インチキ科学やインチキ宗教は,自然の存在の歴史をも偽造する.

 

下手すりゃ,手厳しくいえば,年寄りの遊びってば,それこそ「単なる浪費」,「単なる社会的寄生」,果ては自分の独善的な生き方を社会全体に強制するような「単なる老害」でしかない場合だってあるでしょう.何が社会的な価値<ある>ものであろうか,何が美で何が真で何が善であろうか,いかにすれば美なるもの,真なるもの,善なるものだけを,この世に残すことができるだろうか,それこそは年寄り社会,高齢化社会,にいわば突入しつあるわれわれが真剣に「分・別」しなければならないことでしょう.ホントの,自らの人生との真剣勝負は,自らが宿すところの「無知と貧困と野蛮」との「たたかい」は,たぶんこれからのことでしょう.

現代情報化文明が,過去の石器文明が創り出したものをコピーするのはきわめて簡単だ,今や歴史の捏造はきわめて簡単にできてしまう,ということを忘れないでほしいだけです.単なる無邪気が,欲まみれの「悪意」に汚染されているのを見るのは,やはり悲しいものですから.

自然学はまだヒトの「迷信」が作り出してきたインチキ事件や捏造事件に取り囲まれています.まさに四面楚歌状態なのです.自然のロゴスは単純でそれこそ美しいのに,それをことさら歪曲して複雑怪奇な醜いものにしてしまう輩が,跡を断たないのです.

古来,アトランティスやらムー大陸やらの「黄金伝説」が史実と勘違いされて大規模な探検隊さえ組織されさえもしたのです.クックの3回にわたる太平洋探検だって,実は,太平洋の真ん中に「巨大大陸」があるというシツコク蒸し返される「噂」の真偽を確かめるものだったのです.

近代科学にも迷信はつきまといました.骨相学やら心霊学やらがそうです.進化論で有名なウォレスが心霊術師にコロッと騙されてしまったのは有名な話で,これはエンゲルスの『自然の弁証法』にさえ「ごく真面目に」取り上げられて批判されています.

今もなお,東大の安田講堂の裏には目立たないごく小さな石碑が残っていて,それは当時の「神がかり事件」の解明をした当時の理学部長の顕彰するものです.それほどにもインチキ宗教は明治時代から跋扈していました.当時の迷信とは,近代科学がそれを撲滅することをその仕事の一つにしなければならないほどの根強いものだった,ということです.

現実にだって,現代にだって未だに,インチキ宗教も,インチキ科学だって,厳然と実在します.某研究所で私の同僚だった人が「気」の研究を始めました.研究の自由があるから誰もそれを止められません.どこからかわかりませんが研究費がつきます.そうすると若い人が雇えます.その若い人こそいい迷惑で,いろいろと実験するのだが,結局,既知の自然法則以外の何が出てくるわけでもありません.自然にはいかなる神秘も不可思議もない,それこそありのまま,あたえまえ,そのまんま,なのですから.結局は,その一生が台無しになるだけです.当人は全くそれに気づかないのですから,ことさらヒドイ話です.

 

「学会」といわれる場所にもインチキは実在します.一時流行って廃れた多元宇宙論などがまた蒸し返されて,今なお平気でもっともらしく論じられています.当人はホンキだから,回りがどんなに言ったって,ますます自分の殻に閉じこもってしまう.これこそ悪循環でしょう.

 

わたしが見た玉器はどうしたって近代以後のものでしょう.それを新石器時代,6000年前のエジプト文明だ,紅山文化だ,に関連して説明されれば,わたしの頭に浮かんだのは,こうした「インチキ宗教史」と「インチキ科学史」でした.またまたこれに悩まされなければならいなのか,とウンザリしました.

何度もいうが,私の疑いまた否定しようとしているのは,誰の無邪気な感性でもありません.こうした「インチキ宗教」や「インチキ科学」を作り出してしまうヒトの「迷信深さ」すなわちココロの「無知と貧困と野蛮」であり,それをこの高度情報化社会を「悪・用」して流布させてしまうヒトの「悪・意」なのです.

遺跡捏造事件について説明しておきましょう.それはあなたが「不滅のモノ」であると信じている「石器」,がからんだものだから特に.

A氏は石器のコレクターでした.当然,新石器のものが多かったでしょう.それを30万年前ぐらいの旧石器時代の遺跡に埋め込み,それを「新発見」とやってしまいました.前の日に埋め込んで,いわゆる学者たちの前でそれを「実際に」掘り出してみせたものだから,みんなマンマと騙されてしまったのです.それが「考古学上の奇蹟」,「天才的偉業」と賞賛され,A氏は一躍有名なアマチュア考古学者になることができたのでした.

しかし,ついに尻尾を出す日がきました.まったく行ったことのなかった遺跡に,研究者たち(複数)と一緒に行って,切羽詰まったのでしょうか,集団の陰に隠れてコッソリと石器を落とし,それを埋め,あたかもそれが大昔から埋まっているものを偶然に掘り出す<かのようにして>掘り出す様子を,「疑い」をもって後ろからついてきていた研究者の一人に,逐一見られてしまったのです.かくして歴史の捏造は,A氏にとってはその身の破滅であり,そして日本考古学全体の信頼性が全く疑われるような事態にまで至ったのです.

これを「紅山文化」とやらに敷衍するとどうなるでしょうか.B氏は,それらしい「素朴な」ミニチュアの「玉器」を作っておいて,遺跡の奥に埋めておき,そこに「無邪気な」研究者を案内して,それを「実際に」掘り出して見せるだけでいいのです.それこそ続々と,「定説を覆す」,「高度な磨製石器製作技術」によって作られた「古美術品」が,そこに山のように,まるで「考古学上の奇蹟」のように,出現し,B氏は天才的アマチュア考古学者の名をほしいままにし,その掘り出した石器は高値で取引されることになるかもしれません.

石器はこのようにきわめて捏造しやすいものです.それだけで文化文明をあれこれと論じるような「無邪気な」人はもういないでしょう.「直毛のスフィンクス」なんて笑い話にしかならないどころか,友人だからそれこそ「あえて」いうのだが,あれを「無邪気な」感性をもつだろう赤の他人にそのまま信じさせて高く売りつけたりすれば,立派な詐欺事件になってしまうでしょう.オークションだからこそ,事情を薄々でも勘づいている人が多いからこそ,出所不明ということで,安値で残ってしまっているシロモノなのです.

さらに,あえて推測をいえば,ありゃ「冥官」つまり「冥府(黄泉)の官吏」って道教のシロモノでしょう.その出所を尋ねれば「廟()」で,当然に疑われるのが「墓暴き」です.「墓暴き」を商売にする「死の商人」がそこに介在していることが疑われるから,そこに「死の匂い」がするのです.

考古学には,他にもこうした「捏造事件」が山ほどあります.有名なところでは北京原人がそうでしょう.当時は人類が一種だという現代の常識はまだ証明されてはおらず,黒人が実は人間(ホモ・サピエンス)ではなくて,チンパンジーの子孫だとかの「全くのインチキ学説」が信じられたりしていた時代でしたから,北京原人こそが東洋人の先祖だった,などと真面目に信じられもしたのでした.

わたしはガラクタそのものに全く興味はないです.しかし,それをあなたが強引に結びつけようとする「ヒトの文化とか文明」のその「正体」としての「技術システム」には興味があり,それをいささかは知ろうとしている.

3割の真実の知識じゃ,「半可通」とさえ言えません.3割の運転知識で走り出したら,今の都市の交通事情では,それこそ暴走事件でしょう.

正確さが必要とされる自然学的知識だと,9割でもダメです.1割の不明点でもあれば,それを必ず突かれるでしょう.メタ自然学でしたら,「ほぼ」100%,その時代の万人がどう疑っても疑いきれずついに納得せざるをえないような,明晰判明な真実としての公理系からの演繹的な組み立てと,そして自然現象との「無」矛盾性,を厳しく求められるのです.

日本「固有」思想や文化だって,今は「日本語」って一種の「輸入障壁」があるからなんとかもっているだけでしょう.中国がいわゆる「文化財」のマガイモノ,違法コピー,あるいは違法コピーがわからないように合成して「情報キメラ」にしたもの,ガラクタ商品,の「過剰生産」に陥って「叩き売り」状態になったりすると,インターネット市場の「脆弱性」がまず狙われるでしょう.今のうちにセキュリティを強化しておくにこしたことはありません.

むろん,道具性とか技術とかの,個々の感性・個性にとっての普遍性に,全く関心をもたずにも,ホントに世捨て人みたいにも,むしろそっちのほうが楽しく生きてはいけますよ.しかし,感性・個性を追求しようとすれば,つまり自己実現を求めれば,どうしたって道具性や技術とよばれる普遍性につきあたらざるをえないのです.それをある程度使いこなせないなら,せっかくの感性も個性も発揮できず,結局は凡人に自閉するしかない.といって感性・個性それのみを追求しようとすれば,どうしたって凡人じゃなくなって,変人・奇人になってしまいましょう.つまり凡人であることもきわめて難しい世の中です.凡人としての感性・個性の追求,ちょっと自己矛盾しているようだが,いいたいことはわかります.ちょっとだけ変人・奇人なところがあるが,その凸凹を平均すれば結局は世間並みの凡人.それもまたよしでしょうけどね.

それでよしするのなら,それでよし,感性・個性の赴くままに生きて後悔しないなら,それでよし,でしょう.それこそ,ヒトに迷惑をかけないし,かけられもしない限りは,相互無危害にある限り,そのヒトの自由です.人それぞれの,自由の道へ,ですものね.

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