はじめに
わたしは,第二次世界大戦後の混乱期に生まれました.それは,多くの人たちが貧困のうちにあって,家族は肩を寄せ合ってひっそりと生きる他はない時代でした.その後,社会は急速に変化し,高度成長を経て,もはや戦後ではないといわれ,じっさい,市場は大きく豊かにそして商品流通は(人間たちがそうであるよりもはるかに)自由になり,社会のインフラストラクチャ(生活基盤)は巨大化し高度化しました.今や金さえだせば,利便性や快適性を主張する商品は巷に満ちあふれています.お金をだせば自由が買える時代となり,社会は確かに,過去そうであったような貧困からは遠ざかったように見えます.しかし,社会にあっては,未だに何か,大きな不安が感じられます.いわく,少子高齢化からはじまって,国際紛争,核戦争,環境破壊,生命多様性の喪失,そして人類絶滅の危機へ,と喧しいばかりです.実際,東日本大震災においては,福島原発事故が発生してしまいました.
わたしは何か重大な忘れ物をしてきたような気がしてなりません.今も思えば貧しくはありましたがその貧しさを全く意識していなかった幼いときに,今は亡き父が連れていってくれた田舎の家の夏休み,涼風の吹きわたる縁側に寝そべってトレリコの樹で鳴き立てる油蝉の声を聞いたり,ファーブルの『昆虫記』を読んだり,小川で糸トトンボやオハグロトンボがゆるやかに舞うのに見とれたりしたこと,を思い出すたびに感じることがそれです.わたしはずっと自然の中にあったのであり,現に自然の中にあり,そして自然の中に永遠にあり続けるであろう,と感じる時の,小さなココロの安らぎ,小さなしかし満ち足りてあるという幸福感,という大きな忘れ物をしてきたのではないでしょうか.
わたしは,同時代の人たちの多くがそうであるように,その半生を一労働者として,一技術者として,そして一自由市民として生きてきました.残りの人生は,可能ならば,そうであり続けるとともに,過去志したとおりのphysicist,自らを産み出すとともに産み出されたものとしての自然,自らが自らを自らにおいて作り出すことによって<ある>ところのモノどものその総体であるところのピュシス,のその存在の本質を知ることに志す者,自然から学ぼうとする者,自然の内なる善き意志を実現しようと努力する者,つまりは素朴な善き自然学者としてその生涯を終えたいものであると切に希望する次第なのです.
さて,physicistというと,物理学者として狭く解釈されますが,physicsの語源は,ギリシア語でのピュシスでした.ピュシスとは,自然そのもののことであり,自から生じたモノたちのことであり,それは,イノチやココロなき単なる物質(マテリア)であるだけでなく,イノチあるモノども(生命体),ココロあるモノども(動物そして人間),そして神的(永遠不変)であると考えられたモノども(大地,そして大宇宙(マクロコスモス)を構成する諸天体,すなわち,この世界の事物である個体のすべてを意味したのでした.physicsとはすなわち自然学であり,physicistとは自然学すなわち自然の探究に志すものであり,また自然のロゴスを探求しようとする者であろうとすることにすぎませんでした.
現代においてphysicistであり自然学者であることとは,自然のみを素朴に実在するすべてである,として認め,それを自らにおいて「知識する」ことの対象にしようとするにすぎないのです.この自然を超越し支配し創造するなどと称する不自然な他のモノどもはむしろ自然から派生してきた,それこそ全くの人工物というより空想物であり砂上の楼閣にすぎない,とするのです.この自然から生ずる知識たちのみを愛し,それを健全な常識として育てあげようとし,それを自らの「知的基盤」とするのみなのです.私たちは,近代科学が発明した「絶対空間」や「絶対時間」がそうであったごとくの「神のごとき視点」などは全く求めもしないし,また,人々の自然なココロを支配しようとする「絶対的精神」などからも全く自由です.過去において自然哲学者と呼ばれた人たち,自然に関する知識を愛してきた人たちに倣い,自然の中の一個人,自然のうちにおいて人間たちがそれを作り出したこの社会の中の一自由市民として,一個の「自然の中にある人間的な『視・点』」の限界内,自らの内なる自然においてのみ,私をとりまく全自然と社会に直面しようとするのみなのです.
ギリシア自然学の根底にあったのは,「世界は原子(アトム,不可分なもの)と空虚(ケノン,空なもの)のみ」を主張する古代原子論でした.古代原子論は,現代においてはロジカル・アトミズム(logical atomism:論理的原子論)として復活を遂げようとしています.ロジカル・アトミズムとは,古代の原子論の精神を継承しつつ,現代技術システムの基礎であるべき倫理と論理(エトスとロゴス)をそれによって基礎付けようとする試みのことです.ロジカル・アトミズムとは,自然の原理,世界の原理が,私たちの外なるモノとして私たちを支配するというのではありません.むしろ,わたしたち自然に内属するモノである私たち自身が私たちの原理であり原因なのであって,わたしたちは自らのみが自らを制御しうるのであり,私たちを支配するものが私たち自身に内在するロゴスであらねばならぬ,という意味で自由であり自立しておりかつ自律することが可能である,と主張するのです.つまり,わたしたちがイノチあるモノとしてあるコトの原理,わたしたちがココロあるモノとしてあるコトの原理を,自然が作り出した私たちのその内においてこそ,これをもとめようとするのです.