「エピクロスの園」の現実
ギリシア古代において,プラトン,アリストテレスの書いたものが,この間2500年,とにもかくも残ったのは,彼らがアカデメイアとかリュケイオンとかの,当時としてはかなり大規模な,しかもアテネのお金持ちの息子たちを -彼らに自由市民として不可欠な知識教養を与えるために- 教育する「学校」つまり「自然や自然のロゴスを探究し,そのことによって自由人としての人格を陶冶する共同体」を経営し維持し,またそれを主宰することができるほどの財力があったからです.プラトンはアテネの名門出で,一族は当時の支配的市民階級に属していました.アリストテレスの父はマケドニア王の侍医で,多分,当時としては大金持ちの部類だったでしょう.彼らは,奴隷や解放奴隷を使って,結局,彼らに地道な研究をさせて,その成果を,モノに書いたり人びとに講演したりしていればよかったのです.
仏教だって同じこと.彼らは幸運にも,アショーカ王の庇護を得ることによって,何とか生き残ることができたのです.
それに比して,「エピクロスの園」といったふうに,個人や少数の友人たちとで細々と著作をしていただけの人びともいました.しかし,そうした人びとの書いたものは体系的ではなく,したがって伝承されもせず,結局は,ほとんど残っていないのです.
当方,富山に帰ってきて,もう4年が経とうとしています.某研究所では,PETの画像再構成処理から始めて,情報処理メーカーでは,人工衛星の軌道決定から始まって,スペース・プレーンの航法・誘導・制御シミュレーションなど,最後は「病気とたたかうIT」を標榜して「ゲノム医療」実現のためのシステム作りをしていました.某研究所では,トランスレーショナル・リサーチ(実験医療)・センターを作るという触れ込みでしたが,結局は,プロジェクトは消滅しました.要は,IT関係の仕事で,結局,一人の労働者・技術者としての(半)生涯,というわけでした.
ある程度覚悟はしていたことなので,こうなったらホントのライフ・ワークに専念しよう,というわけで今は,私設「メタ自然学研究室」を作って,というかデッチあげて,「自然学およびメタ自然学」の研究を標榜し,とりあえずは,エンゲルス『自然の弁証法』の続編というか現代版を作ることを目標にしています.研究者時代に,アイゲン(M. Eigen)という人の始めたハイパーサイクル(Hypercycle)という概念を発見,昔からパートランド・ラッセル(B. Russell)が言いだした論理的原子論というのを知っていたので,これとの組合せが「ひょっとして」自然の「究極の」原理かもしれない,と思ってそれこそ「必死」で調べてみたら,「大当たり(と私は思っています)」.これで,わが青春の書であるエンゲルス『自然の弁証法』の続編がようやく書ける,と.
さて,ようやくエンゲルス『自然の弁証法』の「続編」となるべき膨大な草稿が出来上がりました.やり尽くすしかない,とは思っていますが,さて,研究者時代の退職金もとっくになくなったし,いつまで研究資金がもつのかなぁ.
武士の興りは,一所懸命の地,つまり一族のイノチ(生計)がそこに懸かっている場所を,イノチをかけて守ることから,生態系にはよくある「縄張り」意識から,というのですが,ホントかしら.今回の大地震大津波のような大きな災厄の場合には,一所懸命はかえって危険きわまりないので,なりふり構わず,まず逃げることが先だ,と思うのです.
今時のアメリカン・ドリームは,ベンチャーを立ち上げて,当てたら大資本にそれを高く売り払って,次のネタを捜すか,悠々自適か,なんだそうな.資本のロゴス(富がヒトを食う)を克服するような,逆に大資本を食い物にするような,要は,資本主義を「活・用」することかできるような,逞しい「生活の知恵」が必要なのでしょうがね.
アカデメイアだって経営を必要とします.その経営の要は,経理と人事,でしょう.そこに余程「よい人」むしろ「厳しい人」がいないと,いくら経営者に「高邁な夢」があったところで,うまくいかないだろう.その経理と人事にとって,私のやっていることなど,とりわけ「自由・平等・友愛」などは,目の上のタンコブ,にすぎますまい.私は経営者にも起業者にもなれませいでした.なるつもりもなかったしね.
組織体は,結局は,人事の公平性,経理の正確性,そして経営者の理念,によって存続するのです.正義(分配の公平性)と理念(存続の目標),そして組織体としての存在(活・動性)を記述するその「数・量」記述の正確性,による.会計学の基本も,実は,自然のロゴスによるのです.
食品会社では,これに食品の安全性がつけ加わりましょう.食の安全性の確保,それが食品会社としての第一の存続条件でしょう.ですから,その経営者が,ゴキブリ退治,清掃,から入るのは「正解」でしょう.