わが思想の彷徨,その「はじまり」

 

わたしの祖父は漁師で,父は鋳物工でした.彼らが生きてきた,彼らのモットーが,ヒトには迷惑をかけないこと=相互無危害性原理,でした.しかし,時代がそれを許さない場合もあります.戦争に駆り出されれば,嫌でもヒトを殺さなければなりません.いわゆる自助努力やら自己責任やらには,それぞれの時代が画するハッキリした限界があるのです.

父は勤めていた造船所が,朝鮮戦争後のいわゆる造船不況で潰れたので,当時の「職安」に出て日傭取り,いわゆる「土方」をやっていました.丁度そのときに,小学校で親の職業を書け,といわれて困ったあげく,母に尋ねたら「道路工夫」と書いたら,といわれたのを覚えています.働こうにも職がない,職がなければ収入がない,しかも無産であれば,どうして自助努力ができましょうか.当時は,祖父もまた漁に出て,採れた魚を持って帰っていましたから,魚には不自由しませんでした.つまり,家族総出で,どうにか食えたのでした.

このように,地方はまだまだ貧しいのではないでしょうか.外見だけからしても,古い街並みが多い.住んでいる人たちも今や大多数が年金暮らしのようです.昔ながらの暮らしぶりで,食べられて住むところさえあれば,父祖たちに比べてみれば自分が豊かではないとは,まず思ってはいないでしょう.それが救いといえば救いでしょう.

大都市,東京にも,45年前私が東京に出た当時は,浜松町あたりにも,富山にもあるような古い町並みが残っていました.それが「国際貿易センター」なる超高層ができ,巨大なビル街に変貌していきました.

しかし,富山の古い町並はどうでしょう? 私の生家は80年前に建てたそのままで残っています,他地区では 50万でも買手がつかない売り家もあるそうです.いわゆる少子高齢化は地方を真っ先に蝕み空洞化させはじめています.

 

「資本の論理」,というのを,いわゆる「富(財産)」を中心とする共同体のロゴス(ノモス,習慣)とするとスッキリすると思います.「富」とは,単にお金をいうだけじゃなくて,人間関係とか,いわゆる義理人情的関係性から成立しているような社会単位,孤独な個々じゃなくて家族,地域社会,会社,組織,そして国家(ポリス)の全てをいうのです.いわゆる資本「主義」は,そうした共同体を「自由な個」に解体し去ったはずなのですが,それが故郷の -昔は,S女,H男,といって,嫁をとるならS市から,婿をとるならH市から,といわれた - 古い町,にはまだ残っていて,それが「負の遺産」としての「資本の論理」として,人びとをまだ支配し続けているのでしょうね.

何で俺,そして俺の家族だけが? という「大事件」というのは,人生に一つや二つはある,と思います.幼時,祖父,親父が一家の生計を支えていて,自分はその庇護の下にあったときは,思い出話でいいのですが,自分の代でそれが起ると,それを克服するには,ずいぶん長い時間がかかるのではないでしょか.

わたしたちは,いや少なくともわたしは,自由だの,平等だの,友愛だの,と言う輩は「アカ」と呼ばれたような古い町に,そうした古い時代に生まれ育ってきました.それは,「共産」とは,全私有財産の否定であり共有である,というおよそバカげた理想を掲げるような「革命屋」,「下克上」を狙う暴力集団あるいは秘密結社,をさしていると思われた時代でもありました.

ヨーロッパでは,コミュニズムは,最初は「義人同盟」から出発しました.それは社会正義(=全市民の人格の平等つまり人権の普遍性)を貫こうと志す人びと,すなわち「義人」たち,社会正義の実現を目指す人たちの共同体(コミューン)にすぎませんでした.このコミューンが,理想的共同体としての社会のあり方が,コミュニズムでした.それは,当時の絶対王政をその「市民支配」の理念とする支配者たちにとっては確かに「天敵」ではあったでしょう.そして,「共産党」とは,そうした天敵すなわち社会正義の「亡霊」にすぎなかったのです.実は,マルクス・エンゲルスのその当時でさえ,共産党は影もカタチもなくて,彼らは社会民主党員として活動していたにすぎなかったのです.共産主義とは,『共産党宣言』にあるような,当時の支配者がそれの存在を恐れていた「幻想」であり文字通りの「幽霊」にすぎなかったのです.

ドイツでは第1次世界大戦後,ロシア革命の影響を受けて,さらにコミンテルン,要はスターリンの指導もあって,ようやく「共産党」が結成されたのであって,それに対抗しようとして「国家社会主義労働者党」すなわち「ナチ」が結成されました.後の始末は御覧の通りです.

現代ではどうでしょう.「共産」とは今や「独裁制」の美名,というより異名,にしかすぎなくなってしまいました.ヨーロッパでは,ドイツなどでは社会民主党が既に政権を執っています.日本でも,見かけ上,昔からあった部落民差別も含めて,全ての差別は,ようやく,次第に,消滅しつつあるようです.

残るのは,わたしたちの内なる「無知と貧困と野蛮と」の克服でしょう.そして,貧困とは,無知ゆえの心の貧困である場合もまだ多いのではないでしょうか.つまり,自然のロゴス -自然と共に・よく・生きる方法すなわち「生活の知恵」-それについての「無知」の克服,それが現代の私たち,少なくとも私の課題だ,と思うのです.

 

昔の地方での「産業システム」といえば,ホントに小規模な食料品の加工産業ぐらいしかなかったのではないでしょうか.魚の加工が主でしたが,それに加えて豆腐や麸などが主要なタンパク源でした.

よく食べた麸.それで検索かけましたら「加賀飾り麸」というのがでてきましたよ.仕出屋のお吸い物の具材に,それらしきものがあった覚えがあります.麸の成分はグルテン,ナイロンのように,鉄より強い繊維です.チューインガムの代用にもなるし,パン生地,クロワッサン生地,というわけだから,包んだり載せたり,小さいものから大きいものまで,いろんなものができそうですね.香りづけで,今思い出したのだけど,松茸をスライスした形状の小さい麸が,松茸の人工的な香りをつけて,インスタントお吸い物に入っていました.

親父が鋳物工で,町工場で木型を作っていたのを見たことがあります.わたしたちの幼い時代には,わたしたちを取り巻く産業システムのその全てが,今よりずっと小さかったような気がします.

 

故郷での,わたしをとりまいていた人びとの「思想」というのは,「混沌たるもの」 -少年にとってはむしろ「惨憺たるもの」というべきかもしません- でした.中学校の校歌には「胸に『三光』の幸映えて」という下りがありました.その「三光」というのは,フランス革命の理想であった「自由・平等・友愛」の理念である,と説明されました.

しかし,日本軍の「三光」作戦というのは,「殺し尽くし,焼き尽くし,犯し尽くす」だったという記事が「朝日グラフ」に載っていて,そこには日本軍が中国人の首を切るその瞬間の写真が載っていました.

その朝日グラフを見たのは,私が確か小学生高学年の頃だったと思います.つまり昭和30年代です.トラコーマにかかって眼医者に行ったら,その眼科医院に置いてありました.いろんな中国人(民間人)を「残虐に扱っている場面」を集めた「古い写真(つまりとても「捏造」とか「ヤラセ」とは思えないような)」の数ページがあって,その中でも「日本刀で切られた首が飛んでいる」写真が深く印象に残っています.私が今いえるのは,それを「確かに・見た」記憶がある,というところまでです.

「正力松太郎」の経歴を改めて調べてみて驚きました.日本の戦前の内務官僚に典型的な,ヒト中心主義的な「エリート思想 -高慢と偏見-」が浮かび上がってきます.警視庁に入って,関東大震災のときに「朝鮮人暴動の噂」つまりデマを振りまいて,朝鮮人虐殺事件の引き金を引いています.戦後にはA級戦犯に指定されて拘置されたが,結局不起訴になっています.しかし彼が,戦前にやってきたことは,今や「人道の対する罪」であることは免れられますまい.

彼は戦前「エリート思想 -ヒト中心主義的な高慢と偏見-」の観点からいえば,そりゃぁ「偉いヒト」ではあったかもしれませんが,自然法の観点からは全く尊敬に値しないヒトであるということになりましょう.そうした人を「尊敬すべき大先輩」と紹介した,当時の校長は,ホントに尊敬に値する「人生の教師」であったのでしょうか.戦後民主主義は,こうした「自然法の観点からは,全く尊敬に値しない人びと」に歪曲されて,結局は未完のままに,実現しないままに,まさに終焉しようとしているのではないでしょうか.

当時の少年雑誌には,東郷平八郎,乃木希典などの明治の「忠臣」とよばれる人たち,そして山本五十六やら特攻隊やら戦艦大和の最後やら,いわゆる「軍国少年」育成のための記事を流用したものが,まだ満ちあふれていました.

その一方で,図書館には『今日のソ連邦』という雑誌が置いてあり,それは「労働者の天国」を讃美する記事でイッパイだった.アグネス・スメドレー『7億の歌声』が推薦図書になっていたりしました.その中身は毛沢東の率いる人民解放軍の讃美一色です.

右から左までの「思想的混沌」それがいわゆる「戦後民主主義」の実相でしょう.民主主義,「人民の人民による人民のための政治」の,その中身がいったい何なのか,という議論さえマトモになされていなかったのです.

カントの『啓蒙とは何か』すら,西洋では無視され,ルネサンスも近代啓蒙も未完のまま,「無知と野蛮」のままで,結局第2次世界大戦へ突入しました.日本の民主主義も,第2次世界大戦を経ても未完のままで,私たちもまた「無知と貧困と野蛮」に象徴される「思想的混沌」の中で育ってきました.

2500年前の「民主主義」の様相を『ペリクレスの演説から』を書いたことがあります.2500年前のペリクレスの演説を「戦後民主主義の終焉」を云々する人びとの「演説」と引き比べて,どっちが「無知で野蛮」か,を判定してみるのもおもしろいかもしれませんね.

「なでしこ世界一」だそうですね.今回はよいニュースでした.日本の第2次世界大戦後のいわゆる女性の「解放」が,ついにインターナショナルな成果をあげはじめたわけで,これは私たちがその真只中にいたところの「戦後民主主義」,それは「軍国主義的あるいは帝国主義的独裁からの,多くの人びとの解放の過程」であり「武器よ,さらば」=「自由への道」ととらえることができると思う,がそんなに間違っていたわけでは<なかった>こと,を意味してはいないでしょうか.

 

自然のロゴスの観点からは,ヒトは第2の自然であり,ヒト社会とはヒトにとっての第2の自然環境です.したがって,ヒトの理想の道とは,すなわち自然法そのものなのであって,ヒトの道に反する行いとは,自然法に反する行いでもあり,それこそはヒトが亡びに至る道にほかなりません.

「小さなところに宿る神(的なロゴス)」こそは,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまでのこの全自然をして,カオス(混沌,無)からコスモス(秩序,有)たらしめるものであり,動力学的ハイパーサイクル・システムの「普遍的存在」です.この自然における,この神的なロゴスの「存在」の普遍性を,「知る」とともに「自らが,自らにおいて,自ら体得する」ことによって,私たちは「無知と貧困と野蛮」から抜け出し,「死の恐怖」から解放され,ようやく「叡知あるヒト(ホモ・サピエンス)」たることができるのです.私はナントカして,この「存在」を,完全に「解()(かし)」したいがために,ここ(富山)へ来たのでした.

 

実をいえば,私の祖父も祖母も,ほとんど文字や文化に縁のない生活でした.漁師に学問は要らない,といって母も公民科で勉強を止めさせてしまったといいます.母はそれをずっと悔いていました.父もまた高等科しか出ていません.京都で丁稚奉公をしながら手に職をつけ,鋳物工になったのですが,朝鮮戦争後の造船不況で職を失いました.彼が口癖のようにいっていたのは,オワには学歴がないからや,でした.彼は,大きな声ではいわなかったが,当時のS党に投票していたようでした.同じ町内の同じ並びに,K党の市議がいて,母は彼を立派なヒトだ,といって支持していたようでした.

こうした大多数の庶民の「無知と貧困と野蛮」を放置しつつ,また利用しもして,日本は戦争に突入して,ついに「人道に対する罪」を犯すことになったのでした.この過ちだけは繰り返してはなりません.少なくとも,「無知と貧困と野蛮」への後戻りだけは,ナントカしないとね.

この世の中を悪くしてきたし悪くするのは結局,排外主義,ショーヴィニズム,既得権の固守,声のデカイやつ,タカ派,徹底抗戦一億玉砕を主張するような輩,デマゴーグ,大衆煽動家,そしてそれを使って得をしようとする黒幕,といったところのようです.

 

これも忘れないうちに書いておこうと思うのですが,資本主義=社会主義,って私がはじめて言いだしたことじゃないのですよ.大学生の最初の「経済学」の講義で,教官の誰かが言っていたことです.修正資本主義,つまり資本の社会化,は結局,社会主義に接近するし,社会主義は市場経済に移行することによって資本主義に接近する,というような内容だったと思います.

でも,いわゆるサヨクは,それを日和見主義とやっつけるし,いわゆるウヨクは,あくまで資本の自由放任主義,金儲け資本の無責任,個人の自己責任,を言い立てて,資本主義=社会主義論を,社会党よりだ,共産党よりだ,とやっつけるわけだ.こちとら,資本が社会正義をキチンと守るようになれば,問題は解決するはずだ,多分そうだろうとアイマイには思っていても,その根拠を十分に知らないものだから,「資本主義」=諸悪の根源,というあまりにも単純な図式の前には,沈黙するしかありませんでした.

そうした事情が一変するのが,チェコ動乱でしょう.人びとは,「資本主義が流す害毒」すなわち「言論の自由」を恐れるのは独裁者,要は共産党と支配的官僚,だけだ,ということを如実に知り,むしろそうした「自由への道」に再び憧れはじめていました.

アメリカの民主主義なんかもそうだった.当時は,いわゆる安保闘争,砂川闘争,要は,反・米国帝国主義,なんてあまりにもご立派すぎるスローガンの余韻がまだ残っているから,教師がトックヴィルの『アメリカの民主主義』を説いても,全く聞く耳をもたず,でした.他方で,日本国憲法が,戦後の日本支配下にアメリカ民政局が作り上げた,アメリカ民主主義の一種の理想像であることも全く知りません.要は,私たちは思想的な「無知の涙」の真只中にあった,というわけでした.

江田三郎の「構造改革」も不幸な運命を辿りました.左派からは日和見とやっつけられ,むろん,右派は大組合幹部ばっかりだから知らん顔していました.結局,それを蒸し直して,改めて言いだしたのが,ナント,リバタリアニズト小泉で,これが大衆煽動のためのスローガンとして大当たりをとって,日本はまたまた格差社会に逆戻りしはじめました.皮肉なものです.

 

医療システムについて,ハッキリいうと,ここの町医者の方々は「かなり変」ですよ.患者の「無知」をいいことに,それを食い物にしているとしか思えないところがあります.患者もまた,人当たりのいい医者,「気休め」という名の結局は1種の「嘘」をいってくれるお医者さんのみを選択しようとします.

みなんがみんな,お互いがお互いを無意識のうちに誤魔化しあう悪循環に陥っているかのようです.没落しつつある宗教(日本の「お寺さん」,つまり「坊主」)と全く同じ「堕落」そして「腐敗」という現象でしょう.市部の公立病院はまだそんなこともないのでしょうが,そこは効率優先で,人間味がないので,老人は行きたがらないようです.厳しい話だが,頑固老人たちと疲弊しきった制度とは,自らを変える力を失って,もう「共倒れ」する他ないところへ来ているのかもしれませんよ.

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