現代物理学についてのエピソード
ところで最近,μニュートリノの速度が光速を超えている,というのがニュースになりました.お気づきですか?
わたしは最初は計測誤差だと思っていましたが,その「光速超過分」が60ナノ秒だ,というから,距離にして18m,それはちょっといくらなんでも,計測につきまとう系統的誤差にしてしは大きすぎるしなぁ,といささか考えなおしました.それで思い出すのが,40年以上前に,某素粒子論者のゼミで,「ひょっとして虚数の質量ってのがあるのではないか」とわたしが言ったときに,彼が奇妙な顔,何かいいたそうな顔をしたこと,です.
「ひょっとして・もし」虚数の質量があれば,つまり,space-like particleがあれば,それは光速を超えることができます.確かに「大事件」だが,相対論までは変えなくてすみます.
もう一つの可能性,それは光速の測定が間違っていた? これはどうもありそうもないが,もし「あった」としたらそれも実験物理学者にとってだけでなく,天文学的「大事件」になるでしょう.
GPSなら1m以内の位置誤差で問題ないでしょう.ニュートリノ発生装置の「発生位置」の誤差がホントにどれくらいか,まだ疑問は残りますが,18mはやはり大きすぎます.
しかし,最初にカミオカンデでニュートリノ・バーストが検出されたときに,μニュートリノと(ただの)νニュートリノの混合態であるべき存在の検出において,1つのピークしか見られなかった,という記事を見たような気がすること.そうなると,νニュートリノも光よりも速い? あるいは光が遅い? とかいろんな「疑問」が沸き起こってきそう.
時空そのものの存在とは何か? さらにfermionとbosonの本質的な差は何か? 学生時代にHeisenbergがfermion一元論を説いた本を読んだことがあるし,それに近いところまで行き着きそうです.ホントにtime-like particleの存在が実証されたのなら,相対論の「全部」を捨てる必要がないだろうが,少なくとも質量の概念の見直し,はどこかで必要になるだろう,と思います.私はもう4元運動一元論,空間(場所)とは量子の0点振動の中心「点 -プランク定数分の動的な「広がり」をもつ-」だ,の仮説一本で「やり通す」しかないと思っているのです.
一昔以上前,光より速い粒子も確かに考えられたことがあります.タキオンとか.でも,あまりにも不自然な仮説なので捨てられていきました.
わたしじしん,もう40年以上前になるが,学生時代に真剣に,虚数の質量をもつ仮想的な粒子を考えたことがあります.でも,実在する,となると,その虚数の質量って一体何?ということになりましょう.そもそも虚数とは,回転運動の方向をあらわすわけで,質量の存在様式をあらわす質量空間があって,それにいろんな素粒子の質量を配置していくことができます.でも,虚数の質量って,素粒子の相互作用の時だけチョッピリ顔を出すことができるので,自由粒子としては表面には出てこないことになっていました.それが今回の「事件」で,さて,いったいどう変っていくのかな.
むろん,いろんな可能性があって,今後一斉に「追試」が行われるでしょうが,数例をあげますと:
・実験誤差,要は,ニュートリノの発生位置とか検出器の位置とかが,正確でなかった,とかで結局カタがつく? でも,今回の結果を長さに直すと18mで,実験誤差で説明するにはあまりにも大きすぎます.だからこそ「あえて」発表したのでしょうが,それでニュースになってしまった.世の中にはいいかげんなホラを吹いて不可能なことを可能だという,「悪い人」とはいえないまでも「変な人」が結構いて,彼らに「曲解」されなきゃいいですがね.
・光の速度がそもそも間違っていた? これこそ天文学的な「大事件」になるだろうし.
・上でいったように,全素粒子の質量概念の全面的な見直し,がはじまる?
その最後の段階として,相対論的時空概念の再検討がありましょう.この自然における<空なるもの>の存在の「再」検討がついにはじまるのかもしれませんし,自然学の完成,つまりその「おわり」の「はじまり」になるのかもしれませんし.
「小さな純虚数の質量をもつ素粒子」は,光速より速く運動できますが,しかし,時間ととともに減衰していくはずです.μニュートリノはμ粒子と同様に,ある期間で減衰して(さらに崩壊して? だとすると,ニュートリノの下位の素粒子があることになるので,μニュートリノが2つのνとν反粒子に転換する,としたほうがわかりやすいかも),ただのνニュートリノ「だけ」になってしまうのかもしれません.そうすると,カミオカンデで観察されたニュートリノは,全てνだった,で簡単に説明がつきそうです.
「μニュートリノが,(「0.0025%の光速超過分」に対応する「純虚数の質量」に,さらに対応する「半減期」で),結局,2つのνニュートリノと1つの反νにュートリノの3つに崩壊(転換)してしまう」という事例を「もし」示唆するものがあれば,この「純虚数の質量」の存在仮説で,万事解決するのではないでしょうか.純虚数の質量Δmをもつ粒子の波動関数を,静止系で,NUT(c=h/2π=1)をもちいて書いておけば,一応は,exp(-Δm・t)という,ごく見慣れた崩壊過程を示す式になりますからね.つまり,純虚数の質量Δmをもつ粒子の半減期は1/Δmです.
それで思い出すのが,ソーラー・ニュートリノの「謎」です.これがμニュートリノの崩壊の寄与分で説明できるなら,その一つの証拠となる可能性がありますね.
「もしも」あくまで「もしも」の話ですが,「純虚数の質量」が存在するとすれば,その意味は何か,です.量子力学で運動量と位置が相補的な関係にある,ということはよく知られています.ところで質量と,は4元運動量のローレンツ変換不変量つまり運動量のノルム,です.それが純虚数である,ということは,それが位置(空間)の量であることを示してはいないでしょうか.つまり,純虚数の運動量のローレンツ不変量とは,距離(空間)をつくり出している当のものであり,それは空間の量(広がりの量)である,ということになりませんか.
さらに「もしも」あくまで「もしも」の話ですが,space-like particleが実在する,のなら,空間の存在という,わが自然学(ピュシスのロゴス,[希]physis(自然)>[英]physics:物理学)にとっては,究極の「謎」だったものが,ついに解け始める時がきたのかもしれません.
日がな一日,パソコンに向って考え事を(今ちょうど,サン=シモンの『産業者の教理問答』を研究)していると「あやしうこそモノ狂おしけれ」という兼好法師みたいな心境になってきます.まぁ年寄りの世迷い言として聞いてやってください.
「この時空が何から成立しているか」についての私なりの「私的・解」ですが,それは「純虚数の質量(4元運動量のローレンツ不変量)をもつ可能性のある全素粒子」の「0点振動・解」ではなかろうか,というのです.これは当然に光より速いが,生じたらすぐ崩壊(半減期は先程述べたように1/ Δm)してしまうので,相互作用の過程にしか現われないのだろう,と私は思っていたわけです.しかし,「『非常に小さい』純虚数の質量をもつ素粒子」があれば,それは相互作用の範囲をはみ出して存在していても,ちっともかまわないのではないか.μニュートリノは「ひょっとして」そうした類のシロモノだったのかもしれないなぁ,と今遅まきながら,思い始めました.
τニュートリノは「ひょっとして」もっと速いのかもしれませんが,しかし「より大きな純虚数の質量」をもっているから,つまり,すぐ崩壊してしまうだろうから,測定には容易にひっかからないのかもしれません.「もしも」が「もしも」でなけりゃ,「ひょっとしてひょっとする」かもね.
「光速度c」は「普遍『定』数」<であろう>と「仮説する(要請する,postulate)」しかないのではあります(昔,cが宇宙の歴史において一定でなかったらどうなる? という論文までありました)が,光は,かならずしも普遍的なモノ(自然学的に普遍的な第一実体あるいは第一の基体)ではなく,もうそれこそ山のようにある素粒子の「一種」に格下げされてしまいました.光の速度を越えられない,というのも,マクロな古典的物体についていわれることなので,量子論のようなミクロ領域ではどうなるか(そもそも量子の「位置・速度」とは一体何か,も含めて)は完全に確かめられたわけではありません.虚数の質量をもつということは,それが時空上でいつかは崩壊することを表しているだけで,それは一種の量子的なトンネル効果(光速の「壁」,そんなものがあるとしての話だが,をすり抜ける)を表現しているのかもしれない,等々,よくよく考えると,わかっていたつもりが,それは古典力学からの類推からくる固定観念だったので,実はわかっていなかったのだ,ってことが「ひょっとして」あるのかもしれない.
結局は死ぬまで,この広大な自然のあちこちを,彷徨い続けなきゃならないのかもしれません.どうせなら,楽しく道草を食いながら,彷徨い続けたいものです.
自然学的知識において「普遍的な・絶対」は<ない>のです.光速を越えられない,ということも,実は,古典的なマクロな物体,速度がどれだけでも正確に測定できるような物体については確かに証明済みのことです.しかし,量子論的なミクロな物体,そもそも位置・速度の測定に本質的な不確定性につきまとうような素粒子についてどうなるか,は今ようやくその測定がはじまったばかり,ということでしょう.虚数の質量をもつような素粒子が「もし」ありうるなら,それは量子的なトンネル効果によって,「ホンノチョットの間だけは」光速を越えることができますが,それはやがて崩壊あるいは他の素粒子に変異してしまうのです.今回のように「もし」それらが測定誤差で<ない>ならば,はじめてこの現象が「目に見える」かたちで観測された,ということかもしれません.
量子力学では,「純虚数」の運動量やエネルギーを「見かけ上は」もっている簡単な実例が結構あります.たとえば,
(1)トンネル効果では,運動エネルギーがポテンシャル・エネルギーより小さいような場所では,運動量p(= √{(1/2m)p^2-V})は純虚数になります.それで,ポテンシャル部分の波動関数はexp(-A・x)に,つまり指数関数的に減衰していきます.それはあたかも運動に対立するポテンシャルの「壁」を通り抜けているかのようです.
(2)たとえば,原子核の崩壊過程においては,不安定状態が,エネルギー順位が崩壊してできるエネルギー安定状態より高いので,見かけ上は,ΔEが純虚数になります.それで,その励起状態の存在確率が,exp(-A・t)つまり時間的に指数関数的に減衰していきます.この場合もエネルギーの障「壁」を通り抜けているかのようです.
(3)さて,今回の場合は(2)とごく似ています.μニュートリノの相対論的に不変な質量(静止質量)が「ごく小さな純虚数」だと考えると,その存在確率は,exp(-A・τ)(τ:固有時間)で,指数関数的に減衰していきます.この間,つまりμニュートリノが生成して崩壊するまでのμニートリノの群速度が,(ホンノチョットだけ,ホンノチョットの「時間」だけ,しかし,その「時間」は相対論的効果で,そうとうに長くなるはずですが)「光速より(純虚数の質量分だけ,チョッピリ)速い」と観測されているのではないでしょうか.つまり「純虚数」の質量をもつ相対論的量子は,時空における光速の「壁」をあたかも通り抜けているかのように見えてしまう.
この100年間に十分検証されてきた,相対論も場の理論も量子論も,全く変えなくてもいいのです.むしろ,運動量やエネルギー,そして質量の概念が,したがって相対論的な時空が相対論的な時空として存在すること,のその,物理学的な意味が,量子(場の理)論を考慮にいれたものに,むしろキチンと変わらなければならないのでは,とわたしには思えるのです.
インターネット上の情報に関する限り,CERNの「光速を越えたニュートリノ」は,実験の誤りのようですね.虚数の質量をもつ素粒子があれば,それは光速を越えられますが,しかし,それが実在しないとすれば,あと考えられるのは,時間はモノとして実在する物理量ではなく,素粒子の外延的運動の測定から「推定される」いわば派生的な物理量なんじゃないか,ということ.素粒子がもついわゆる静止質量とは,それが内包する4元運動量のLorentz不変量(実数)であり,それに対応する時間は実数である,ということで,全ての存在が運動状態にあるという相対論的量子論は,まだまだ正しい,ということで,いわゆる標準理論で,みんな辻褄は合いそうですね.さて,また現代メタ自然学の研究に戻ることにいたしましょう.