日本の産業システムと技術システムの現状
富山では「派遣労働者」をやりながら,ハロー・ワークに通いました.日本はまだまだ格差社会なのを痛感しました.階級闘争を激化させ,「資本の論理」に対する「血の復讐」のロゴスによって日本を沈没させるとしたら,それはサラ金によるそれこそ明確な「搾取」と,派遣労働者法によるまことに不明朗な「中間・搾取」じゃないでしょうかね.わたしは,日本はようやく,失業による貧困やら,国家独占資本主義の弊害やら,から抜け出しはじめた,と思っていたのですが,反・貧困,はまだまだですよ.反・独占も,郵政民営化法で躓いていますが,日本の巨大資本が既に国際資本化していて,アメリカやヨーロッパの独占禁止法やカルテル禁止法にヒッカカルとまずいから,まぁ,なんとかやっているという状態でしょう.
一労働者から一自由市民,要は,年金・金利生活者,となり,世間からある意味では見捨てられたからこっちもかえって世間を見捨てることができ,ようやく世間とその世間の真只中にいた自分の,来し方行く末を,ゆっくり考えられるようになりました.今はとにかく,この研究室をより長く維持することだけを考えよう,と思います.そして「もし・万一」金ができたら,の話だから,永遠に実現しない「夢」なのかもしれないが,里山クライン・ガルテンみたいのを作って,それを基地にして,自然と共によく生きる,をよく学び実践し直してみたいと思うだけです.そして,学んでときにこれを習う,また楽しからずや,だけではちょっと寂しいですから,朋あり遠方より来る,また歓ばしからずや,もまた必要だと思うのです.
「いわゆる」清貧な(?) 自炊生活には不自由していないし,むしろ満足しているのです.しかし,ホンキで「何事か」を始めようとすると,それなりのまとまった研究資金がいるので,そのわずかばかりの資金をなんとか,できれば老後資金に影響を与えないのようなカタチで,掻き集めようとして,かえって四苦八苦している,つまり世界資本主義の動向に一喜一憂している,というのが実情なんです.
アメリカでは,どんな大学も,規模の大小こそあれ,投資行為をしています.いわば「大学ファンド」を作って,その「上がり」で研究しています.その大本がNSF(National Science Fund)です.そこで私も小規模ながら,その真似をして「(私設)研究室ファンド」というのを作って運用しようとしているわけです.それが成功するかしないか,で研究を継続できるかできないか,が決まるわけですから,ある意味では,とにかく研究を続けたい一心の私だって,それなりに「一所懸命」なわけです.老後ファンド=研究ファンドで,そこから少しずつでも収入があれば,ということで始めたのでした.まだまだ修行も辛抱もたりないから,これからも延々と苦労が続くのでしょう.
サン・シモン『産業主義者の教理問答』にも詳細に注釈をつけました.彼がいうのは,まさに「永久革命の理想」つまり社会の平和的な「改・善」です.いかに犠牲を払わずに,古代・中世的「無知と貧困と野蛮」を克服して,自由・平等・友愛・平和な,わがいうところの世界自由市民社会へと進化せしめうるか,のそのシナオリの検討です.こうした夢が現代にカタチになれば,ホントにいいのですが.
今は,三枝博音(サイグサヒロト,戦前に「唯物論研究会」を立ち上げた一人,国鉄の鶴見事故で死亡)の残した『技術の哲学』に倣って,わが「自然学およびメタ自然学(すなわち自然の弁証法)」を包摂した「現代技術システム論」をものしてやろう,という「元・気」というか,世間的にいえばただただ執念というか妄執というべきか,だけでなんとかやっております.ホントの「終り」がようやく見えたか,と思ったら,それはまた「はじまり」だった,の繰り返しでもう3年が経ち,4年目も終りつつあります.このまま一生陽の目を見ない覚悟でわたしは「老いたるモグラ」を名のることにいたしましょう.
自然の本性を探究し,ヒトの「魂」を純化する仕事は,いつかはキット役に立つだろうと研究する当人は信じてやっていますが,すぐには役にたたず,そして長期にわたります.自力で,細々と,しかし粘り強くやるしかありません.
古代ではアリストテレスは62才で,「書きながら」死に,近代ではヘーゲルは61才で,コレラに罹って死にました.マルクスは妻に先ただれてショックを受けたかその後2年後65才で,書斎の椅子で眠るように死んだ,といわれています.彼の『資本論』は未完の草稿として残されて,エンゲルスの努力によって出版されました.そのエンゲルスも『資本論』第3巻を仕上げて1年後の75才で亡命の地ロンドンで死に,『自然の弁証法』を未完に残しました.なお,エンゲルスの遺骨は散骨されて,そのお墓はありません.とまぁ,先人たちの死についても,イロイロと考えられる歳になった,ということでございます.
エンゲルスとても社会主義も,共産主義も,むろん「自然の弁証法」も含めて,それらは時代に制約された彼らの「未完の理想」にすぎないのです.それらをあたかも「神のごとく」「完成された,永遠の理想のごとく」に棚上げし,祭り上げてしまったことによって,大きな混乱が生じてしまいました.ほんらいからいえば,後世は,そうした知的遺産を,よりよく完成すべく努力しなければならなかったはずなのにね.そうなると,わたしもそうそうノンピリともしていられないような気がしております.
というわけでわたしは今,ほとんど,自然学とメタ自然学そして技術システム論を1セットにしたものに「だけ」に興味があり,なんとか生きているうちにヒトと自然との対話のための,よき「道具(オルガノン)」を作り上げたい,と思っております.凡人としてのわたしに残された時間はそう多くはないのですから.
ただその一方で,2500年前でも,プラトンとゴータマ・ブッタはなんと80才まで生きたというし,日本人の平均寿命はそれよりも長いから,それくらいまでだったら何とかなるのではないか,とも思うのであります.
人間の人間による人間のための自然(科)学へ 今では全くのお笑い草かもしれませんが,私は40数年前の学生時代に,「人間の人間による人間ための科学」を主張しました.現代の物理学(physics)は専門化し細分化され,それとはほど遠いものになっていますが,しかしその起源は,自然学(physics,ピュシス=([ギ]自然)のロゴスの探究)であり,メタ自然学(meta-physics,自然のロゴスの探究の歴史の探究,つまり自然学史,あるいは自然学誌の探究)であったのです.この伝統は,ヨーロッパ中世においても,近代においても,ヘーゲルに至るまで,自然の哲学(philosophiae naturalis)として引き継がれています.ニュートンの有名な「プリンキピア」も,その正式な題名は,「自然の哲学の数学的原理(principia mathematica philosophiae naturalis)」というのです.
そうした伝統を切り捨てておいて,単なる専門バカ(ごめんなさい)の養成に邁進してきたのが,戦前の「帝国」大学だったのではなかったでしょうか.それを人間の人間による人間のための大学,あるいは市民の市民による市民のためのアカデメイアに<する>ためには,当時の非力なわたしたちは一体,どうすればよかったのでしょうか.
とはいうものの,時代を恨むこともありません.わたしたちはわたしたちを取り囲むより巨大な自然の一部であって,それ以外では全くなく,この自然から去ることもなければ消滅することもないのでした.私たちは,不去不来,不一不異,不増不減,不垢不浄,つまりこの自然の一部として止まり続けるのみなのであって,よく・存在し,よく・進化し続ける,その他に,何を目標に「よく・生きる」ことができるのでしょう.かくは御質問に答えるかたちで,メタ自然学研究室のHPの<はじめに>あるいは導入部分(入門,introduction)を書けただけでも幸であったとしなければなりますまい.
今,HPのこと,HTMLのこと,Wordのこと,イロイロ勉強し直しています.30年前のSE修行時代に戻った気分です.この間の進歩はやはり大きく,フォローしていたつもりですが,自分一人でやるとなるとなかなか大変です.
それに,広義の自然学というと,素粒子論から宇宙論まで,その中間の生物学,人間論,社会学,そして「産業システム」論から「技術システム」論までを含みますから,これはホントに一生をかけても完成するかしないかの大仕事だと思います.ただ,5年間,という一応の目標を決めたのですから,来年度中の一応の完成を目指して,もう一踏ん張りしてみたいと思っています.
わたしたちは,この善き自然の内なる<善きもの>として,その<善きあり方>を求める限りは,つまり「よく・生きよう」とするならば,私たちがその構成要素であるところの社会の,その存続条件であるところの,社会正義の問題,を決して避けては通れません.とりわけ,正義と友愛の原理は,ヒト社会システムのうち,その「産業システム」においては「安全性と効率性」という表現をとるのです.むろん,効率性よりは安全性が先行します.工事現場の標語によくあるように「安全こそ全てに優先する」なのです.チャレンジャー事故が示したように,福島原発事故が示したように,「安全性なくして効率性はありえない」のです.
もう「後の祭」ですが,今回の原発事故だって,「安全性神話」に寄り掛かったり「金で議論を封じ込めたり」してしまうのではなく,もうちょっと「念には念を入れて」もっと「社会的資源(資本)」をキチンと注ぎ込んでおけば,こんな重大事故にならなかったはずです.社会的資源(富)を,正義と友愛の原理の実現する方向へ,つまり社会の「安全性と効率性」のさらなる向上ために使うこと,それこそが資本「主義」克服の道ではないでしょうか.
とにかくなんとか全論証を終え,HPを完成させたいもの,とわたしは思っています.この「大仕事」がホントに終ったら,小さな果樹園でも作って,蜜蜂でも飼いながら,ひっそりと住みたいものです.それが私の生涯の夢のまた見果てぬ夢です.