浜辺の詩(うた)
–あした浜辺をさまよえば-
漁師である祖父が建てたわたしの生家は,建ったときには海辺にあり裏手から出るとそのまま砂浜で海に続いていた,といいます.それは耕す土地があるような人は,まず住まないだろう場所であり,古い街道沿いに細長く広がった無産の漁師たちが作った町並みの一角,だったのです.
その港町には,純和風のつまり平底の笹舟は,運河にある古いもの以外には払底していました.今はもうプラスチック作りのものだけになっていますが,当時はまだ木造だった機帆船は,非常時には和風の伝馬船と同様に平櫓で漕ぐことができるようにできていましたが,それには西洋船と同様に龍骨がありました.継ぎ目はウルシではなくニカワを詰めていたと思います.和洋折衷です.これもまた,日本型混血文化文明の一種だったのかもしれません.
子どもの頃,小学校低学年の時のことだったと思うが,その古い笹舟に乗って遊んでいたら,それが傾いて水の中へ落ちました.目の前が一面緑色になったところまではおぼえていますが,ふと気がついたら家で寝ていました.年長の誰かが助けて家まで連れてきてくれたらしいのです.そこで助けられていなければ,そのまま,この世にはいなかったことだろうし,こうした思い出話をノンビリとしてはいますまい.子どもの頃って,こうした水の事故が,結構ありましたよね.今だとホントに大ニュースになるところだったでしょうが.
漁師の孫が船から落ちて溺れるようじゃ,こりゃいかん,ということで,急遽,父に水泳の特訓をやらされました.特訓といっても,父は山家育ちで,わたしに教えるほど泳げるわけじゃなかったのです.それで,子どもでは足の届かないちょっとした「深み」へ連れていかれて,放り出される,こっちは必死で父にとりすがろうとします.その繰り返しです.そのうちに不思議にコツ –その要とは,水を恐れずに,水に頭がつけられて,しかも,その状態で呼吸がちゃんとできることにすぎませんが- を覚えて,フッと体が浮くような,「水に乗る」ともいえるような体験をします.そうなるとカッパがその頭の「皿」に水を得たような感じで,スイスイと泳げるようになるのです.
「裸のサル」としてのヒトは,泳ぐサルでもあった,といわれます.湖や海で,魚介類がとれればエサにはまず不自由はしません.牧畜や農耕の前には,水辺での採集があったのではないでしょうか.また泳ぐことさえできれば,採集は格段に楽になるでしょう.結局,うまく泳ぐことができるために,その体毛を失うことになったのだという説があります.そうした進化の過程での「原・体験」が,「行動の構造」として,私たちのカラダのどこかに潜んでいるのかもしれません.
いつだって人びとには,たとえわれら庶民にだって「賢慮と節度と勇気(気概)」という古代から中世において連綿たる徳すなわち「生活の知恵」があるのです.しかし,それは「無知(=迷信に支配されること)と貧困(=生活の堅実性あるいは節度の喪失)と野蛮(=気概の方向の誤り,怒りの暴発)」それは「こども心」あるいは「幼児性」の「悪しき側面」とは紙一重にくっついたものだった,ということです.迷信から自由になること,堅実な生活,気概の方向を誤らぬこと(怒りを暴発させぬこと),それが「ヒトの幼児性の悪しき側面」である「無知と貧困と野蛮と」を制御することができて,ヒトがようやく大人になる,ということであって,それが「啓・蒙」と呼ばれるのです.
明治はおろか大正,昭和の戦前にいたるまで,われら庶民はいわゆる豊かさとはまだまだご縁がありませんでした.田舎の山道には,父がそこに住んでいた「日本昔ばなし」にでもそのまま出て来そうな茅葺き屋根の小さな廃屋がまだありました.板窓でそれを閉じると内部は真っ暗になります.間取りといえば,土間と,囲炉裏のある土間と,仏間と,それしかありません.そこに一家6人が雑魚寝していたのです.父はそこから堅実に育って,京都に丁稚奉公に出た,ということでした.文字通りの「無知と貧困と野蛮」と紙一重な環境にいながら,なんとか踏み止まって健全によく生き得たこと,それこそが庶民の「生活の知恵」だった,ってことです.
漁師の祖父は,学校嫌いだったか授業料(昔は義務教育でさえも無償ではなかったのです)を払うのが厭だったとかで,少年の時から船にのっていました.その祖父と祖母には,5人も女の子があって,その末っ子が私の母です.上の娘たちは貧乏暮しがいやでみんな家を飛び出してしまったそうです.私の母だけが大人しく婿をとりました.それが当時鋳物工だった父です.当時は造船会社に勤めていて,はじめて一家は一息ついたのでした.母は米櫃にいつも米が絶えないことを誇りにしていて,中の下の生活ができる,と喜んでいました.しかし,貧富の格差は当時もやはりあったのです.道の北側には商家の大店が並び,道の南側は普通のしもたやや小店が並んでいました.北側の家のほうが商品が日焼けしないで日持ちするので,商家には向いていたのでした.私の家の北側の住民,とくに明治生れの堪え性のない年寄りなどは,「この貧乏人が」と南側に住む人びとを公然と罵ったといいますが,今ではとても考えられないことですね.
家の近くの尼寺の裏手には,義民塚というのがありました.漁民の代表が領主に直訴して,首を切られたという,その首塚です.これは史実です.「生活の知恵」は,それこそ「無知と貧困と野蛮」と紙一重の節度と忍耐とで隔てられていただけですから,それが我慢の限度を超えると,一揆や強訴,逃散,というカタチで暴発してしまうのです.文明開化で四民平等といわれた明治時代にも,実は,江戸時代より多くの一揆があったのでした.こうした第2次世界大戦前の日本の風土をもってして,「日本の穏やかな生活」やら「民度の高さ」などとはお世辞にも記述できまい,と思うのですよ.
日本がお手本にしたはずの近代のヨーロッパにだって,多くの悲惨が存在しました.ロンドンではアイルランドからの大量の移民が入りこんでスラムを作っていました.彼らはブタと一緒に寝起きしていました.それが当時の都市の労働者の生活習慣だったわけで,そうした状況から見れば,日本人はよほど清潔好きだ,ということにあいなった次第でしょう.彼らが直接に見た日本,そして日本文化とは,せいぜいが,芸者置き場とその周辺の料亭とか,いわゆる富が集まるところ,にすぎますまい.彼らの目に映った「古きよき日本」たって,その程度の皮相的なものでしょう.
わたしは,一刻も早く,こうした馬鹿げた状況が過去のことになってほしい,2度と繰り返してはならないことである,と思っていますので,あえて過去の暗い話を蒸し返した次第でした.不愉快な話でごめんなさい.
さて,日本ってば,木と紙からできた家が多いでしょ.だから,集団生活をしようとすれば,一番恐れなければならないのが「火の用心」です.とくに,人びとが棟続きで住む港町では,昭和初期に大火があり,その記憶がまだ生々しかったので,特に「火の用心」だけは至上命令でした.そうした環境では,夜回りだの自警団だのと駆り出されて,近所づきあいも中々大変です.
結局,どうしも相互監視の管理社会が生れてしまうのでした.それをまた「お上」とやらがさらに「自治」組織としてそのまま「悪・用」するわけで,どうしても「日本的な」保守的な土地柄,家のつきあいをなによりも大事にする,を作ってしまうのです.それを「居心地がいい」などと感じられるのは,自己管理責任が全くない,ほとんど子どものうちだけでしょう.
そうした環境に育ったものですから,文化的なものには殆ど縁がありませんでした.しかし,文字や文化とは無縁だったはずの祖父も,ささやかな絵画を求めてきて家を飾ろうとしました.英一蝶の浮世絵が屏風に貼ってあったりしました.ひとはどんな境遇にあっても美しいもの,感性においてよきもの,を求める自然な心をもっているのではないでしょうか.
わたしの「子ども心」にとっては鳥獣戯画なんかがとてもいいと思ったし,蕪村などの文人画なんかもいいと思いました.後に東京に出てからのことですが,国立博物館は学生証を見せるとタダで入れたから暇があると行きました.雪舟はむろん,大雅や等伯,竹田なんかもやはりいいと思いました.「日本人の感性」といわれると,私にはどうしても水墨画で,そうした人びとの絵が想い浮ぶのです.
浮世絵というと,それらの廉価版であり,商業的な大量印刷による大衆化でしょう.大衆化が悪いとか,町人文化だから価値が低いとかいうのではなく,大いに結構です.しかし,それをあたかも「日本人の感性」の本流であるかのように「祭り上げる」のがチョット変だな,と思うのです.