の諸惑星とともに,太陽システム(solar system)を形作っています.

その太陽の中では,CNチェーン・サイクル(連鎖反応)という核融合サイクルが機能して,膨大な熱エネルギーを断えず「再」生産しています.その膨大な熱エネルギーによって,植物の葉緑体の中にあるプロトン・ポンプが回転してATPを断えず「再」生産することによって,この地球上の生態体システム(ecological system)が耐えず自己を「再」生産することができる,という次第です.

つまり,この自然におけるあらゆる個体とは,動力学的ハイパーサイクル・システムとしての運動態なのであって,それが自己を不断に「再」生産することによって,それが存在者(モノ,ロゴス的に<不可分なるもの>=論理的原子)として存在している,ということです.この存在者の存在形態は,ミクロコスモスからマクロコスモスにいたるまで,全く共通である,ということが,わが[論理的原子=動力学的ハイパーサイクル・システム]論の骨子です.

 

4元運動量の保存則 -現代動力学の第1原理(1st principle of modern dynamics) 現代動力学第1原理といわれるにふさわしいものといえば,物質の総量の保存則,すなわち4元運動量(エネルギー,(3次元)運動量)の保存則でしょう.厳密にいいますと,この宇宙では,質量(mass, quantitas materiae[]物質の量)が不変なのではなく,運動の総量とエネルギーの総量,が不変なのです.運動量を3次元のベルトル(p1, p2,p3)で表現し,エネルギーをp0,質量をmと表現しますと,m^2=p0^2-(p1^2+p2^2+p3^2),という関係が成立します.(ただし,ここで,光速c1,プランク定数/(2π)1としています.これを自然単位系(NUT: Natural UniT system)といいます.)

 エネルギーと運動量の組を,(p0, p1, p2, p3)4次元ベクトル形式で書いて,それを4元運動量といい,それがこの宇宙では「厳密に」保存されています.この宇宙はずっと運動し続けており,つまり膨張し続けており,その「4元運動量」が完全に保存されていて不変であり,その結果として,この宇宙の総質量つまり「物質の量」が完全に不変である,ということになるのです.これを記述するのが相対性理論です.

  この4元運動量の保存則は,近代において,デカルト派とライプニッツ派による,運動量とエネルギーのどちらが保存量か,というスッタモンダの(両方が保存されるのですから,結果的には不毛な)論争などを経た挙句,そのエネルギーの保存則だけが,ようやく熱力学の「第1法則」として,定式化されたのでした.エンゲルスも『自然の弁証法』で,このことを強調しています.

また,現代においてすら,N.ボーアなどは,この4元運動量の保存則の「厳密性」を疑ったことがあります.それは,この宇宙の,相対性理論でいうところの「4元運動量(エネルギー,運動量)」が,量子論的相互作用を含めたあらゆる相互作用の素過程においても「完全に保存されている」ことを疑ったのです.しかし,この疑いは,相対論的場の量子論の成立によって,完全に晴らされました.

自然のモノすなわち動力学的ハイパーサイクル・システム -それは必然的に1つの量子状態のはずです- の運動状態を変えるのが相互作用であり,それはすなわち相互的な「行い」です.2つのモノが作用しあうことを相互作用といいます.その相互作用を媒介するものを作用量子,といいます.2つの量子状態が相互作用することは,作用量子を交換しあうことです.2つのモノが相互作用しあうことは,動力学的ハイパーサイクル・システムが作用量子を交換しあうことです.この作用量子の交換の過程を記述するのが量子力学です.

相対論的量子力学においても,自然の万物は「何者か」の運動態なのであって,それらは作用量子を交換することによって,その運動を「やり・とり」することができるだけであって,この相互作用の間,その4元運動の総量は全く不変です.一見,モノが生成したり消滅したり,運動が生じたり滅したりしますが,それは「外延的な(見かけ上の)運動」が「内包的な運動」要は「熱」とか「化学エネルギー,つまり,化学ポテンシャル」に変化しただけです.それは,わたしたちを取り巻く空間が全く静止しているように見えて,その中で実は空気分子が猛烈な速さで運動しているのと,全く同様なことです.わたしたちは1つのマクロなモノが内包する,多くのミクロな動力学的ハイパーサイクル・システムの運動,そしてまたそれらが内包する諸運動を「無・視」することによって,それが静止しているかのように思うのです.

  結局,この宇宙すなわちこの大自然を成立させているのは,モノ(物質)というよりはむしろ,不生不滅の運動そのもの,なのです.この世の全てのモノは運動<する>ことから成立しています.運動<する>ことの他には,存在しようがないのです.運動すなわち存在,存在すなわち運動です.1つのモノが「存在する」とは,多くの下位の動力学的ハイパーサイクル・システムを統合した,1つの動力学的ハイパーサイクル・システムが,そこに運動態として<ある>ということに他ならないのです.

なお,4元運動量の保存則は,極大のマクロ領域つまりこの宇宙を記述する一般相対論においても成立します.重力場の方程式を,G(μ,ν)=-gT(μ,ν),と書けるとしますと,∂(μ)(G+ gT)(μ,ν)=0,ですから,重力場の4元運動量と物質の4元運動量とを加えたものは,つまりこの宇宙の全4元運動量は,重力場のそれも含めて,完全に保存されていることが示せます.

 

4元運動量の不生不滅性  このこと,生成し,運動し,変化し,消滅することの恒常性,「諸『行』無常」は「無常に『非ず』」に,約1800年前に(多分)気付いていた人がいます.大乗仏教の始祖といわれるナーガールジュナ(竜樹)です.彼のいうところの<空なるもの>の「八不の論証」,不去不来,不一不異,不増不減,不垢不浄,これは,自然においては全てが生成・運動・変化・消滅しつつ,しかしその根底において,不生不滅な何ものかが「現に・存在する」こと,不生不滅な存在とは運動そのするコトそのものである他はないこと,への気づきであったのではないでしょうか.

  相互作用のあらゆる過程において運動の総量は厳密に保存されているのですから,2つ動力学的ハイパーサイクル・システムが作用しあう,つまりお互いに「行い」をなし合うと,一方が運動を失った分だけの運動が他方で増えていなければなりません.一方での運動の量が増えた分だけ,他方での運動の量は減っています.結果として,そのシステムの総体としての運動の量は,不増不減,不生不滅,です.かくして,この大自然の,4元運動の総量こそは,不去不来,不生不滅,不増不減,不垢不浄.それがただ1つの<空なるもの>としての,この大自然の全存在の本質,なのであり,これが,ナーガールジュナ(竜樹)の説いた「八不」の,現代的論証,ということになります.

 

動力学的ハイパーサイクル・システムをカタチ作り,その原動力となるもの=ネゲントロピー=自由エネルギー=情報  エントロピーとは,「無」秩序性を表すところの,自然の「運動状態」を記述するところの,量,状態量です.エントロピーの極大が熱的「死」であり平衡状態ですが,そこではいかなる物質も,なんら自由ではありえません.ただ受動的に,ぶつかられては動き,動いてはあっちにぶつかり,またこっちに動いてはまたぶつかりと,それこそヨッパライのように,その平均位置の周辺をゆらいでいるだけです.カオス,無,それこそ死であり,闇であり,混沌です.そこにどうしてイノチやココロの活動性,いわゆる自由,自らこれを<する>ところの「行い」,がありえましょう.

イノチやココロのあり方は,まったく逆です.それは,秩序づけられた,指向性をもつ,秩序ある運動性から<する>ところの諸々の自発的な「行い」によって特徴づけられます.イノチやココロはネゲントロピー(自由エネルギー)を内部に蓄積しており,それを消費するつまりエントロピーを増大させることによって,自ら動くことができます.つまり,能動的に,仕事を<する>ことができます.イノチとは,自・動・体,すなわち,自ら動くことによって他をも動かして,その運動状態を変えて,自らがそれを活用することができるような,自動<する>ことによって他を変えることができる運動体なのです.

たとえば,水車を考えてごらんなさい.それは不断の水の「流れ」を回転運動に変換することによって,粉を挽く等々,いろんな仕事つまり「行い」をします.その粉を食べてわたしたちはいろんな労働を「行う」ことができます.同様に,太陽光という自由エネルギーの「流れ」を回転運動に変えてATPを生産するのが,ミクロなプロトン・ポンプの存在でした.そのATPを使って,いろんな生体高分子が作られ,それを「食べて」わたしたちは活動しています.わたしたちの活動の源泉は,つまるところ太陽に由来する自由エネルギーをもつものすなわち「光」の流れです,それは50億年にわたって断えたことのない「()永遠の,自由エネルギーの流れ」なのです.

この「光」を,光速で回転する動力学的ハイパーサイクル・システムである,と考えてごらんなさい.実際それはspin=1をもつ(相対論的量子としての)回転運動体です.それがもつ自由エネルギーが,プロトン・ポンプをエネルギー源とする分子モーターの回転によってATPに変換され,ATPに蓄積された自由エネルギーが解放されて,あらゆる化学的ハイパーサイクルを回転させ,生体高分子を作りだし,それを「活・用」することによってはじめて,あらゆる生命活動がそこに成立することができるのです.わたしたちは太陽光という動力学的ハイパーサイクル・システムがもつ自由エネルギーを蓄積し,それを必要時に解放することによって,それこそ「自・由」に,自ら動くもの,動物,になることができたのです.わたしたちは太陽に由来する自由エネルギーを,「活用する」つまり「安全かつ効率的に制御する」ことによって活動しているのです.

わたしたちのイノチやココロは,高い自由エネルギーをもつ運動体である「光」が生みだしたものであって,闇とは,むしろわたしたちをイノチあるモノ,ココロあるモノとなしているところの光の,完全な欠如態にすぎません.それは完全に安定しているようには見えますが,雑然としたもの,いわば宇宙のゴミなのであって,ある部分(「熱」ではなくいわゆる物質)は再生可能ですが,その「熱」エネルギーだけは,これを再生することができません.すなわちそれは,いかなるイノチやココロの源泉でもありえません.

エントロピー極大の状態とは,あらゆるイノチやココロが,最後に行くところの「永遠の安らぎに満ちた場所=墓場」にすぎませんでしょう.そうした静謐な墓場をユートピアにしているのは,ゾンビぐらいでしょう.

生きているということは,自己が失っていく自由エネルギーを断えず取り入れて,自らのミクロコスモスの内において失われていく秩序を不断に「再」生産している,ということです.生きるということ,それじしんが価値「再」生産的労働である,のです.人びとが自由であるということは,この自己「再」生産活動が安全・安心に行われうること,つまり心身の健全性(QOLQuality Of Life)を前提にしているのです.そして,この自由の喪失は,そのまま老いであり,病であり,死であり,その最後に行き着く先が,「無」すなわちカオスであり混沌であり闇です.そこに「光」すなわち「自由エネルギーの流れ」があってこそ,わたしたちは生活し,運動し,自らの「再」生産活動を「行う」ことができるのです.

 

生命の存在の本質は,多階層的動力学的ハイパーサイクル・システムである  また,生命活動はクレーン・システムに譬えてもいいでしょう.工事現場では,大小さまざまなクレーンが活躍していますでしょう.このクレーン・システムは,小さなクレーン・システムが集合して,より大きなクレーン・システムを造り上げることができます.同様に,生命体の中では,小さな機能分子が集合して,より大きな機能分子を造り上げます.その大きな機能分子たちが集合して細胞とよばれる構造体を造り上げます.小さな細胞たちが集合して大きな組織を造り上げます.小さな組織が器官を造り上げます.諸器官が集合してついに個体を造り上げます.

クレーン・システムは,モーターの回転運動によって機能します.このクレーン・システムを造り上げている究極の普遍的要素は,大小さまざまな,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで存在することのできるモーター(回転運動体,「慨」周期運動態)です.この大小様々なモーターに相当するものが,太陽の「光」からはじめて,大小さまざまな動力学的ハイパーサイクルの普遍的存在なのです.

自然の「光」について,現代自然学は驚くべき諸事実を発見しました.光は質量が0の量子であり,したがって,それは静止することができないということ,それは存在するかぎり,永遠の運動に与っており,それが静止するということは,それが消滅することに他なりません.そして,それが消滅するときには,作用量子つまり作用することにおいて<素なるもの>として振る舞うのです.

  太陽から出た光は,地上の植物の上に降り注ぎ,葉緑素に吸収されて,その運動を止めその場で消滅しますが,葉緑素はその4元運動量を作用として受け取り,その作用をプロトン・ポンプの回転運動に変え,そのプロトン・ポンプは,あらゆる生命体にとっての,基本運動エネルギー通貨,あらゆるイノチにとっての基本的な動力源,ともいうべきATPを産生します.このATPが,タンパク質,脂質,糖質等のあらゆる生体構成諸分子化合物を作り出し,またそれに蓄えられもするのです.あらゆる生命体は,太陽から出来した膨大な数の光量子の運動を作用素つまり動力源としての<素なるもの>としてこれを「活・用」し,自己「再」生産あるいは自己を「再」創造し続ける,はては進化することができたのでした.

  他方,宇宙空間は光の全き欠如態であって,暗黒の闇だ,と安易にいわれますが,それは実は,光のいわば熱的死状態,つまり諸物質の創造に使い古された低運動量をもつ光たちの,いわば光の残骸なのであって,したがって,闇もまた光であり運動態なのです.闇もまた,永遠に静止することのない運動態としての光であり,闇もまた永遠の運動に与ってもいるのです.この自然においては,光はむろん,その全き欠如態であるとヒトには見える(したがって,ヒトには「全く・見えない」ものとしての)闇もまた,諸運動に満ち満ちているのだ,ということを決して忘れてはなりますまい.

このように,わたしの宇宙論(コスモロギー,cosmology, cosmos + logos)とは,相対論的量子統計力学,相対論的場の理論+量子統計力学,によって基礎づけられる予定で,それは極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスに至るまでの自然の全事物は,「自然のモノどもが・相互に・行う」ところの「運動と作用」から成り立っている,と考えます.自然の全事物が,自らを自らにおいて自らを形作ることができるということ,そしてそれらが相互無危害性と相互善行性を充たすことができたばあいには,よりマクロな動力学的ハイパーサイクル・システムを形成することができ,結局,よりマクロな領域においてそれが存在する(存続する)ことによって,この日常世界が成立している,ということです.

 

究極の<空なるもの>としての時空間の解明へ  138億年前に宇宙が超高温・超高密度の状態からビッグ・バン,大爆発をおこして膨張してきた結果として,物質の量つまり運動の量が次第に稀薄になり,運動の量に対して重力が支配的になると,お互いに引き合って星々ができるようになります.その星々が多く集まると,重力崩壊をおこしてブラックホールができます.あちこちにブラックホールができると次第に宇宙は「熱的な死」を迎える,といわれています.それはしかし,1000億年後のことであろうといわれますが,それまでに人類がなしうることはまだまだ多いはずでしょう.

  現代自然学の最後のそして最大の謎は,この時空間の「存在(運動,作用)の様式」にあるのです.現代自然学は,モノを「数える」ことから出発して,ついに時空間の窮極の要素らしきもの,量子,にまで辿り着きつつあります.それは現代数学では多元環,hyper complex number system,直訳すれば,超・虚数の体系,とも呼ばれるものによってうまく表現できます.わたしの夢は,これを使って,全自然学システムを,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまでのそれを「再」構築してみせることです.

時空間,窮極の<空なるもの>こそ,わが自然学およびメタ自然学の探究の果てにある「窮極の存在」なのです.わたしはカントの時空間をヒトがそれによって自然の事物の存在を「認識する」ための「悟性の形式」である,という定義をうかうかと信じてしまったために,じゃ,徹底的に数学をやらなければ物理学は到底理解できないじゃないか,ということでついつい数学に深入りしてしまい,ずいぶん遠回りしましたが,ようやく自然学に戻ってくることができました.

この時空間は,実は,3°Kの黒体輻射で満たされて断えず運動しゆらいでいます.つまり,それはカントがいうような,単なる「悟性の形式」などではなく,この全世界を浸している巨大な運動態なのです.時空間とは,そのままで巨大なイキモノ,動・物,つまり自ら動き,自らを組織化し,自らを生成し,自らを運動せしめ,そして,進化しながらも,ついには消滅していくだろうもの,イノチあるもの,そしてココロあるモノ,つまり(誤解を恐れずにいえば)古代的な意味での「魂」あるいはヘーゲル的な「世界精神」を,その内に宿すもの,イノチやココロを内在させているもの,なのです.

そうなると,数学の方を,自然学的に,全面的に見直す必要があります.たとえば,数学的「点」とは何でしょう.それは部分をもたないもの,ロゴス的に<不可分なるもの>,論理的原子です.「点」とは静止したモノではなくて,窮極のミクロ領域において存在する動力学的ハイパーサイクル・システムの「中・心」にすぎないのではないでしょうか.

この時空は,窮極のミクロ領域にある動力学的ハイパーサイクル・システムに満たされている,ということになりましょう.そして,その窮極的な動力学的ハイパーサイクル・システムの相対論的運動態を表現するもの,そのもっとも忠実な数学的表現が4元数体なのです.数学的「数・量」とは,それら11つが「機能」であり「関数」でありfunction(機能するコト)に対応しているのです.それらは静止したモノでなく,機能するコト,運動するコト,働くコト,作用するコト,を表現する動的な存在者の存在なのです.

そもそも,その発生からして,数とはなんら静止したモノではありません.それは「数える」コト,あるいは「数えられる」コト,つまりヒトの「行う」コト,あるいはヒトが自然の事物に対して「作用する」コト,ヒトの純粋な「行い」から生じた概念です.したがって,それらは必然的に「動!」詞つまり動くコトバ,動的なロゴス,によって表現されなければなりません.自然の「数・量」とは,生成・運動・変化・消滅するコトを表現することができる,動的ロゴス,でなければなりません.これがわが[論理的原子=動力学的ハイパーサイクル・システム]論です.

かくしてわが自然学探究の旅,窮極の自然法則の探究の旅も,ようやくその「終り」に近づきつつある,とわたしには思われます.それは「おわり」という名の新たな何かの「はじまり」なのかもしれませんが,わたしにはそれ以上の旅は,もう必要ないし,わたし一人でできるような旅でもないしね.

 

<空なるもの>としての自然法則性すなわち自然法こそが,わたしたちの存在基盤である  ここでついでに,自然法則とは何か,について説明しましょう.自然法則とは,ロゴス的に<空なるもの>としての存在である,というのです.

例えば,「リンゴ」という名詞は,リンゴと呼ばれるモノ一般であって,それは個体としてのリンゴを指示しはしますが,いかなる個体でもありえません.むしろ,それはリンゴとしての普遍性を意味するのです.同様に,これを動詞に適用してみましょう.たとえば,「歩く」という1つの動作をとってみましょう.「歩く」というコトバは,ヒトの動性を表現し,その具体的個別的な動作にとってはその普遍性です.しかし,その普遍性であるはずの「歩く」というコトバは全く「歩かない」のです.コトバが歩くはずはないですからね.

  個々のモノが「行う」コトにとって,その普遍性である「行う」というコトバは何も「行う」わけじゃないです.一般に,ある個々具体的な「行い」を表現する「動詞」は何一つ「行う」わけではないのです.

  これと同じで,具体的な諸々の事物(何度もいう通り,それらはこの自然では動的な本質をもっていて,動的である他には全く存在しえないのですが)の非常に多くの集まりつまりその自然本性としての普遍は,その動的事物としての動的特性を次第に失ってしまうように見えるのです.たとえば,空気は絶えず高速で運動する多くの諸分子たちの集合,つまり分子運動の集合であり,その動的な普遍性であるはずなのだが,それをわたしたちは風のそよぎにしか感じられないでしょう.

  空気から全ての分子を取り去った後に残る「物理的真空」も同様で,そこには数多くの「光量子」たちが動的にそれこそ光速で運動していて,物理的真空とは,光量子の運動の集合でありその普遍であるはずなのですが,「モノ的なもの(物理的な対象)が全く何もない」かような時空間すなわち<空なるもの>に見えてしまうのです.

  時空間それじしんすなわち究極の<空なるもの>もたぶん同じで,そこには極小の「無限小の紐の0点振動」と呼ばれるような極小の動力学的ハイパーサイクル・システムの存在があるのですが,その上に生活しているわたしたちにとって,時空間は,これ以上はありえないほど強固な存在基盤として,あたかも静止した大地のように感じられてしまうのです.自然の究極の存在としての<空なるもの>時空間こそは,わたしたちの永遠の住処であり,その本質であり,わたしたちがそれを実際に「わけもっていて(時空間を占めていて)」そして「その本質に与っている」ところの,自然の存在でありその動的本質そのものなのです.

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