自然の進化の原理としての相互無危害性と相互善行性
動力学的ハイパーサイクル・システムの形成・存在・進化の原理 自然の全事物を構成する動力学的ハイパーサイクル・システム同士が,相互無危害性(mutual security)と相互善行性(mutual benefit)の関係において<ある>ということは,お互いがお互いの存在に対して,よく<ない>結果を与え合うのではなく,よい結果を与え合うことです.例えば,電子(electron)と陽電子(positron)が対になると,それは暫定的にはポジトロニウム(positronium)といういわば電気的には中性の水素原子に似たものを作ることができますが,やがてはお互いがお互いを破壊しあって,対消滅してしまいます.この動力学的ハイパーサイクル・システムはしたがって,刹那的に存在しうるのみであって,安定したモノとして永続することは全くできません.これに対して,電子と陽子(proton)とは,同一な場所を占めることができて,しかもお互いに破壊しあうことがないので,電子と陽子の間を光子(photon)が安定的に交換され,それによって電子が陽子の回りに循環運動を「行う」ことによって動力学的ハイパーサイクル・システムが形成され,1つの安定な水素原子,つまりよりマクロな動力学的ハイパーサイクル・システムを形成することができます.この動力学的ハイパーサイクル・システム形成の結果として,それらの構成要素がもつ内部運動の総量は全く変わらないのですが,その双方の運動のあり方が,より安定性の高い,存在効率のいいものになります.つまり動力学的ハイパーサイクル・システムの存在様式が,安全かつ効率的なものになり,結局,それだけが長く「よく・生きる」ことによって残存することができます.これが動力学的ハイパーサイクル・システムの形成・存在・進化の原理であり,それが結局は,多階層的動力学的ハイパーサイクル・システムのみからなるこの宇宙の,自己形成・自己「再」生産による存在・そして自己進化の原理なのです.
動力学的ハイパーサイクル・システムって,きわめて日常的直感的にいうと,玉石でできた1種の独楽のようなものだ,と考えてごらんなさい.その表面形状がより美しく,より滑らかであって,その内部がより密度の高い安定なものでより強固にできていればいるほど,それはより長く,他から破壊されずに安全に,自ら回り続ける,(半)永久的に自転し続ける,運動し続ける,つまり存在し続けることができるでしょう.永遠に存在するということはすなわち,永遠に運動し続けている,ということなのですから.結局,玉と玉とが,相互に切磋琢磨しあって,より美しくより真実な形状を得ることができれば,より永遠に生きる,より<善く>存在し続ける,ことができるようになるでしょう.それが,動力学的ハイパーサイクル・システムとしての独楽の成立であり存在であり進化である,ということになるでしょう.
引力と斥力,愛と憎悪 相互無危害性と相互善行性を,引力と斥力という動力学的原理によって説明することができます.古代4元素(地,水,風,火)説を最初にいったといわれる自然学者エンペドクレスは,自然の原理を,愛と憎悪であるとしました.愛とは,モノとモノとが引き合い親和しあうことであって,それは現代物理学では「(牽)引力」に対応します.憎悪とは,モノとモノとが遠ざかり合い排斥しあうことであって「斥(撥)力」に対応します.
現代物理学では,これを極小のミクロコスモスにおけるbosonとfermionの存在に対応させて説明することができます.同一属性をもつfermionは同一な場所(時空状態)を占めることができず,斥撥しあいます.異なる属性をもつfermion同士だけが,bosonを相互に交換して牽引力を発生させることによって動力学的ハイパーサイクル・システムを形成し,1時的にせよ,安定な存在と<なる>ことができます.
引力と斥力を,マクロコスモスにおける自然学に導入し,自然の自己形成作用の説明として適用したのは,近代ではカントがそうです.自然のモノどもが引力によって自然に集積し,斥力によって自然に散佚し,この引力と斥力との釣合いの中から「周回運動」が出現することによって,この太陽システム(solar system)が出現した,と考えたわけで,これが有名な,太陽システムの星雲起源説のはじまりです.また,ゲーテは「親和力」つまり「愛」によって,自然における生命の出現,存在,進化を説明しようとしました.
この天体の星雲起源説は,実は,古代原子論をその起源としています.古代原子論の始祖とされるレウキッポスは,諸原子たちが集合し「円運動」を行うことによって次第に,重いものは下に集り軽いものは上に分離することによって,ついに大地とそれをとりまく大気そして諸天体とが形成されていった,と今から約2500年前に,既に主張していたのです.この古代原子論が近代において復活し,デカルト(少なくともその師であったベークマン)やガッサンディの自然(哲)学に大きな影響を与え,彼らはこの世界が「渦運動」から成立している,というモデルを提出しました.それがカントやラプラスによる太陽システムの星雲起源説を準備したのです.
相互無危害性(安全性)と相互善行性(最適性)の存在と,その自然の事物の発生・存在・進化の原理としての普遍性 普遍的な自然学的真理は,その応用範囲が全自然の全階層に及ぶことができます.わがいうところの動力学的ハイパーサイクル・システムの形成と存在と進化の原理(最善性・最適性)がそれです.
この自然において,いかなる場所におけるいかなる存在の階層におけるいかなる存在者も,かくのごとく,相互無危害性原理および相互善行性原理において<ある>のであって,それが失われるときには,ただ自ら滅び去るのみなのです.
顕微鏡下のミクロな世界では,ツリガネムシ,ミドリムシ,珪藻たちがそれぞれ1つの細胞として生きている,そして,ボルボックスが細胞の集合として1つの個体を形成して生きている,<かのように>,1つの細胞の中でも,タンパク質分子,RNA分子,DNA分子たちが,協力しあって,自己を「再」生産し,自己増殖し,進化しさえします.それは「生きた」分子たちが,共同で自己を「再」生産する,「生きた」 -活・動する- 多くの分子たちが構成要素となってそれを作り上げている「1つの社会」なのです.タンパク質によってDNA情報がRNAに転写され,RNA情報がアミノ酸の配列情報に翻訳され,それらがタンパク質を「再」生産し,そのタンパク質がまた,DNA情報をDNAに複写することによって,細胞は自己増殖します.そこには,DNA⇒RNA⇒タンパク質⇒DNA⇒・・・,と無限に,永遠に続く循環運動,自然の永遠のイノチ,自然の永遠のココロ,つまり,動力学的ハイパーサイクル・システムが「存在する」しています.
あらゆるイノチあるモノ,ココロあるモノの根底において「機能している」,「活・動」している,つまり「活きて・動いている」のが,プラトンの『ティマイオス』にも登場する,「生きた3角形」すなわちわがいうところの「動力学的ハイパーサイクル・システム」の存在,なのです.モノが・生きている,といえるのは,そこに自己を「再」生産することのできる運動体である「動力学的ハイパーサイクル・システム」が存在することによるのです.この自然において,モノが・生きている,そしてモノにはココロがある,あらゆる自然のモノが古代的魂(プシュケー)を持つ(かのように見える),ということは,自然の根底には,わがいうところの動力学的ハイパーサイクル・システム(dynamical Hypercycle system)」が・厳然として・存在しているから,なのです.
ミクロコスモスでは,全てが,自ら動いています.熱運動により,量子的「ゆらぎ」により.マクロコスモスでもまた,全てが,自ら動いています,ビッグ・バン以来の熱運動と量子的「ゆらぎ」が,その原動力(デュナミス>dynamics)となって.ここに自由エネルギーの「流れ」が出現すると,ミクロな動力学的ハイパーサイクル・システムは次第に集合しよりマクロな動力学的ハイパーサイクル・システムとなって新たな存在の階層に出現します.地球上では,太陽光の不断の「流れ」が自由エネルギーとなって,生命を構成する化学的ハイパーサイクル・システムを回転させ続け,ついに生命システムを生みだしたのです.
生命システムの起源としてのハイパーサイクル M. アイゲンによって,最初にハイパーサイクルの概念が提唱されたとき,それは生命の起源の解明を目指していたとわたしには思われます.たとえば,DNAとRNAとタンパク質は,ハイパーサイクル・システムを構成します.DNA上の情報がタンパク質によってm-RNAに転写され,m-RNA上の情報がt-RNAやタンパク質によってタンパク質に翻訳され,そのタンパク質がDNAをコピーすることによって,生命体は自己増殖することができます.これはDNA,RNA,タンパク質等々の多くの生体高分子たちの間に,相互無危害性と相互善行性が成り立っているからこそ,可能なのです.つまり,相互無危害性と相互善行性原理とは,化学動力学的ハイパーサイクル・システム形成・存在・進化の原理つまり「生合成の原理」(principle of biosynthesis)であり,それはそのまま諸々の分子や生命体の「共生の原理」(principle of symbiosis)でもあるのです.
この地球上で,相互無危害性と相互善行性原理を満たすことのできる化学物質たちが,自発的に集り,また協働しあり,相互を「再」生産しあうこと,つまり「共・生」することによって,それらが次第に安定し,また効率的なものになっていき,ついに自己増殖を行うことができる分子であるRNAの登場によってついにいわゆる「生命」が発生したのです.いや,そもそもこの自然においてはあらゆる物質が,自ら動くものとして<ある>のです.敢えていうなら,この自然において,万物は既に「生きている」つまり「活・動」しているのです.
このハイパーサイクル・システムの概念を,「自然の事物=動力学的ハイパーサイクル・システム」という概念に拡大し一般化すると,この自然界は,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで,「活・物」つまりイキモノに満ちていて,それらが相互無危害性と相互善行性原理を満たした場合において「のみ」,動力学的ハイパーサイクル・システムとして生成することができ,運動することができ,それらが変化し,消滅しつつ,しかしまた,さらに進化することまでできる,という風景が浮かび上がってくるではありませんか.1つの論理的原子=1つの動力学的ハイパーサイクル・システム,という大命題は,素粒子レベルのミクロコスモスから宇宙論レベルのマクロコスモスまで成立しているのであって,わたしたちの日常的領域もまた,その例外でありうるはずもないのです.
共生と進化の原理としての相互無危害性と相互善行性 現代自然学の探究の結果,この自然においては,ミクロコスモスからマクロコスモスに至るまで,動力学的ハイパーサイクル・システムの形成原理として,相互無危害性と相互善行性が成立している,ということが明らかにされてきました.
あらゆる光は,「完全に同一な」本質をもっています.つまり,光には「個性が・全くない」のです.同様に,あらゆる電子は,「完全に同一な」本質をもっています.つまり,電子にも「個性が・全くない」のです.同様に,陽子にだって中性子にだって,個性は全くありません.自然の存在様式は,窮極のミクロレベルでは,非常に単純であり斉一的です.こうした単純なミクロなモノどもが集まって「1つのシステム」を作ると,そこに多様な個性をもつよりマクロなものがはじめて出現します.
ヒトを構成する細胞だって,各器官においては,それぞれがその個性を主張することはまずありません.それぞれがそれぞれの機能を忠実に果たすことによって細胞社会の秩序が保たれています.その中で突然個性を主張する細胞,自己保存のみに「狂奔する」自己中心主義者が出現したら,それこそがガン細胞であって,それは寄生する生命体そのものを滅ぼすことによって自滅する他にありません.
ヒト社会もまたそうでしょう.ヒトはただ一種です.その基本的な存在様式は全く同じです.それぞれの人が,その内なる格律すなわち自然法であるところの「相互無危害性および相互善行性」を守ることによってはじめてヒト社会の秩序が成立し,存在し,進化することができるのです.
社会システムの形成・存在・進化の原理としての相互無危害性と相互善行性 この自然の内において,この自然と共に「よく・生きる」こと,それが,わが「メタ自然学研究室」の永遠のテーマなのです.わが[1論理的原子=1動力学的ハイパーサイクル・システム]論は,そのよき生き方を基礎づけることができる,ヒトの価値「再」生産システムすなわち「産業システム」のいわば「魂」としての「技術システム」の存在のための,基礎中の基礎,なのです.あとは,これにいかに多くの人びとにとって分かりやすい表現を与えるか,で苦心腐心しなければなりません.
もう一つ,わが自然学およびメタ自然学の,この人間社会に関係する最大の要点は,自然の全階層における全事物の「存続の原理」が,相互無危害性および相互善行性,にある,ということです.お互いに殺し合い傷つけ合い奪い合うことがない,それが相互無危害性です.お互いに助け合い補い合い協力し合う,それが相互善行性です.この原理が<ない>ならば,この自然界においていかなる存在も<ない>であろう,ということです.相互無危害性というのはヒトの社会でいえば結局は「正義」に帰着します.相互善行性というのはヒトの社会でいえば結局は「友愛」に帰着します.
つまり,この自然は,「正義と友愛の原理」,平たくいえばフランス革命の理想であるところの「自由・平等・友愛・平和の原理」から成立している,ということです.とりわけ,自由とは,他を支配することなく,他から支配されることもないこと,個々のモノがあくまで自立し自律し,それぞれ自発的にこれを行うことによってはじめて協力関係が成立する,ということです.
逆に,殺し合い傷つけ合い奪い合うならば,ローマ帝国のように,一時は大成功するモノがでるかもしれませんが,「目には目を,歯には歯を」という「復讐のロゴス」を発動することになって,いつかは滅び去ることになるでしょう.「諸行無常」「猛きモノもいつかは滅びる」,それが自然の峻厳な存在の原理なのです.
この自然には,天国も地獄も,ユートピアもディストピアも,全くありません.いかなる創造者もいなければ,したがって彼に創造されたはずの被造物もまたないのです.ただ,あらゆるイノチあるモノすなわち動力学的ハイパーサイクル・システムが,精一杯,自由・平等・友愛・平和なあり方を目指して,自発的に自律的に「よく・生きよう」とシコシコと努力し,また進化もしてきた,という姿が,ただあるばかりです.
このことが,相互無危害性と相互善行性の原理が,自然の事物の存続の原理が,極小のミクロコスモスから極大のマクロコスモスに至るまで,自然法則として成立しているからこそ,この自然は進化してきたのです.このことだけは,たとえ世間がそれを冷笑しようと無視しようと,またどれだけ時間がかかったとしても,書き残す価値がある,とわたしは思うのです.
社会的正義と社会的友愛の普遍性 動力学的ハイパーサイクル・システムの形成・存在・進化の原理は,以下の2つから成り立っていることとして整理できます.
1.動力学的ハイパーサイクル・システムの構成要素の,お互いがお互いに,傷つけあったり(破壊したり)殺し合ったり(消滅させる)してはならない⇒相互無危害性.これは,動力学的ハイパーサイクル・システム社会の,相互の自由・平等・平和の原理,それはいわば社会正義の実現,といえます.
2.動力学的ハイパーサイクル・システムの構成要素の,お互いがお互いのために何かをしてあげること(何かを与え合う,たとえば水素結合では,水素をお互いに交換しあうわけです)ができなければならない⇒相互善行性.これは動力学的ハイパーサイクル・システム社会の,いわば友愛原理,といえましょう.
結局,1つの細胞が存続するためには,それらを構成する全ての構成要素が自由・平等・友愛・平和に,共に存在していなければなりません.つまり,あらゆる社会は構成要素の協同態であり共同体なのです.そこにおいて,相互無危害性と相互善行性からなる社会原理が破られると,そこに闘争がおき,お互いが血で血を洗う「血の復讐」が起ります.それが社会システムの病であり,社会システムの死,なわけですよ.
ですから,わが動力学的ハイパーサイクル・システム論は,素粒子から大宇宙まで,ヒト社会をも含めて全て,その存在根拠が,社会正義と社会的友愛,であると証明できる,と思います.動力学的ハイパーサイクル・システムの存在原理の遍在は,より「正・確」に立証できるのですから,いわんや人間社会において成立していないはずはない,というわけです.それを今,エンゲルスやサン・シモンに確認しようとしています.
悪とは善の欠如態である アリストテレスは「悪」は善の欠如である,としました.つまり<よさ>が少ないものがより「悪」なのです.
物理学者であればよくご存じのはずでしょうが,4元運動量は「完全に」保存されています.つまり,いかなる作用も少なくとも4元運動量だけはこれを破壊することはできず,それを分解したり統合したりすることができるだけです.
したがって,自然学の観点からいえば.この世に絶対的善つまり真の創造も,絶対的悪つまり真の破壊も,<実は・ない>ので,わたしたちヒトがわたしたちヒト自身の自己「再」生産活動にとって<有・益>あるいは<有・利>なものを善(よい)としているのです.逆にいうと,わたしたちが私たち自身の自己「再」生産活動に<有・害>なもの,ヒトにとっての価値破壊的活動を悪(わるい,よく<ない>)ものとしているのです.相互無危害性と相互善行性原理を,ヒト中心主義的に理解することによって,価値相対的に,善/悪の区別が出来しているのです.
実際,相互無危害性と相互善行性の観点からいうと,戦争は全く無益な殺し合いで,ヒト社会にとっては価値破壊的に作用しますから「悪」です.しかし,それから莫大な利益を得る輩,死の商人たち,(本来の意味での)資本「主義」者たち,つまり金儲けのためには人殺しも厭わない輩にとっては,それは讃「美(よい)」され,<よき・もの>とされるでしょう.結局,わたしたちが「よく・生きる」ために滅ぼさねばならぬものは,わたしたちヒトじしんが持つこうしたあまりにも自己中心主義的な「悪」すなわち,自らのよきあり方を知らない「無知」さ,他者から奪ってまで富を求めようとする「貧困」さ,他者を殺してまで富を求めようとする「野蛮」さ,なのです.
自由・平等・友愛・平和の概念 この機会に,自然の神的な(不死な,不生不滅な,永遠不変な)ロゴスである動力学的ハイパーサイクル・システム形成・存在・進化の原理と,ヒトのロゴス(言葉,理論,イデア,理念,概念,等々,多様にいわれる)との関係性を,まとめておきます.
・平等の概念:自然の全事物は,自然のただ一つの動力学的本質としての運動性に「平等に」与っており,そのただ一つの本質において「平等に」相互作用しあっています.自然の事物の差異とは,実は,運動の「数(・量)」の差異にすぎません.自然においては,時間が,運動の「数(・量)」として表現されるように.
・自由の概念:自然の全事物の相互作用においては,作用と反・作用とは全く等しい.したがって,他を破滅させることは,自も破滅させることを意味します.自然の事物が「自由である」とは,他を破壊することもなく,他から破壊されることもないことであり,ヒトによってそれは相互無危害性とも,安全性とも呼ばれます.
・友愛(=価値生産的労働)の概念:自然の全事物は相互に「非」破壊的に作用しあうことによって,動力学的ハイパーサイクル・システムを形成することができます.この相互作用の形式は,お互いがお互いを創造し高めあうことのできる価値生産的活動なのであって,ヒトによってそれは友愛原理と呼ばれます.友愛原理が成立するためには,まず相互無危害性が成立していなければならないことに注意してください.
・平和の概念:「もし」自然の諸事物の間に,相互無危害性と相互善行性とが実現して,動力学的ハイパーサイクル・システムが安定的にかつ安全に存在しえている場合には,その状態が,「平和」と呼ばれます.
自由・平等・友愛の理念,そしてその結果として実現する平和の理念とは,かくのごとく,自然のロゴスの,価値生産的な,価値創造的な活動性,つまり動力学的ハイパーサイクル・システムの形成・存在・進化の原理の,ヒトのロゴスとしての顕現であり,自然の事物のヒトにとって「よき・あり方」の,ヒトのロゴスにおける呼称であることが,ここに示されました.