はじめに
形而上学からメタ自然学へ メタ自然学とは,meta-physicsの日本語「訳」です.このmetaphysicsは,明治以来「形而上学」と「誤・訳」されてきました.Metaは,後ろにある,あるいは中間にある,という意味で,中国語というより日本語された漢語でいう「形而上」「形而下」(『易経』にある)という意味は,まったくもたないコトバなのです.アリストテレス『形而上学』は,『自然学』([英]physics,日本語でいう「物理学」,古くは「究理学」といったものの起源)の書巻の「後ろ」,そして『ニコマコス倫理学』との「中間」に(多分偶然に)配置されていたからからつけられた名前にすぎません.
その『形而上学』の中身というのは,自然学史,つまりミレトス学派にはじまるギリシア古代自然学の進化史,そして自然学総論あるいは自然学概論なのです.わたしのいう「メタ自然学」とは,ヒトがする自然学の進化史であり,その進化の究極としての「自然学の理想の姿」とは一体何か,を明らかにしようとするものなのです.これをそのまま「形而上学」といってしまったのでは,中世におけるアリストテレス『形而上学』をそのまま復活させる試みと間違われて現代の自然「科」学者からは総スカンを食うでしょうし,また,「超・自然学」といってしまうと,今度は「超・心理学」などのようなインチキ科学やインチキ宗教と間違われてしまいそうだから,「メタ」はそのままにしたのです.
日本「誤・訳」の諸問題 日本語では多くの「誤・訳」が平然と罷り通っています.まず「科」学も一種の誤訳です.ラテン語でscientia,英語ではscience,ドイツ語ではWissenschaft,共に,知識一般という意味しかなく,そこには「(分)科」した,つまり「科・目」に「分・科」あるいは「分・類」された,分かれた,という意味はいささかもないのです.わたしは,ただ1つの自然の存在に対応したただ1つの自然学がある,と主張するものですが,これは,ヨーロッパ語圏ではまことに自明なことにすぎません.
「技術」もまた一種の誤訳です.古代ギリシア語でのテクネー(術)は,古代ラテン語起源のアート([英]art)に「厳密に」1対1に対応していました.古代では,知識とすなわち生活の知恵の一部であり,すなわちヒトが「行う」ところの全技術あるいは全芸術の一分野にすぎなかったのです.ところが,日本語訳では,アートを恣意的に広く「芸術」と訳し,テクネー([ギ]techne)を恣意的に狭く「技術」と訳し,結局,後者を,自然学的知識あるいは「学」問や「芸」術よりも一段下のものとみなしてしまったのです.その挙げ句,日本学術会議で,「科」学と技術までをも完全に分離せよ,という類の馬鹿げた議論すら起っています.
「革命」とても誤訳の部類でしょう.西洋の革命([英]revolution)とは,「回転」という意味しかありません.それは支配者が被支配に却って支配されることであり,いわば下克上の概念です.たとえば神の国が,悪魔に支配されるようになる,それが「半」回転するという意味でのrevolutionで,さらにそれが「半」回転して,神の支配が回復されるというわけですが,しかし,revolutionとやらによって回復された神の支配が悪魔の支配よりマシであるという保証は全くないのです.神がかえって悪魔より悪賢いだけの大悪魔だったりすることもありうるのですから.
それに対して古代中国では,これは天の「命(令)」が「革(アラ)たまる」ことでした.たとえば,夏の「桀」王,これは「桀」がハリツケと呼ばれるように,きわめて残酷な人物だったので民心が離れ,殷の湯王に滅ぼされました.湯王を聖人化する意図で,それを天の「命」が「革」(アラ)たまった」のだと後世の儒教徒が説明したにすぎないのです.新しい王朝を支持する新しがりやの連中は革命的で,古い王朝をそのまま支持している保守的な連中は反・革命的である,というわけでした.新しい「支配者」が必ずしも<よい>いいわけでもなく,古い「支配者」が必ずしも<よく・ない>わけでもないし,相変わらす「支配される」側にとってしてみれば,どっちも同程度に「悪いモノ」にすぎません.日本で,進歩的だ,保守的だ,という類の党派的対立がこんなにも長く続くのには,明治時代からずっと引き継がれた,日本語へのこうした「誤・訳」の問題,が非常に大きいのではないかと思うのです.
「科学革命」という概念すら登場しました.世界(叡智界)を支配しているのが「科」学とやらで,そこに下克上が起って,支配的な学説としての新しい「科」学がそれにとって代わって君臨する,という図式ですが,実際にはそんなバカな話はありえません.コペルニクス「革命」にしても,天動説(地球中心説)と地動説(太陽中心説)とは,相補的な概念で,相互にまったく矛盾などしないのです.
実際,地上において天体の運動を記述しようとすれば,地球中心説によるしかなく,そうして記述された天体運動に関する観測データが,太陽中心説で説明したほうがより簡単に,ニュートン力学によってより正確に,説明できてしまう,ということにすぎません.実際の天文学では,座標変換によって,太陽中心システムによって記述される諸天体の運動と地球中心システムによって記述される諸天体との運動とは, 1対1に対応し合い,それを記述する座標系は相互に接続し移行し合うことができます.太陽中心システムと地球中心システムは相補的な概念であって,両者共に,相互に無矛盾に成立し,地球近傍では地球中心システムを使い,地球近傍から離れると太陽中心システムを使います.これは,ミクロな視点からマクロな視点へと,またマクロな視点からミクロな視点へと,相互に移行し合っていることにすぎません.
自然のロゴスの起源を探究するということ わたしたちを悩ます現実の諸問題の,その起源の「探究」を,古代ギリシア語ではhistoriaといいました.ヘロドトスの『歴史』とはこの"historia"の訳ですが,しかしこれもやはり一種の「誤訳」だと思います.それはむしろ「ペルシア戦争」という,当時のギリシアの全ポリスを危殆に瀕せしめた大問題の,その「起源(原因,理由)の探究」だったのです.それが,いわゆる教科書的な「歴史」つまり「単なる事実の継時的羅列」つまり「故事来歴」を暗記することとほとんど一緒になってしまったのは,かえすがえす残念なことでした.
遠回りに見えても,その問題の本質に遡って,その起源を探究すること,それが現実の問題解決のためには最適な方法です.今「もし」,(福島原発事故に代表されるように)ヒトの文明がその限界あるいは危機に達していて,ついに老い・病み・死につつあるとすれば,文明の老・病・死という問題の依って来る根本原因を考えることです.わたしたちは何かしら,自然の,そして自然の内なるモノであるヒトの,その本質的なことがら,に対して全く無知なのではないのか? と.
このように,自然の探究とは,その起源の探究に帰着するのであり,自然のロゴスの探究とは,その自然のロゴスの起源の探究に帰着するのです.それがわが,広義の自然学の1分野としてのメタ自然学,の意味と意義です.
超越と内在,普遍と個,外延と内包 「超越(仏教用語では,チョウオツと読みます)」なども誤訳の部類でしょう.これはtranscendentalの訳語ですが,transcendとは,その個々の限界を越えて,その限界の彼方へ,といく,という意味で,いささか「昇る」という意味は含まれますが,仏教用語でいうような,はるか上方やら遠方にある,到達しがたい高みや距離をもつ存在,といった意味まではありません.
Superもhyperもまたこの類で,これはスーパー・マーケットや,ハイパー・リンクを考えていだだければわかるでしょう.要するに,個々別々の小商店ではなくて,もっとたくさんの商店の集り,という意味で,それには「超」商店などという意味はありません.ニーチェ的「超」人などという意味あいも全くありません.Hypertextとなると個々ばらばらではなくてむしろ関係づけられたテキストの全体,という意味です.要は,それは個体の限界をいささか超えている,という意味しかありません.凡人であるクラーク・ケントとスーパー・マンとが「実は,全くの同一人物である」という類です.
とにかく,戦前の日本人,特に知識人は,「超越」しているなどというと,下々には近よりがたい「お上であるぞ」というように,要するに自分は下々のものには近よりがたい高尚な学問を知っているぞ,と「虚仮威し」をしたのです.旧・内務官僚だけでなく,戦前の知識人のほとんどが,いわゆる無知蒙昧な庶民に対しては支配者然としていた,ということ,これを忘れて,昔の訳語に満足して,そのまま「偉い顔」をしていてはいけません.
そもそも,ハイパーサイクル論の発端は,プラトンの『ティマイオス』にある一種の「イデア」つまり理想図形としての「3角形」なのです.プラトンは,イデア(理想的なカタチ)をどこかヒトの目の届かない遥かな天上にあるなどと考えたわけではありません.それは,わたしたちが日常的に描くことのできる図形に既に「内在する」のです.現実に描かれた図形としての3角形は,理想的な図形となんからのカタチで「似ています」が,それは,その図形が理想的なカタチとしての3角形の「本質(普遍)」を「分け持っている」からだ.といえるのです.それがその個々の現実の3角形が,個々の3角形としての限界をすでに「超えている」「越えている」つまり「超越している」ということなのです.これを「極楽浄土」とやらが,この現世を「超越(この場合には,チョウオツ,と読む)」した10万億土の彼方にある,などの「世迷い言」と一緒にしてはいけません.
結局,超越とは内在であり,普遍は個や特殊に分有され,外延的「数・量」は内包的「本・質」において存在する,というわけで,こういった一見対立する概念が<共に・ある>のは,なんの論理矛盾でもないのです.とかくヘーゲルやマルクスをもって,難解だ,深遠だ,などという輩ほど,彼らを「祭り上げて」,しかも明治以来の奇怪な「漢語」を持ち出してきて「虚仮威し」し,それによって「労働者をその『超越した』知識によって支配しようとする」わけで,要は自らが,真実の知識を知らないこと,真の知恵のはじまりとしての無知,を隠蔽して,一端の「知識人面」をしているだけのことです.