論理的原子論の発見

 

論理的原子論の起源  ラッセルの始めた論理的原子論とは,11つの事象,何かが・何かに対して・何事かを「行う」コト,をそれぞれロゴス的に<不可分なるもの>に,つまり論理的原子としての命題に対応させることです.それに似たことを,約2000年前,今のアフガニスタン,パキスタン,インド北西部で栄えた,アビダルマ仏教が既に行っています.

ヒトが何事かを「行う」ことによって「1つの種子」(この場合は「シュウジ」と呼びます)が創り出され,それが発芽して,成長し,老・病・死するというのです.簡単な例としては,あらゆる生物が行っている配偶活動,生殖行為,を考えればよいでしょう.生殖活動によって「一つの種子」(卵子でも,卵でもいい)が創り出され,それが発芽し,成長し,ついに老・病・死する,その繰り返しが自然界を作り上げている,というわけです.ある1つの「行い」が,種子という1つのモノに結実し,それが次々と発芽発展して,また似たような「行い」を繰り返し,等々と,それらの全集合が,この器世間(世界)としての<空なるもの>である,というのです.

 

離散的なモノと連続なもの  リンゴやミカンなどの個体とは1個,2個,って数えられますよね.個体つまり<不可分なるもの>として<ある>もの,離散的なモノ,ディジタルなモノ,を数字の1に,対応させることができます.個体を存在するモノ,という意味で,存在者,と呼びます.離散定なモノ,個体の存在は自然数システムに対応させることができます.

空気とか場所とか,あるいは火とか水とか土とかの連続体(アナログなもの)は,<空なるもの>とよばれ,それは切っても切れないような連続体ですから1個,2個,・・・とは数えられ<ない>ものです.それはリンゴやミカンなどの存在者(個体)では全く<ない>が,しかし,水や土などは,コップ約1杯,約2杯,とアバウトには「量る」ことはできます.空気でも,それが占める場所の量を何㎥として「量る」ことができます.

<空なるもの>,連続体は,存在者つまり個体として数えられるようなモノでは全くないのだが,しかし,確かにこの自然には現に「存在している」ものではあるのです.それを「0」記号やあるいは「空白」記号に対応させることができます.

4大としての空気,火,水,土などの連続なものは,個体としては全く存在しないのだが,確かに自然に場所をとって存在はしていますよね.<空なるもの>は,わたしたちにとって「存在の場」つまりわたしたち存在者にとっての「存在の住処」である,といえましょう.

自然の存在って,結局,存在者(個体)として<ある>知覚されるモノと,存在者(個体)では<ない>が確かに「存在する」として知覚されるもの,とに分類されます.これを10とにそれぞれ対応させると,ちゃんと,ディジタルな世界,ができあがります.コンピュータの世界は,この10とを計算することで成立しているのはご存じでしょう.「空白」に「0」を描くと,そこなる「存在の場」には個体として数えられるモノは何も<ない>(しかし,そこには存在の場は<ある>ことに注意)ことが明確に表現されているのです.このように,古代原子論,そして論理的原子論は,コンピュータの存在とはきわめて深い関係にあります.

 

多くの<不可分なるもの>(原子)とただ1つの<空なるもの>(空虚)  <空なるもの>って,全自然の存在基盤であり,自然が産みだした全てのモノどもの運動の場であり,自然の全てのモノがモノとしての存在をやめたときに帰っている場所でもあります.そこにおいては,<不可分なるもの>どもは自ら生ずることによって他を滅しさせ他を生じさせることによって自らは消滅するのです.全ての<不可分なるもの>はただ一つの<空なるもの>の内において相い互いに補いあい相い互いに依りあうことによってはじめて存在することができます.全ての存在するものは,<空なるもの>から生じ来て,そこに去って消滅します.すなわちこれが,一切法空,の風景です.

インド古代仏教,原始仏教は,古代原子論の影響を受けて成立しているのですが,その古代原子論が発生したのはインドにおいて,六師外道といわれる人びとによって,だったのです.ギリシア古代で原子論を唱えたデモクリトスが,インドへ旅行したとかインドの修行者からそれを伝え聞いたとかの説があるほどです.実際,部派仏教(いわゆる小乗仏教)のアビダルマ教典には永遠不滅な法(永遠の実在)として,大虚空というのがあります.

大虚空(現代ではそれが4次元時空に代ったのだが)といっても,そこには離散的なモノ(個体)がないだけで,モノがそこにおいて自由に運動することを許す「存在の場」としては確実に「存在している」わけです.現代でも,真空というのは空気を構成している分子や原子などのモノ(個体)がないだけで,そこには実はちゃんと,光子という<不可分なるもの>たちの激しい運動が<ある>のです.

「空」って,般若心経に「色即是空 空即是色 色不異空 空不異色」とあるように,「色」と対になったコトバで,「空」だけをそこから取り出したのでは,一体何のことやらわかりませんでしょう.「色」とは,名色(みょうしき)といって,名づけられるもの,色やカタチのあるもの,つまりわたしたちの身の回りにあるモノでいうと,個体のことです.個体を英語でいうとindividualといいますが,これはin-divide-ableつまり<不可分なるもの>から来ています.これが「原子(atom)」の語源です.つまり,「原子」=「個体一般」,なのです.

他方,「空」は,そこに個体が<ない>ことを表現していて,要は,あらゆる個体的なモノを取り去ったあとに残る「存在の場所」のことです.この場所って,一見あたりまえに<ある>ようですが,実は,そこにはわたしたちが見えるようなモノ(個体)は何も<ない>のです.むろん,そこに何もないから,わたしたちがそこに手を伸ばしたり,そこへ行ってその場所を占めたりすることができるわけです.つまり,<空なるもの>とは,それ自身では何も<ない>に等しいが,わたしたちをそこに<あらしめる,生ぜしめる>ことができるような,私たちがそこで運動する生活することができるような「場所」のことです.

わたしたち個体は,そうした<空なるもの>を占めてはじめて生活することができます.つまり<空なるもの>というのは,わたしたちの生活基盤そのものです.それを一般化すると,<空なるもの>とは,わたしたちを取りまいて存在していて,わたしたち自身がその一部である「この・大自然・そのもの」である,と考えることができましょう.

あらゆる色・カタチあるモノどもは,この自然から生成し,運動し・変化し・この自然へと消滅していきます.世界の色・カタチあるモノのすべては,この自然が生みだしたものであって,諸行無常,みんな,結局はそこへ帰っていく.「色即是空 空即是色 色不異空 空不異色」とは,「あたりまえ」の,この自然の動的な風景のこと,をいうのです.

わたしたちが住んでいるこの(4次元時)空間は,巨視的(マクロ)には静止しているように見えますが,微視的(ミクロ)には光子たちの運動で満ち満ちています.しかし,この多くの(無数の)光子たちの諸運動は全くランダムなので,その総和は結局0になり,全体としては静止しているように見えます.これを動的平衡状態といいますが,それは「熱的死」状態であるとも呼ばれています.

しかし,それは実は「静的な死」とは全くほど遠い動的なカオス(混沌)状態なのです.わたしたちがそこに住んでいる場所である時空()は,ミクロには生きている(活動している)が,マクロには死んでいる(完全に静止している)ように見えるのです.

このように,いわゆる「お経」には,現代自然学で解釈すれば,一切,何の神秘不可思議もないのです.むしろ,この「あたりまえ」の自然の中に,わたしたちが現に・今・ここに・生きていること,その「あたりまえ」のことのほうが,よほど神秘不可思議なことなのです.わが自然学とメタ自然学は,この「あたりまえ」の「自然の存在(本質)の解()(かし)」を,目指しております.

 

あらゆる「行い」はコンピュータが「行う」ところの「再帰的関数」として表現される  ディジタルな世界って,多くのモノを「数える」という「行い」から始まり,多くのモノを「数える」という「行い」に終わるのです.多くのモノを「数える」という「行い」は,(1)記憶していたある数を想起し,(2)それに1を加えて,(3)それを記憶する,そして,多くのモノに11に対応させて(1)(2)(3)の一連の「行い」を,対応させるモノが尽きるまで,繰り返しそれを「行う」こと,つまり1連の純粋な「行い」のサイクル,純粋行為論的サイクルが存在していることなのです.それはコンピュータ・システムにおいては1つの再帰的関数(recursive function)であるところのadd-one関数として表現されます.

これと全く同様に,自然の「行う」コトは,その運動や作用の「数・量」でキチンと表現できるのですから,結局あらゆる自然の「行い」はコンピュータ上の「再帰関数」として表現できることになります.むろん,ヒトの「行い」もその例外ではありません.

コンピュータ・システムの「行い」のそれぞれの過程は,きわめて単純で,素朴で,誰もがそれを「行う」ことができて,手順さえ尽くせば,全く間違いようがありません.これがディジタルの世界が「きわめて正確である」ということの理由です.

単純素朴であること,純粋であること,それもまた,1つの価値基準であり,それもまた「美」のあり方である,とさえいえるのではないでしょうか.何もない座敷の床の間にポツンと一輪差しがおいてあって,そこに野の花が活けてある,そうした風景もまた,私には素朴に,また美しく感じられますね.

 

ロゴス的に<不可分なるもの>の表現としての「点」  1つの「点」ってのは,なんら静止したものではなくて,「動的な極限状態」を表現するための数学的道具ですが,多くの人びとは,多くの数学者たちも含めて,それを静的なモノ,と勘違いしているのです.わたしも実はこの「誤・解」から抜け出すには,大分苦労しました.

こういうたとえはどうでしょうか.たとえば大きな太陽の重心とは「1つの点」にすぎません.しかし,それは太陽全体の重さをその内に集約しているのです.日常的なことですと,温度計の目盛りを読むと,たとえば20Cとあります.20Cを数直線上に置くと,それは「1つの点」です.要するに,小さな1つの点としての<不可分なるもの>ってのは,その背景に空間としての巨大な<空なるもの>をもっています.もちろん,<空なるもの>って,その部分である多くの<不可分なるもの>としての点たちからできあがっています.

そして,<空なるもの>って動性そのもののことです.なかなか理解しにくいところではあります.いろいろ表現を試みていますが,なかなかピッタリするものが見つからずに苦労しています.部分は全体があってこその部分であり,全体は部分あっての全体である,とか.対立する概念は,2つを切り離してしまっては自己矛盾し,全く理解しえないものになってしまうのです.

 

ロゴス的に<空なるもの>の表現としての0  同様にして「0」とは,そこに個体,<不可分なるもの>つまり「数えること」ができるモノが<ない>場所をあらわす「記号」です.光()子の「静止」質量が0,というのは,それを「静止したモノ」として見よう(数えよう)とした場合にそこには<何も・ない>が,しかし,それを「運動するモノ」として見た(数えようとした,量ろうとした)場合には,そこには「運動する」コトに係わる「量」がちゃんと<ある>のです.

静止質量が<ある>(つまり「0」で<ない>)量子についていえば,その「静止」質量は,その量子内部の「内部自由度における諸運動の総量」をあらわしているのです.たとえば,原子の「静止」質量といった場合,それは原子核とそれらがもつ内部運動の量,そして原子核を周回する電子の質量とそれが原子核を周回する運動の量,・・・等々を全部あわせた運動の「総量」がそこには<ある>わけです.

光子がたとえば電子に吸収されて消滅すると,光子はそこで消滅しますが,電子がもつ運動量は光子の運動量が消滅した分だけ増えています.それで「光子+電子」を「1つの動力学的ハイパーサイクル・システム」として見た場合には,その「総」運動量は,全く不変に保たれています.

 

<空なるもの>としての存在(運動,作用,「行い」)の場としての時空間の発見  自然において何が<ある>のか,をちょっと反省してごらんなさいまし.わたしたちは目に見える個体すなわち<不可分なるもの>,それのみを<ある>と思います.しかし,その背景には見え<ない>ものが確かに<ある>のですよ.空気とか空間とかの<空なるもの>がそれでしょう.その空気とか空間は,原子や量子の諸運動に満ち満ちていてそれこそ混沌(カオス)なのに,わたしたちには直接には(間接的には,風の「そよぎ」や「寒・暖」や「乾・湿」などは感じることができるが),それを感じないから,それが<ない>と思っているだけでしょう.そして,ココロある絵描きさんが,一番苦労するのが,この背景としての「地」であり,その上に,個体の運動性をそこ浮かびあがらせる「その場の雰囲気」でしょう.

古代においても,原子論者デモクリトスは,<空なるもの>は,<不可分なるもの>に劣らず<ある>といいました.そもそも<空なるもの>がないならば,いかなる運動も作用もしたがっていかなる「行い」も<ない>,むろん,わたしたちの存在もありえないのです.キャンバスという「空白」がないならば,わたしたちは絵を描くこともできないのと同様に.

 

記憶<する>「行い」と想起<する>「行い」 -過去は記憶のうちにのみ存し,未来は空想のうちにのみ存するプルーストの有名な小説『失われし時を求めて』のテーマがこれで,彼は,紅茶に浸したマドレーヌの味から,自らの「失われし時」の探索を始めます.時とは,記憶とその想起である,というわけですね.過去は記憶の内に「のみ」あり,未来は想起のうちに「のみ」あるのです.

じゃ現在の「時」とはいったい何でしょう.実は,記憶と想起の場である脳神経ネットワーク・システムにおいては,現在を記憶するコトと現在を想起するコトとが,ほとんど同時に起っているのです.自らの現在の行いを記憶しそれを想起するという行為論的ハイパーサイクル・システムが,そこ(脳神経ネットワーク・システム)に現に存在しているのです.それが現在の「現・在」なのです.デキゴトを「記憶する」という「行い」と記憶されたデキゴトを「想起する」という「行い」が,コンピュータの存在といかに深くかかわっているかはご存知でしょう.

記憶と想起の問題は,現代においては,コンピュータ・ビジョン(CV: Computer Vision)の原理として知られています.それはすでにコンピュータ・システムが仮想現実としての世界を「描き出す」ことに実際に応用されているのです.

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