トンボたちのこと

 

わたしの幼い頃は,河口には太古時代の「豊葦原瑞穂の国」を思わせるような湿原がまだ残っていました.そこへは生活排水も流れこんでいましたので,その淀みには蚊が発生しました.それをねらってか,大きなギンヤンマたちがそこを縄張りにしていたのです.それを一日中おいかけました.むろん,日本で最速を誇るギンヤンマが幼いわたしの捕虫網に簡単にかかるわけはありません.

しかし,かれらは逃げるわけではありません.縄張りをいつまでも周回し続けているのです.かれこれ試みること23時間,夕暮れになるとようやく葦の葉に停まるようになります.それをつかまえようとする,失敗する,その繰り返しで,もう薄暗くなってもうこれで最後にしようと思ったときに,運よく,ギンヤマンマにとってはまことに運悪く,振るった網にギンヤンマがかかっていました.

メスのギンヤンマでした.番いで縄張りを飛んでいたのです.ちょっとかわいそうな気がしたのを覚えています.

 

オニヤンマは里山の田舎に,田んぼの空高く飛んでいました.彼らも縄張りをもっていて,そこを往復しています.その縄張りの一つが人びとの踏み跡からできた山道です.ギンヤンマと同様に,失敗してもそう遠くへ逃げることはありません.山道に待ち伏せして,網を何度も振るって,ようやくつかまえことがあります.

しかし,そうした彼らもお盆を過ぎて涼風がたちこめるにようになりますと,めっきり飛翔力が落ちてきます.木陰に停まることが多くなります.そうなると簡単に採ることができました.

 

わたしだけが知っている(と思っていた)秘密の沢,というのがあって,木陰にかこまれた小さな流れの中にはアブラハヤが泳ぎ,岸辺にはオオイトトンボやオハグロトンボがたくさん飛んでいました.これは採るのがあまりにも簡単だったので,涼みがてら,ただただボンヤリとながめていることが多かったのでした.

彼らは,空を飛ぶ宝石たち,でしたね.それから半世紀が経ち,日課のようにしている近くの公園への散歩の途中,農業用水の辺で,今年の夏も,オハグロトンボが飛んでいるのを見ました.

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