自然システムにおけるPDCAサイクルの普遍的存在の証明

 

あらゆる存在の階層が「社会システム」や「産業システム」の存在の場である  さて,わが動力学的ハイパーサイクル・システム論ですが,これが極小のミクロコスモスである電子や光子たちからなる素粒子の領域から,極大のマクロコスモスである星々や銀河たちからなる宇宙論の領域まで成り立っている,ということは既に申し上げてきたと思います.それは中間の大きさの領域であるこの地球上の,あらゆる自然物において成立しているのです.むろん,わたしたちの日常の衣食住に関することおいても.

  ギリシア時代においては,ミクロコスモス(小宇宙)とは,ヒトの身体のことでありましたし,マクロコスモス(大宇宙)とはこの地球上から見える範囲の全存在をいうにすぎなかったのです.デモクリトスは,小宇宙(ミクロコスモス)論と大宇宙(マクロコスモス)論を書いた,といわれます.つまり,彼のいう1つの原子すなわち<不可分なるもの>,とは,実は,1つのイキモノ,1つの個体,のことだったのです.そして,彼のいう空虚すなわち<空なるもの>とは,そうした多くのイキノモ,多くの個体たちを容れている存在の場,つまり私たちもその内において存在する「全時空()」すなわち,この全自然の全存在の場,をいうにすぎなかったのです.

  「細胞の分子生物学」をお勉強なさると,わたしたちを構成している1つ一つの細胞それじしんが細胞小器官(ミトコンドリア)などの共生態であり,1つの細胞それ自身が多くの細胞小器官からなる「1つの社会」であることにお気づきになるに違いありません.さて,その小器官それぞれが生きていて,それはまた多くの生体高()分子たちからなる「1つの社会」なのです.そうした生体高分子たちが動力学的ハイパーサイクル・システムを構成することによって,それぞれの分解機能や合成機能を果たして,そうした諸機能のさらに動力学的ハイパーサイクル・システム的結合態として,各細胞小器官は存在しているのです.要は,1つのイキモノである個体は,諸器官からなる「1つの社会」であり・・・器官はまた多くの細胞からなる「1つの社会」であり,1つの細胞もまた多くの細胞小器官からなる「1つの社会」であり・・・,例えば,1つの核子だって,多くの素粒子たちからなる「1つの社会」なのです.

  こうしてみると,ミクロコスモスからマクロコスモスに至る,全自然の全存在の全階層において,多くの個体が集合し関係しあって活動して「一つの社会」を構成していることがわかります.そうしたそれぞれの「1つの社会」の構成原理が,動力学的ハイパーサイクル・システムの共生によるよりマクロな動力学的ハイパーサイクル・システム形成,なのです.すなわち,この自然の,全ての存在は,動力学的ハイパーサイクル・システムの自己形成の原理から構成されている,ということになります.

 

偶然と必然の狭間に存在するわたしたち    動力学的ハイパーサイクル・システムは,「必然性と偶然性の戯れ」であるかのようにふるまいます.たとえば台風は典型的な,しかも巨大な,1種の動力学的ハイパーサイクル・システムなのです.その軌跡は,「ほぼ」気圧配置によって数値的に予測可能ですが,その細部では,多くの「ゆらぎ」たちによって絶えず揺れ動いていて,結局,例のボルツマンの輸送方程式に基づく数値予報だって,大幅に外れることもあるわけです.

わたしたちたちは「偶然」と「必然」の狭間に生きているのであって,「間違い」をする動物です.時々,自分でも意識せずに,特に感情にかられて,相互無危害性と相互善行性原理をつい侵犯してしまうことがあります.動物なんかだと,餌を捜して他者の縄張りの中についつい進入してしまこともあります.そうすると,手ひどい反撃を食らうことになります.それにそれこそ「必・死」で反抗すると,またもっとヒドイ「しっぺ返し」がきます.「必・死」が「必・死」を呼ぶと,これは「血の復讐」のロゴスとなって,結局,両方を滅ぼしてしまうことになるのです.これだけは,双方が滅びに至る前に,双方がやめないといけません.

つまり自然種が生き残ることができるためには,「血の復讐」のロゴスを「制御する」ことができなければなりません.この「制御する」という「行い」が「サイパネティクス」です.

 

PDCAサイクルの萌芽としてのサイバネティクス  動力学的ハイパーサイクル・システムは必然と偶然との狭間においてわずかに成立しえています.それ自身が1つの動力学的ハイパーサイクル・システムである人間の行動だって,必然と偶然の戯れのように,結局は見えてしまうのです.ただ,動物もヒトも,その行動の「ゆらぎ」を絶えず修正することができる,つまり「サイバネティックス」回路,要は「自己制御回路」をもっているので,なんとかその行動の目的を無意識的にせよ意識的にせよ達成することができています.この「サイバネティクス」,現代でいう「自動制御法」こそ,自然において 異存在するPDCAサイクルの基本的なあり方にほかなりません.

ヒトのココロとは,そうした動力学的ハイパーサイクル・システムを制御する,これまた動力学的ハイパーサイクル・システムであるところの「サイバネティクス」要は「自己を,その行為目的に対して制御することができる,動力学的ハイパーサイクル・システム」としてのPDCAサイクルの萌芽的な存在なのです.ですから,わたしたちは「サイバネティクス」によって,自らが最も善い,と(直感的に)思う方向へ,現実に立脚しつつ,社会を地道に少しずつ「改・善」することができるのです.

  わたしたちには,「改・善」の自由があります.しかし「改・悪」の自由はむしろないといえます.自然における失敗とは,ほとんどがそのままオシャカに至る道,滅びつまり死滅に至る道なのですから.

 

PDCAサイクルとは何か  PDCAサイクル,それは計画する(plan)・実行する(do)・結果をチェックする(check)(改善計画を)行う(action),という一連の「行い」の円環です.それは価値「再」生産システムとしての動力学的ハイパーサイクル・システムを制御し,その制御法を意識的に進化させるという方法です.

つまり,PDCAサイクルとは,あらゆる生命体が無意識的に行ってきた多くの試行錯誤の結果としての進化,多くの犠牲を払うことによって結果論的にしか達成できなかった進化を,試行錯誤にともなうリスクを極力減らしつつより意識的に行うことによって,それぞれの組織システム,それぞれの会社システム,のそれぞれの「生き残り方」を追究する,一種の存在と進化の様式です.この意味では,「ブッタの夢」であるところの「4つの真理と8つの正しい道」もまた,今や現実のもの,たとえばトヨタ流の「組織カイゼン」の方法となって現に機能しているわけです.これは,組織カイゼンをうまくやれた組織だけが進化することができ,環境変化に耐えて生き残ることができる,ということです.

「カイゼン」作業を実際行っている当人たちが,その起源は実は原始仏教にあるのだ,といったら驚くでしょうが,そもそも「PDCAサイクル」の起源は,古代の医療からきたもので,ヒポクラステ以来の,「ヒトの健康を保ち病気を直す」ための方法論,正確に診断しよう,正確に治療しよう,というヒトがヒトとして健康に「よく・生きる」という行為そのもののことです.

 

自然における(無意識下の)PDCAサイクルの実例としての自然治癒力の存在  ヒポクラテスはすでに2500年前に「自然治癒力」に気づいていました.私たちはあたりまえのように,致命的ではない怪我や病気から回復することができます.それが自然治癒力です.医療というのは,典型的には免疫力に代表される,この自然治癒力があってはじめて成立するのです.ヒトは自然のロゴスが産み育んできた無意識下のPDCAサイクルの存在の上においてのみ,「よく・生きる」ことができるのです.

  むろん,このPDCAサイクルは,決して意識的に獲得されたものではなく,生命の40億年にわたる厖大な数の試行錯誤の失敗という犠牲を払って,あくまで結果論的に獲得されたものにすぎないことに注意してください.

 

PDCAサイクル=自然の弁証法  40億年にわたる地球上での生命の進化の果てに,わたしたちがPDCAサイクルを発見することができてようやく,自然と自然・内・人間とが対等に向き合えるときがきたのです.自然の万物が等しく,自然のイノチやココロ,つまりそのロゴス(本質)に与っているのです.自然を過剰に崇め奉る自然「崇拝」主義に陥ることもなく,かといって過剰な人間「中心」主義つまり自然を支配するとか制服するとかの「高慢と偏見」に陥ることもなく,自然と,共に<よく・ある>ための,ヒトがヒトとして<よく・生きる>ための,実践的対話を粘り強く続けること,それが「自然(と人間と)(不断の)弁証法(的運動)」の意味と意義でありましょう.

  たった1つの量子だって,1つの動力学的ハイパーサイクル・システムの究極の存在です.それは「作用する」ことにおける<素なるもの>であって,1つの量子が吸収/放出されることによって,そのシステムの運動状態が変化するわけです.世界は「作用する」ことができる量子たちから出来上がっているのですから,この自然の全体の,それぞれの部分が,全て「現在・活動中」のものなのであって,わたしたちは,そうした「現在・活動中」のモノの中で,それらを「活・用」することによってはじめて「活・動」することができます.かくして,わたしたちを構成する諸部分は全て,138億年間の進化の「生き残り」なのであって,それらのそれぞれが,この自然の「神的なイノチ」としての真なるロゴス(真実の法)に与っているのです.

自ら動くもの,すなわちそれが「動・物」の定義です.あらゆる動物は,自ら動くことによって他を動かし,他を動かすことによってまた自から動くことができるのです.それが諸々の「行い」の連環であり,ゲシュタルト・クライス(行為的連環)の存在なのであり,それが「諸『行』無常」のこの世の中の太古と変らぬ真実の風景です.

この自然の全ては,行為論的ハイパーサイクル・システムの存在,によって作り出されたものなのであって,あらゆる社会,多くの分子たちの作る共同体として,1つの細胞が成立し,多くの細胞たちの共同体として,1つの器官が成立し,多くの器官たちの共同体として,一つの個体が成立し,多くの個体たちの共同体として,1つの社会が成立しています.そして,今,地球上の人びとは,ただ一つの世界自由市民社会を,ようやく形成しつつあるのではないのでしょうか.

素粒子の究極のミクロの世界から,宇宙論の究極のマクロな世界に至るまで,その各階層の存在性格を決定づけるのが「動力学的ハイパーサイクル・システム」の存在です.そして,動力学的ハイパーサイクル・システムの存在を条件づけるのが,相互無危害性原理および相互善行性原理,自然のロゴス,の存在です.

わたしたちの衣食住の世界にも,ようやく「自然学の目」が届き始めたのが現代です.細菌や菌類,そして植物や動物は,現代の化学合成ではとてもつくり出せないような,精巧な化学機械装置とでもいうべきタンパク質複合体を使って代謝を行い,自己増殖し,その「存在のしくみ -化学的ハイパーサイクル・システム-」は進化さえもする,ということが明らかになってきました.私たちはいよいよ本格的に,自然から,自然のロゴスから,多くを学ばなければならない,また多くを学ぶことができる,その時に来ているのです.

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