生活の知恵=自然の技術システム
-自然と共によく生きるために-
森は「守り」で,林は「生やし」だそうですよ.つまり守るべき自然の領域を聖域化して「魂の故郷」として保存しつつ,利用すべき自然のみを「生活の場」とした,ということでしょうね.古代から,自然と・共に・よく・生きる,それが生活の知恵だったのです.
多弁のドクダミ,色変わりのドクダミ,って,ヒトがそれを珍しがって,あまり(いわゆる「雑草」としては)駆除しないから,(繁殖力が弱いにもかかわらず)なんとか生き延びているんじゃないかしら.栽培植物,庭木,園芸植物などは,長年にわたってヒトによって選別されて生き延びてきたのですし.これもまた,ヒトと植物の共生のカタチ,でしょう.
富山にきてから,一時,漢方のことを調べる機会がありました.中世のいわゆる漢方学者連中の言うことの大部分は人びとの「自然信仰」をエサにしたインチキでしょうが,その漢方にもたまに「よきもの」があるとしたらその基礎は,長年にわたって経験されてきたが今は次第に忘れられつつあるような,ヒトと植物たちとの「共生のロゴス」つまり人びとの生活の知恵,ともいうべきものでしょうし,それはそれで大事にしなくっちゃね.
山菜や野生の果実の採取も昔は重要な生活の知恵だったことでしょう.マタタビの実,グミの実も,大量には採れないからでしょうが,ジャムにしたものが結構高く売られていたのを見たことがあります.
ようやくNIH(National Institute of Health)でも,野菜を推賞するようになりました.NIHの推賞する日常的に摂取してよい野菜の筆頭が「セロリとニンニク」です.これを入れた野菜スープを毎日採るようにしています.
Natural Medicineいわゆる自然薬品が流行りですが,そうした自然との共生の意識的な「はじまり」は,やはりギリシア古代,ヒポクラテスの時代からのことです.原子論者デモクリトスと医聖と呼ばれたヒポクラテスとの対話,が残されています.これをいつかは小説に仕立ててやろう,と思って,訳と注釈は,既に準備してあるのですが.
ヒポクラテスが発見した自然治癒力,それは「医食同源」の様相でもあります.漢方はその大半がインチキだと思われやすいが,その根源である「医食同源」だけは間違ってはいません.NIH(National Institute of Health) でさえ,毎日の野菜食を勧めるようになってきました.その筆頭がニンニク,セロリ.朝のスープは,これに,タマネギ,シイタケ,ニンジン,ジャガイモ,それに少々のベーコンとソーセージ.デザートとして,ヨーグルトとフルーツは欠かさずに.
山菜もキノコも,結局はキキンの時の非常食だったのです.沢山とって,塩漬けなんかにしておくから,高血圧になる,ということを忘れずに.近頃は冷凍庫があるから,ホンキで食べようとするのなら,安全な保存法,健康な調理法までを,十分研究しなくっちゃいけません.無産労働者は健康だけが,その財産ですから,「安全第一・健康第一」でいかねばなりません.
漢方は,自然治癒力を利用した古代医学の,中国での発展形態ですが,ずいぶんインチキも混じっていますから気をつけましょう.過剰な摂取は危険です.不老不死の仙薬や仙丹とやらに含まれる「砒素」の中毒で皇帝がバタバタ死んだのは有名な話です.要は,「無毒性」=「無危害性」が確認されているもの,を採るようにしましょう.相互無危害性こそ,自然とうまくつきあうための,最低限のマナーであり,「よき・生き方」の基本,というわけです.
麸=グルテン,それは形状,デザインだけでなく,味やそこに混入する素材次第で,おもしろいモノに化けるかもね.たとえば,ハーブやスパイス,果実粒,ちょっと変わったところでは(味のよい)漢方などを混入して,自然素材で味付けしたトッピンクにするとか.食品は,第一に安全性,そして栄養,味,最後が見た目での色・カタチでしょうね.
医食同源が明確に知られ始めた今,ハーブやスパイス,漢方は,もうニッチではないです.大手食品会社,そして薬品会社が,販路拡大を虎視眈々と狙っている分野です.中小にとっては,厳しい競合もあるかもしないが,よい取引関係も出てくるかもしれません.
しかし漢方が,いわゆる未病者(健常者と病者の中間)に効くといわれるのも,それを毎日規則正しく忘れないように心がけて飲む,といったリズム感のある生活ができるからでしょう.プラシーボ(偽薬)効果といって,ヒトは,適切なケアを受けている,という意識によって病気を(むろん,ある程度は,のことですが)「自然に」直すことができる,自己治癒能力をもっているのです.「気」の病,あるいは,病は「気」から,とは,よくいったもの.インチキ漢方,とくに高いだけのシロモノ(高いから効く,という「迷信」を利用しているだけのもの)にはよく注意のこと.
血圧を下げるには,薬に依存するよりは,まず「適度な運動」です.牛乳を飲む人より牛乳を配達する人のほうが健康で長生きする,といわれる所以です.あとは早寝早起き,そして多種の野菜をとること.これは便通とかにきいて,要は,規則正しい生活,節度ある生活が一番,というわけですね.
道元の書いた『典座教訓』だったかに,中国に留学した道元の乗った船が,中国の仁寧だったか,という港について停泊していた時のことです.その船に,老禅僧 −老「典座」(テンゾ)って,「食堂」(ジキドウ)を差配する僧のこと,コック長とでもいうのか- が椎茸を買いにきた,2,3日後,その僧の寺院にいくと,せっせとシイタケの天日乾しを作っていたのに出会います.老僧がワザワザこんなことをしなくても,というと,これこそが修行であり悟りへの道だ,と一喝を食らう,といった話が載っています.
当時の禅寺は自給自足だったのです.一日なさざれば一日食らわず,だったのです.「自・活」するにおいては,食の充実こそは悟りのモト,というわけでしょうね.
「方宅十余畆,堂宇七八間,楡柳軒に倚れり」とは,陶淵明の帰去来の辞にある文句ですが,調べてみたら,方形の土地で「十余畆」って,10アールくらいです,こりゃ結構広いですよ.その中に7,8間のお堂というか家というか,これも結構広い住居があって,その周囲に楡の木や柳があって,それが軒端に触れんばかり,という風景です.現代は,夢のまた夢でしょうが,田舎の山の中だったら,そういった暮らしが実際にできるのかもしれませんね.むろん,わが「自然学,メタ自然学,技術システム論」の3セットの完成の暁には,「志を果たして」の後の話.それに「先立つもの」も必要だし.
わたしの場合,こちらに越してきた当座は,日々約6時間の「読み・書き・ソロバン」のお勉強以外は,3度3度の炊事,洗濯,掃除だけが日課だったので,これじゃいかん,と1時間の散歩を始めました.近くに,比較的大きな公園があって助かりました.
しかし,冬場はホントに一面の雪野原で,道がなくなってしまうのです.登山靴を買って踏破しよう,とやったがすぐ息が上がってしまうし,体力低下を実感しました.これじゃいかんなぁ,せめて里山歩きでも始めるか,と思い立ちました.そうなると欲が出てくる.都会(横浜)ではすでに,里山は公園みたいに駐車場や遊歩道が整備されていて,車で行って歩き回れるようになっています.休日は駐車場が満杯になるくらい.
都会のように直接車で行って近辺を歩き回ろうにも,この富山の保守的な土地柄では,真っ先に竹の子盗人とでも間違えられてしまうでしょう.熊やイノシシと「間違えられて」(ホントかなぁ)撃ち殺されてもつまらない(「猟友会」とやらの,ヤクザまがいの野蛮な連中が多い都市近郊では,そうした「事件」が時々だがホントにある)し,亡き叔父の家の近傍にでも,小さな桃源郷のための「基地」でも作れないか,と考えたましが,そうなるとやはり,資本主義の世の中だから「先立つもの」が問題になりますね.
横浜でもウッド・デッキを苦労して手作りしりしたのですよ.しかし5年ほどしたら,早速にシロアリが巣喰い始めました.ステインとかいう防腐剤を含んだものを塗ってもまるでダメ.殺虫剤までは使いたくないので放置しました.10年経って家を塗り替えるのに邪魔だというので,完全に取っ払ってしまいました.作るのは大変だが,取っ払うのは,丸鋸で,1日でできてしまいました.今は便利な機械があるので,足腰さえ丈夫なら,そしてあとは「ちょっとの金さえあれば」田舎暮らしもそんなに大変じゃないんじゃないか,とその時思ったのですが,慢心だったですね.
昔,「ネンサイ」ゴハンは,お粥にして,食べさせられたことがあります.ウマクない,というより子どもは匂いに敏感だから,結局,外に食べるものが全くなければ別だろうが,とても食べられたものじゃなかったです.お櫃がジャーに変わるまでは,ゴハン炊くのもカマドだったし,大家族(といっても,6人家族)だったし,大量に炊くしかなかったら,結局残った.もったいない,だけでまずくても食べさせられました.
わたしの幼時には,まだ竈で米を炊いていました.そこで作ったオキ(薪の炭化したもの)を炭代わりにして七輪で魚を焼きました.一見おいしそうだが,朝早くから起きて,火おこしからするのですから,これは大変ですよ.
炊飯器ができて,炊事スタイルは完全に変わりました.米も相対的には安くなりました.もともと,国際水準より遥かに高い米食わされて,モッタイナイ,と言っていた面もありましょう.それに,便利なものは,結局無駄がないし,極力使うべきだと思います.
西洋では,魚と卵は,肉食に含まれませんから,それだけをタンパク源とする日本型食生活であれば,ベジタリアンで立派に通用しますね.
昔は,「桶」一般を,そうした腐った部品を取り替えることによって半永久的に,それを使おうとしていたのです.小学生時代には故郷の港町でも「風呂屋」という看板を見た覚えがあります.それはいわゆる「銭湯(お風呂屋さん)」ではなく,風呂「桶」を設置したり,あるいは桶一般を作ったり,修理したりしていた.ヨーロッパでも,オークでできたワインの「樽」などは,それを修理「再」生して大事に使います.家具一般が,それを古くなったから,などと買い換えるのではなく,修理しながら何代にもわたって「再」生させながら使うものだったのです.それなのに,今の「小」金持ち連中ときては.
これからの最大の問題は,ヒトの使い捨て,でしょう.「自爆テロ」なんかがその最たるものです.ヒトがよく生きることができるためには,相互無危害性および相互善行性原理,自由・平等・友愛,が必要不可欠なのに,多くの人びとを使い捨てにすることによって一部の自己中心主義者だけが肥太るような社会が未だにあります.それこそは,多くの人びとを犠牲にして自らも滅び去る,その所以であることを,とく知ることでしょう.
自然がわたしたちヒトの内に産み育んできた「技術システム」を活用してQOL(生活の質)を向上させ,ヒトとして「よく・生きよう」という,それこそ不退転の意志とよき人生の目標とをもたなければ,「金儲け」をコトとするインチキに振り回され,毒を薬だと吸わされ,ガラクタを宝だと掴まされるだけのことになるでしょうね.
自然とヒトとが相互作用しあう領域では,「あるがまま」じゃ,もうとりかえしがつかないことになっていますよ.たとえば水田をほったらかしに「あるがまま」にしたらどうなります.雑草や害虫が生え放題になって収穫は0になるでしょう.里山の芝刈りや下草刈りをしないなら,荒れ放題になって,栗はおろか,キノコも生えなくなるでしょう.杉山だって間伐しなきゃ,花粉症の巣になるばかりか,木材としても使い物にならなくなるでしょう.
自然の「あるがまま」が自然それ自身の存在にとってすらも,最適であるとは全く限らないのです.生態システムでは,種間の軍拡競争で大量死や大絶滅が「あるがまま」に起ることだってあるのです.自然-ヒトが干渉しあう領域では,ヒトの「善・意」,それこそが自然を,自然・内・ヒトにとって「よきもの」に,美しい,真実な,善いもの,に<する>ことができるのです.
神様トンボが飛び,アマチャズルが生え,ミョウガが顔を出す.それはあなたが水路を浚い,庭を「せっせと手入れ」して,無意識に彼らの生存環境を整備しているからでしょう.あなたがそれを怠ったら,彼らの末路は一体どうなりますでしょうか.
動態の「真の」平衡点って熱的「死」ですよ.生態系は,熱的死状態ではさらさらになくて,太陽エネルギー,自然エネルギーである自由エネルギー(=ネゲントロピー)の不断の「流れ」の供給によって,また生態系自身の「よく・生きよう」とするいわば無意識の「善・意」によって,ようやく維持されているのを忘れないようにしなければなりません.地球生態系とは,太陽からの不断の自由エネルギー供給によって支えられている,巨大な動力学的ハイパーサイクル・システムの存在,なのです.それは「あるがまま」じゃ全く存在しえないのです.現在の生態系は,結果論つまりヒトの「後知恵」として見れば,不断のよきあり方へのいわば「努・力」,動力学的ハイパーサイクル・システムの不断の進化によって,幾多の危機,大絶滅を乗り越えて,現状までようやくに進化し成立してきた,といえるのです.生態系もまた,自然(主として太陽)からの不断のエネルギー供給と,生態系それ自身がもつ「よく・生きよう」とする意志つまり「善・意」によってはじめて成立しえているのです.
とりわけ国際都市,コスモポリスは,多くの人びとの,良心,良識,つまり「よくいきよう」とする「善・意」があるからこそ,ようやく存立しえているのです.さらに国際都市はもう,人力だけではなく,多くの自動機械,多くの人工知能で運用されています.それを「あるがまま」の第二の自然つまり原始的な「無知・貧困・野蛮」のままに,民族間や氏族間や階級間の「血の復讐」のロゴスのままに放置すれば,事故や火事,犯罪やテロは起り放題,ついにはスラム化し,絶滅するだけでしょう.
善を勧めるのはいいけど,「懲悪」つまり「悪を『懲らす』」のは,それが他者への危害を伴うならば,やはりそれも「悪」でしょう.いわゆる正当防衛だって,過剰防衛になってしまえば,それも犯罪になってしまうでしょう.警察が犯罪者を捕え,裁判所がそれに罰を与えるのは,あれも社会悪に対抗するための,社会的な必要「悪」でしかない.だから,デッチアゲ犯罪,なんてトラブルが起きる.
悪行つまりヒトに危害を与えるような行為を,とりわけ意識的にこれをなすことがないこと,むしろ「止・悪」,自らの悪行を「自発的に」止めること,それが無危害行です.勧善だが「懲・悪」つまり「悪」に対して「悪」を報いること,「血の復讐のロゴス」では<ない>こと.これにどんなトラブルも発生しようがないです.
また「離・悪」というのもあります.悪しきもの,つまり危害を与えられそうなものから離れ遠ざかること.子連れの鹿がライオンを警戒して遠ざかるのは,彼が臆病だからではなく,危険を察知する「生活の知恵」があるからでしょう.トラブルを予見してそれから離れる,これならトラブルは発生しないでしょう.あえて自分に危害を与えるものに近づき親しもうとするのは,気概や勇気などではなく,むしろ無知と野蛮ゆえ,ということでしょう.
いかなる場合にもおいても,殺人は,自然法,相互無危害性および相互善行性原理の侵犯であり,明らかに犯罪でしょう.個々の殺人やテロが犯罪ならば,戦争行為もまた犯罪であり基本的人権の侵犯でしょう.いかなる巨大国家といえども,戦争とよばれ不正は糾弾されてしかるべきでしょう.戦勝国であるアメリカ合衆国もまた,人道に対する罪で裁かれるべきだった,それを主張するべきだったのに,それをしなかったのは当時の思想家の明らかな怠慢です.
富山の空襲(わたしの叔母の1家3人が全滅しています)でも,東京大空襲でも,広島・長崎の原爆でも,多くの市民がいわば「大量に虐殺された」のでした.現代でいえば,それは明らかに国際法違反であり,ナチのユダヤ人虐殺と同様な戦争にともなう犯罪です.しかるに,日本人は「これが戦争だ」「国民が,御国がやったことの犠牲になるのはしかたがない」といわば「諦め」させられてきたのではないでしょうか.
そうした事情がはじめて変わったのは,ベトナム戦争における「ソンミ村事件」でした.アメリカ自身が,戦争犯罪で自らを裁いたのでしたから,これこそは「一種の進歩」です.しかしまた,イラクで虚偽の情報によって戦争をはじめ,それによってアメリカ自身が今財政難で苦しんでいます.現代では,軍事独裁,そして戦争行為は,結局は,国家が自らを苦しめ弱体化し滅ぼす道でしかありません.
世の中が不正に向かおうとするときには,まず個としての自らの良心において,それをあくまで拒否することができるような「最小限の自由」がなければなりますまい.ところが,戦前・戦中の「恥の文化」の中では,そんなことを言えば,明らかに徴兵を拒否したり戦争に反対したりすれば,アカだの非国民だのと,それこそ「恥ずかしめられた」でしょう.それが「恥の文化」が行き着いたところの,国家「主義」でした.真に恥じ入るべきなのは,自己の良心に反する行動をしたとき,それ以外には<全く・ない>はずでしょうに.
理想は,まず,個々の良心にしたがって,正義と友愛の原理つまり良心において,行動できる自由があること,それが結局,多くの人のためになること,そしてついにはそれが世のためになることでしょう.中国ですらも,まず,身を修めよ,次いで,家を斉(ひとしく)し,そこではじめて国治まり,天下は平らかになろう,というではありませんか.世のために平和を求めようとすれば,自らの内なる自然のロゴス,相互無危害性および相互善行性原理に,自由・平等・友愛そして平和の法に,依るべし,でしょう.