古代・中世の日本海の浜辺のこと
日本海側の平野部は,古代はそのほとんどが大湿原であり,一面の葦原だったでしょうから,ヒトが住んでいなかったのかというと,必ずしもそうでもありますまい.環日本海文明とでもいえるものがあったのかもしれません.としたら,日本人は,今の遼寧省や朝鮮にいたであろう「鮮卑」つまり「鮮魚(生魚)を食う卑しい人びと」のと混じり合っていたでしょう.
古代の人びとがより多く住んでいて,人口の多かったはずの平地の住居跡やら墳墓やらは,川の氾濫やら,高潮(寄る回り波)やら,一溜まりもなかったことでしょう.山彦・海彦の伝説だって,結局,弟である山彦(多分,天武)が,兄であり富んでいたはずの海彦(多分,天智)に対して勝利を収めるわけだが,しかし,これは古い山住の人びとの「虚勢」だったのかもしれませんよ.多くの人びとが,洪水,高波,はては津波やら,に対するリスクを払ってでも,米作の収穫がありそして交易に便利な平地に住みたがるのは,今も昔も変わりがなかったのではないでしょうか.しかも,その住居といえば木造り茅葺きでしたでしょう.石造りのものといえば,支配者の住居の土台や石垣や,そして墓ぐらいしかなかったでしょう.
残っているモノから過去を「空想」するのは,それこそ各人の思想の自由に属するのは無論のことですが,歴史とは,過去の万人が事実と認めることのできる事実と,それを説明することのできるこれも普遍的な理論つまり自然のロゴスに即した理論の,探究(ヒストリア)なのであって,現実の客観的事実のそれを説明することのできる自然の客観的ロゴスと,によってはじめて成立するものです.したがって,それをあえて主観的な「空想」によって歪曲すること,つまり歴史を「捏造する」のは,キッパリとやめといたほうがいいと思います.
具体的にいえば,中国の2500年前ってば,戦国時代です.その時代に「玉帝」なんて概念があったはずがないです.そもそも「皇・帝」なるものが,三皇五帝からの合成語で,三「皇」とは三才(天・地・人)を,五「帝」とは五行(火,風,水,土,木)を,それぞれ象徴しています.要は,「皇帝」による,この世の支配権の由来それじたいが,この自然の神的なロゴスからの,いわば「合成」なのであって,当時の「曲学阿世の輩」のデッチアゲなのは,きわめて明らかなのです.逆に,後世になると,現実の世界の支配者たる「皇帝」に対応して,天にも「玉帝」がいることだろう,と信じることを民衆はむしろ「強制される」ことになって,曲学阿世の輩の「捏造」そしてそれと「迷信」との結合の結果である「道教」にそれが取り入れられたのです.
天上に皇帝があってそれが人びとを監視しているような図柄は,いわゆる民衆宗教としての道教が中国で広範に成立したであろう,せいぜい1000年前(元,明)それ以降の成立でしかないでしょう.しかも,そうした図柄の拙劣さから,それは明らかに現代における「模造」であり「贋作」なりであって,いわばその「カエル」の図柄だって,一種の「手抜き」でしょう.「玉帝」の乗り物が「蛇」の化身の竜だから,それに命乞いする,天に雨乞いする「カエル」という安易な図柄でしょう.それをあれこれ「空想」して遊ぶのは自由だけど,それは結局,「贋作」に翻弄されている,いわば「贋作者」に愚弄されているだけのこと,になりはしませんか.
模造であれ贋作であれ,とにかく安価にそれを手に入れて,そのヘンテコな図柄の意匠を「空想」によってあれこれ楽しむのは,美術家であってしてみれば,とっても自然な,無邪気な,そして,とても素朴で,とてもいいことです.
しかし,それを歴史 -それはこの自然・内・現実そのものとしての事実,自然の存在そのものとしての本質,の探究なのですから- と「あえて」結びつけようとすれば,それに「大変な」無理やら不自然な「真っ赤な嘘」やら,ようは贋作者や模造者の「邪・心」つまり,それを買う人にとても古いものだと思わせて,高く売りつけよう,という「悪意」までが入り込んできて,それを「悪・趣味」に堕させてしまう,のではないでしょうか.それを惜しむばかりに,私は「あえて」謂いにくいことまでを申し上げてきたのです.
カエルなら1億年以上前からいたわけだし,蛇は5000万年前からいたわけだし,自然そのもの,その石を構成する諸物質つまりその元素に至っては,138億年前からあったのです.おそらく,竜(水に住まうものの王,大河に住まう「鰐」がそうだったのかもしれない)の原イメージつまり祖型(arch type)なら,新石器時代にあったって,ちっともおかしくないです.ヒトの思考パタン特にイメージの祖型(arch type)に至っては,この10万年間,全く進化してないハズなのですから.
しかし,「『古』美術品」としてみた場合,その全体としての質,特にその全体が成立した年代,そして制作者の時代的意匠,その美意識,が問題になるだろう.部分的に「古い意匠」があるから,といってそれ全体を「古いもの」と称した場合は,それは詐欺といってよい.「現代の」贋作者たちは,より古くてより面白そうな,要はヒトの気を引きそうな意匠,をセッセと選び,それを「よく目立つ」ように配置するような「悪知恵」を働かせているでしょう.
「もし」それが「明代製作のもの」(明代製作であれば,もうそれこそ「立派な古美術品」ですよ)とハッキリと証明できるのなら,それはそれで,とても貴重なシロモノ,当時の人びとそして制作者の心象風景,その美意識を知る,よすがともなるでしょう.しかし,それすらできっこない,どこそこのどの時代のヒトの墓から出たものだ,などいうことも全く言えない,というわけでしょ.結局は,「現代の贋作」つまり「真っ赤な偽物」であることを,まず前提に,お話するしかないでしょ.
要は,そりゃ,歴史資料はおろか,いかなる「古」美術品にさえも,全くなりえないようなシロモノだ,ということです.意匠の気にいる/気にいらない,古いものと信じる/信じない,という「単なる主観的空想」,要は,「一種の盲目的信仰のみ」が頼りの,したがって,「古」美術品としてさえ,きわめて「頼りない」シロモノだということです.そこに問題がありませんか.ちょっと辛口すぎるかもしれませんが,またまた「あえて」申し上げる次第です.
「桜町」遺跡の出土品の写真をざっと見ました.そこには自然祭祀や生活のための住居の「工法」に目新しい発見があった,ということはよくわかります.ヒトの生活にとって必要不可欠な「技術システム」における「新発見」はきわめて貴重ですから,縄文人にも大事に継承されてきたことでしょうし,それが日本建築の祖型(arch type)になったであろうことも想像に難くないです.
しかし,そこには「古」美術性のカケラもありませんよ.縄文人は,美的なメッセージを,新石器時代の「技術システム」を使っては,加工がとても難しかったことであろう石器において残そうとするほど「暇」ではなかったのではないでしょうか.美とは「よさ」の一種であって,いわば「よい・生活」によって支えられるのですから,生活に全くゆとりのないところに,いわゆる美術品などが発生することはないと思うのです.
なお,フト思いついたのだが,中国において,玉が賞翫されはじめたのは,「明」であるよりも,いわゆる「金」王朝(それは「古・遼」の文化伝統を引いているはず)の末裔である「清」になってから,のことじゃないでしょうか.中原の富を,その故郷である「遼」(つまり,満州)へせっせと運んだのも「清」王朝だったのではなかったでしょうか.
もしそうなら,たとえ,お持ちの玉石器が「清」の時代のものであったとしても,それがキチンと証明されるのなら,それは「古」美術品としての価値は十分にあります.「清」の時代のモノでも,その制作年代がハッキリしているなら,「捨て値」では,まず買えないでしょうがね.
「遼」は,宋時代初期に,中国東北辺を支配していて,それから「女真」族が分かれ,それが建国して「金」と称して,ついには「北宋」を敗走させ中原を支配し,揚子江以南に依った「南宋」と対峙するところまで,巨大帝国にまで,成長しました.「金」は結局,モンゴルつまり「元」に亡ぼされてしまうのですが,この女真族つまり満州族が,後に「明」を亡ぼすまで再成長して,ついに「清」を建てた,という次第でした.紀元前には,中国東北部沿海州には「古・遼」があった,といわれ,中国東北部,日本海の沿岸には,連綿たる「何かしら」の文化文明的な伝統があった,ということです.
より視野を拡げれば,それらと朝鮮・日本をも含めて,日本海を中心としてその回りには,「環日本海文化」ともいうべき,「一つの文化・文明」があった,といえるのではないでしょうか.その一つの中心が,「出雲」やら「越之国」やらで,そのまた中心が「越中」で,そのまた中心が「越之潟」だった,つまり今の射水市がそれだ,というわけです.これもまた,「古代」にまつわる数ある「現代の神話」の一種でしかない,のかもしれませんが,ちょっと気を惹かれる考えかたではあります.
当時は世界最高峰に位置していた中国文明ではあり,その遺跡から出たものは当時世界最高であった文化・文明,ヒトの諸活動の総体,の遺産であることは,そりゃ確かなことなのです.実際に御覧になったであろう,その「美の躍動感」は,無粋無趣味なわたしだって想像できます.
実は,この春ミュンヘンへ行って,レンブラントの「真作」多数を,他の作家と並べてじっくり見る機会があったのです.やはり,この「美の躍動感」とでもいえるようなものが,全く違っていました.自然は,今も昔も,活動している,生きているのですもの,ね.