いわゆる「学問・芸術」について

 

母のいう「学問」は,自然学の基礎としての「読み・書き・そろばん」の類なのでしたが,それですら,祖父にとっては,それが一文のお金や稼ぎにもならない限りにおいては,一種の「趣味や道楽」にすぎなかったのであり,許されるはずもなかったのでした.わたしの「学問」だって,それは父のいう「学歴」をつけるためのものであり,母にとってしてみれば「偉い人」に立ち交じることができるため,のいわゆる立身出世の「道具」としてのみ,許されていたのではなかったでしょうか,と今となっては思えるのです.

わたしたちが育ってきた頃の「学問」をとりまく雰囲気は,とりわけ庶民にとってのそれは,およそ,「魂」の浄化,愛知の業としての学問,さらには自然のロゴスの探究を通じての人格の陶冶,というような「自然学の精神」が理解されるような,時代でも環境でもなかった,と今となっては思われるのです.「学問の自由」とか「言論の自由」とかは,結局は,自由市民として自活できるような「ある程度の蓄え」があってはじめて可能なところにしかない,と思うのです.

わたしの場合,18歳で都会に飛び出して,寮暮しの根無し草,結局はとにかく自分を食わせること,自立を,まずは考えるしかありませんでした.自分のため,そのためだけに世間とうまくやっていこう,とそれだけしか考えられませんでした.ただ,どんな局面になっても,どうしてもやりたくないこと(良心に反すること)だけは「やりたくない」,とはっきり言おう,とは思っていました.幸い,私が帰属した組織において,そうした局面はなかったから,まぁ,なんとかやってきたようなものです.ホントは,自分がホントにやり続けたいことだけ(自然の探究,自然学の探究)をやり続けられれば,もっとよかったのでしょうが,しかし,ようやくその本来のテーマに戻って来た今となってみると,どっちがよかったか悪かったかは,もうわからなくなっています.

わたしは結局,サヨクにもむろんウヨクにもブンヤにもなりませんでした.なれなかった,というほうが正しいでしょう.いわゆるサヨクが「内乱から革命へ」というところを,わたしは「妥協と平和を」つまり「あらゆる人種差別や階級差別の死滅を」だったし,サヨクが「資本主義の没落あるいは自壊あるいは打倒」をいうところを,わたしはあくまでこの現実である資本主義的生産様式を出発点としての,その「改・善を」あるいは「構造・改革を」あるいは「社会進化を」だったですからね.サヨクに言わせれば,わたしはサン・シモンばりの「産業主義者」だったというわけで,立派なサヨクにいわせればわたしゃウヨクだ.立派なウヨクにいわせればわたしゃサヨクでしょうね.

ブンヤとは,それこそは,デマゴゴス(大衆煽動家)のことでしょうが,わたしゃ,ヒトにその利害をといて自分の味方につけよう,多数をたのんで要求を通そうとする「いわゆるリーダー」になろうなどとは思ったこともないです.わたしの志はただ自然の真実を語ることだけです.それにわたしゃ自分の思想を形成するには,いつも一人ポッチでやりました.

 

「苦」とは,この現実における「問題点の認識」である,と申しあげてきました.「生活・苦」とは実際にそれで,たとえば絵画を仕事にして,実際に生活しようとすれば,当然のこと発生する,「生活上解決すべき諸問題」のことではないでしょうか.いかなる創造も,「生活・苦」すなわち「労働」すなわち製作しようとする際の苦悩や苦悶の解決の,その積み重ねの上にあるだろう,ということです.「無知と貧困と野蛮と」についてはどこかでいったように,それはわたしたちじしんの内面に深く巣くっている「復讐のロゴス」の種子のことです.たんに外面的に,知識があるとか,お金があるとか,紳士淑女的だ,ということではありません.

それに子どもの「遊び」って遊びに見えて,決して,年寄りなどのやる「お茶・お花・俳句・書画」といった類のそれこそ「暇つぶし」の類の「遊び」じゃないですよ.かれらは遊びにおいて真剣そのものです,かれらは社会的なルール,それこそ「相互無危害性原理と相互善行性原理」の何たるか,を「まねぶ」つまりマネすることを,その「遊び」において,まさにその「仕事」つまりその「労働(労苦をともなうヒトの活動」にしているのです.その「真剣さ」がヒトを感動させるのであって,チャラチャラした「遊び心」とやらがヒトを感動させるのではないのです.

子どもの遊びは,そこから社会への参加がはじまるのだから,それは自然なよさ,美・真・善,といった社会的な諸価値の「再」生産の「はじまり」でもありその練習でもあるでしょう.ところがしかし,お年寄りの遊びときては,そこから社会への離脱がはじまるのだから,それは美・真・善といった社会的な諸価値の「再」生産の「おわり」でありその整理整頓なのだから,悪しきものを断ち,悪しきものを捨て去り,悪しきものから離れること,近頃流行るが実は古代の知恵そのものである「断・捨・離」を心がけなければならないのではないでしょうかね.

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