散歩道にある,この近くの用水路では,小魚が素早く逃げる姿もみかけます.ホンモロコは絶滅危惧種に指定されているくらいだから,たぶんこれはオイカワの子でしょうか.冬期にはまったく水がなくなることがあるので,夏だけの風物詩です.
小魚といえば,海辺の港町の内川(海に通じている運河のことです)では初夏に,水面が真っ黒になるほど大量の小魚が発生しました.あれはボラの子ででもあったのでしょうか.
庄川の下流では,ほとんどアユの姿は見ませんでした.中流域や上流域はどうなのでしょうか.あまりいないとしたら,それを小牧ダムがあるせいなのかしら.
鮎をはじめて見たのは,神通川の河原で,淵になったところにたくさん群れていました.庄川下流では水量が多くて石ころがあるような河原がほとんどなかったから,見る機会がなかったのかもしれません.背中だけは見ていたが,鮎とはわからなかったのかもしれませんしね.
中学生のとき,庄川ではヤツメウナギをつかえまたことがあります.ゴカイを採りにいって,長いものがこっちへ向ってくるから,とっさにスコップを下ろしました.見えなくなったな,と思ったら,スコップの下に押さえつけられていました.偶然あるいはマグレとは恐ろしいものです.ニョロニョロして気持ちが悪いので,陸へ放り投げといたら,農家の息子であった友人が,これはオカズにするといい,とかいって持っていきました.当時,ヤツメウナギは貴重なタンパク元だったし,ビタミンAが多いから,食べると眼にいいのだそうです.母も鳥目になったとき,これを日干しにしたものを食べさせられた,と言っていました.
堤防では,自分で掘ってとったゴカイで,ギンダイやキスが釣れました.漁港の岸壁では,シマダイつまりイシダイの子も,コアジもたくさん群れていましたし,シケの後ではホタルイカが沢山迷い込んでいたことがありました.砂浜には,クジラの大きな死骸が上がったことも.
ギンダイは,正式和名がヒイラギ.ネコマタギというのは,能登だけじゃなく,静岡あたりでもそうだといいます.釣ったものは,味噌汁に入れて食ったような覚えがあります.小骨が多かったが,味はアジに似てマアマアだった.
「水棲」のトカゲ,ってイグアナしか知らないのですが,ワニのことかしらね.日本では,ワニといえば鰐「鮫」,フカ,アオザメとかヨシキリザメとか,のことです.漁師だった祖父も,鰐鮫=フカ,といっていました.
オオクニヌシノミコトの「因幡のシロウサギ」の話に出てくる「鰐」鮫,って,アリゲータとかクロコダイルとかの(日本にいるはずもない)爬虫類のワニ,じゃ全くなくて,やはりフカ,サメ,獰猛な魚,のことです.古代の中国の大河には本物のワニがいたので,それが日本では鮫に化けてしまったのかもしれませんが.
ワニと同様の爬虫類のドクトカゲを検索かけてみたら,アメリカドクトカゲとか,アメリカ産の「ドクトカゲ科」の一族しか毒がない,とあります.近縁種のコモドオオトカゲとかには毒がある(たぶん,猛毒性の細菌を唾液中に共生させていることによって)という説があります.どっちにしても,スリランカには毒のあるトカゲ,っていないと思う.中国にいたかもしれないワニもまた,魚類と一緒に人びとのタンパク源にされて絶滅したのではないでしょうか.
多分,水辺のトカゲは水の中へ逃げ込まれると捕獲が難しいし,捕獲するにも水の中に入るとなるといろんな寄生虫やら食肉魚たらを恐れなきゃなりませんし,トカゲじしんが寄生虫の「巣」である可能性もある.食ったところでそううまくもあるまい.結局,そうこういった諸々の「危険」を避けるためにも「毒がある」というふうにしておくほうが無難でしょう.キツネが高いところにあってとれないブドウを「スッパイ・ブドウ」と呼ぶのと同じような,生活の知恵かもね.
ギンダイ(=ヒイラギ)もトゲがあって,調理するときに注意しないとヒドイ目にあいます.そうしたリスクをかけて食うほどウマイ魚でもありません.結局は,ネコマタギのままにしておくほうが無難なわけです.
その反対がオコゼで,これは刺されるとヒドイ目にあうにもかかわらず,食ってウマイから,浜でも高値がつきます.調理にも気をつけなきゃなりませんから,小料理屋でも「時価」なんてあったりして,なかなか貧乏人の口には入りません.
毒があって食えない魚といえば,千葉の石ころだらけの海岸で,満月の夜,クサフグの集団産卵を見たことがあります.子孫を残すための営みは,壮絶かつ厳粛なものでした.
とやこうや,思い出話を楽しんでいる間も,ノルウェーではテロがあり,中国では新幹線が衝突し,多くの人びとが傷つき死んでいきます.社会システムの「安全性(<相互無危害性原理に由来)」と「最適性(<相互善行性に由来)」の達成は,まだまだです.なんとか,わがライフ・ワークの「一応の完成」を急がなければ,とも思うのですが.