清貧の思想

-回や,一箪の食,一瓢の飲,陋巷にあり-

 

孔子の愛弟子に,顔回というのがいて,一桝の米と一杯の水とで,場末に暮らしながら,学問に励んでいたといいます.彼は結局,ライ病,いまでいえばハンセン氏病にかかって早死にして,そまつな棺桶で葬られただけであった,といいます.彼は,清貧の中の聖人として,学者の理想とされているのですが,そんな人って,ホントにいたのかなぁ,と疑問に思います.昔はごもっともさま,と思っていたが今は,後世のフィクション,のように思えてならないのです.

わたしもまた,清貧にして平凡な,陶淵明の詩にあるような,いわゆる「晴耕雨読な生活」に憧れていました.しかし,「理想郷」すなわち「桃源郷」に住み終えたはずの陶淵明だが,その詩を読みますと,そうした隠逸生活にはやはり心理的な「影」がつきまとうようです.たとえば,

花薬 分かれ列び       花や薬草が整然と咲き並び

林竹 翳如たり         竹林が鬱蒼とした影を落とし

清琴 牀に横たえ       清らかな音色のする琴は床に放り出してあって

濁酒 壺に半ばなり     飲みさしの酒がまだ壺に残っている

黄唐 逮ぶ莫し         黄帝や尭舜の昔の理想郷へはもう帰るわけにもいかず

慨きは獨り余れに在り  ただ独りで世の中の矛盾を嘆いているばかり

とあるように,理想的な,清貧な,隠逸生活をしているその真只中にも,突如として,悲憤慷慨の気,は襲ってくるのです.

昔の人って,よき未来を過去に実際に「あった」ものとして,それが復活することを「希望」していたらしいのです.「よき・未来」とは,むしろこの現在を「よく・変える」ことによってのみつくり出すことができる,そのことを知らなかったのではないでしょうか.「昔はよかった」式の「単なる幻想」はもうキッパリと捨てることです.

「陶淵明伝」によると,「曾祖の侃(カン)は晋の大司馬なり」だそうで,大司馬といえば,軍政の長で,帝国の要だから,陶淵明の父祖は大貴族だった.その末裔が,下級役人にしかなれず,そうした下級役人からのし上がることもできず,かといって下積み生活にも耐えきれず,鬱屈した思いを抱いて田園に隠棲して,琴や書そして詩作をその趣味とするわけです.やはり,満たされぬ思いが残ってしまうのでしょうね.

桃源郷のモトになった『桃花源記』の著者である陶淵明と切り離せないのがお酒です.古代地中海地方では,蒸留酒というものはなくて,葡萄酒を,しかも「水で割って」飲んでいたらしいですよ.古代の水の概念というのは,現代でいう液体のこと一般で,水とは,火(=魂,イノチ)を養うことができる,生命活動を支える「養分」である,と考えられたのです.

ただし,アルコールの「al」はアラビア起源です.蒸留酒は,ブランデーなども含めて,その製法は全て,アラビアからの伝来です.ギリシア自然学は,中世にはアラビアに根付き,そこを経てヨーロッパに「再」輸入されたのです.

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