-故郷としての里山-
袖ひぢて結びし水の薄氷 春立つ今日の風やとくらむ
立春もすぎてからまた雪が降ったりして,寒い日が続き,やはり雪国ですね.その後お変わりありませんか?
わたしには二つの原点というかココロの故郷があって,その一つは里山,もうひとつは浜辺でした.二つとも地名に「寺」がついていますが,これは偶然ではなくて,中世において本願「寺」の支配下にあったとき,寺領であることを示すために地名に「寺」をつけたのがそのまま残ったのでしょう.本願「寺」領となると領主も手を出しにくいだろう,というわけです.
わたしの父の生家は里山にありました.今は産廃投棄によって壊滅状態でしょうが,わたしだけが訪れることができる,と当時は思っていた小さな「秘密の沢」がありました.それはコナラやミズナラの樹間にあって,緑苔に覆われた丸石の間を清冽な水が流れ,アブラハヤが泳ぎまわり,オハグロトンポがヒラヒラと舞っていました.
棚田では,米よりも,多くは菅を作っていました.沢から棚田に直接引く水が冷たいので,お米の収量が少なく,菅で菅笠を作るほうが昔は割がよかったらしいのです.今も特産品として菅笠を作って売っています.若い頃,叔母に無心をして菅笠を作ってもらったのですが,忘れて取りにいきませんでした.叔母は律儀にもそれを作って待っていてくれていて,少なくとも2,3年は壁にかかっていたそうですが,誰かが使ったのか,そのうちに無くなってしまっていた,との,これはイトコから聴いた話です.
お米は良質のものがとれました.母は父がお土産にもらってくる米を「キトキト」といって褒めていました.米はいわゆる「完全食品」で,それ(玄米)ばっかり食べていても(少量の味噌や雑穀,野菜なども必要でしょうが)なんとか生き延びることができるそうです.日本でこれだけ,封建時代に4公6民だの5公5民だのと「搾取」されていても,なんとか人口が保てた(「間引き」とか「ヒト買い」だのといろいろあったが)のは,いちおうは平和だったことと,お米の「おかげさま」だったのでしょうね.