古代・中世・近代における自然学の諸様相

 

ヨーロッパ  古代・中世・近代を経て,現代においてすらも,多くの人びとの信ずる「信念の体系」つまりその宗教においては,神(=世界精神)こそが,この世界を創造しつまりデザイン(設計,計画)した設計者であり,世界に原動力(神の一撃)を与え,そのロゴス(理論)にしたがって世界を動かし管理運営してきた,世界監視者であり世界管理者でありました.ヒトはしたがって,神がそれを命ずるままに,その命ずるところ=善,その命ぜざること=悪,として行動する他はなく,その命に反した場合においては罪され罰される,ということになっており,悪しき環境にあるときは神に救済を請い願う他はなかったのでした.

キリスト教の三位一体説の根拠が,実は,プラトンの『ティマイオス』です.新プラトン主義の始祖とされるプロチィノスが,プラトンの『ティマイオス』に啓発されて,自然の精霊つまり「光=純粋な火」が太陽から発して,人びとに降り注ぎ,その死とともに太陽へまた戻っていく,「神の国」=「魂の故郷」=太陽,であるとしました.これをそのまま受け入れたのが原始キリスト教で,要するに,神とはすなわち自然をモデルとしていて,精霊とはすなわち光(純粋な火,生命の根源として考えられた)をモデルにしていて,子とは自然におけるイノチあるモノの代表であるヒトをモデルにしている,それらは全く同一の自然の本質に与っている,父(自然)=(ヒト)=聖霊(),ということです.教会が当時の支配者層である自由市民階層に独占されるようになり,それが自然から遊離した地上の「神の国」として神秘化され聖化されて,神,神の子(=イエス・キリスト),そして聖霊の三位一体説に化けてしまったのです.

精霊==ヒトの魂,というのはなんらわたしの勝手な解釈などではなくて,今も人びとの信仰を集め続けています.ヨーロッパへ行くと,古い中世都市としての伝統をもっている都市には,結構な数の「精霊」教会があって,その屋根のテッペンには,十字架の代りに,「毛の長いタワシ」みたいなものがついています.それが「光の国」あるいは「神の国」(=太陽=「魂」の故郷)を象徴するイコン(icon)です.

キリスト教とそれが由来する古代ユダヤ教との違い,それはキリストというヒトを救世主(=神の子)として認めるか,認めないか,の違いだけです.キリストを予言者としてしか認めないのがアリウス派で,これは三位一体派に迫害されて中国に伝来し,唐の時代にはある程度は定着していました.古代・中世においては,どんな文化圏にあっても,自然=神,であったし,したがって当然のことに,ヒトは自然の子であり,その魂(イノチ,ココロ,ロゴス)もまた自然の産物に他ならなかったのです.

 

インド  インド仏教もまたこうしたネオ・ブラトニズムの影響を受けました.その典型が,阿弥陀仏=無量「光」仏=無碍「光」仏,です.西方浄土(それはたぶん,ローマ帝国でのキリスト教の栄華のパロディでしょう)の「存在」を説く浄土三部経,とくに『大無量寿経』は,ネオ・プラトニズムあるいはマニ教(キリスト教に似た教義,しかし善悪二元論を説く)の影響を受けて成立しているのは,ほぼ確実でしょう.『観無量寿経』は成立過程がはっきりしませんが,あるいは中国の道教の影響を受けて中国で成立したのかもしれません.その『観無量寿経』にも,赤色赤「光」,白色白「光」,・・・云々とあり,「光」が中心的なテーマとなっています.

さらに,密教系のとくに大日経系の教典において世界の中心は,大日如来=太陽神,です.ヒンドゥ教(インド教)は次第に,シヴァ(大自在天)とヴィシュヌ(他化自在天)という2大神に統合されていきました.それも結局は,自然の神格化,であったわけで,その頂点に立つのがヒトとしてのブッダ,というわけでした.しかし,ブッダもまた,ヴィシュヌの化身としてインド教に逆に包摂されていき,仏教はイスラームの侵略によってインドでは完全に滅びしてしまうのです.

 

中国  中国は「宋」の時代,世界最高の文明国でした.そこでは木炭による鉄の精錬が大規模に行われました.大森林は伐採され尽くし姿を消していきました.そのときに大量に生産された良質な鉄器,そして火薬を,武器に代えたのがモンゴルで,そうした大量の武器によって宋を滅ぼしたモンゴルは,世界を征服することができた,という次第です.

モンゴルが大量に武器を調達することができたのは,宋の北辺を略奪し,宋を脅して得た莫大な軍資金があったからで,宋の富が自らを滅ぼす武器に変って,自らを滅ぼすものとなったのです.武器は,自然を滅ぼすと同時に自らを滅ぼすのです.核兵器や危険な原発など,武器が人類の存続を脅かすというコトの本質は,古代から現代に至るまで,全く同じです.

昔だったら「国破れて山河あり」としゃれのめしていましたが,これは実は,真っ赤な嘘でしょう.古今東西,山河破れて国家(ポリス)滅ぶ,でした.中国古代文明だって,森林を伐採し尽くしたからこそ,治山治水がいわれるようになったのです.しかしほとんどの古代王朝はそれに失敗して,大水害を発生させ,それがイナゴの大発生を引き起し,大飢饉を引き起こしました.当然,飢えた人びとが蜂起します.それを武力で鎮圧しようとすれば,それこそ「復讐のロゴス」が澎湃として起ってくるのみでしょう.それが古代における大帝国の興亡の実相でした.

古代帝国を滅ぼしたのは,天災やら天罰やらの天変地異などでは更々になく,明らかに「人(為的)()」に他ならないのです.この「人災」が原因で,古代王朝は次々と滅んでいったのに,それを,天がこれを命じて支配者の姓を改める(易姓)「革命」である,と称した孟子などは,今でいえば,自然の神的ロゴスを全く知らない「単なる神秘主義者」といわれてもしかたがないでしょう.

 

日本,その他  日本神道では,江戸時代に「平田篤胤」が,キリスト教の教義(それは当然ネオ・プラトニズムの影響を受けています)を,全面的に取り入れてそれを「大改造(=捏造)」しました.これもまた「あまりにも有名な事実」です.したがって,いわゆる篤胤流の神道と,それまでの古神道とは,全く似て非なるものです.古神道そのものだって,中国伝来の仏教や道教の影響を強く受けて成立していますから,純粋に日本に固有な神道などというシロモノは,日本のどこを探してもありまえません.

エジプト神話における太陽神もまた時代とともに変容してきました.印象深い神話としては「パステト(Bastet)」神をめぐるものがあります.パステトはラー(自然神)の娘であり,もとはライオンであったが,その残虐さのため「憎しみ」の感情のみを抜き去られて,家猫の容貌となったといいます.つまり,「復讐のロゴス」(やられたら,やりかえせ,つまり,復讐の感情であるところの「怒りや憎悪」)を制御することによって,つまり,ヒトには危害を与えないものになることによって,ライオンは猫になり,結局,ヒトと共に暮らすことができるようになった,というわけです.怒り,憎悪,それらを増幅し,自らを滅ぼす道となるような,「武器よさらば!」が,神話として気付かれていた1つの証拠です.

「片手に剣」は片手にコーラン,つまり「力の意志」それを体現する武器,それのもたらす「死の恐怖」をもって,人びとにドグマを押し付けようとしても,もうダメです.むしろ,怒り,憎悪,武器を捨て,安全と平和,そして友愛において「よく・生きよ! でしょう.

 

不毛な普遍論争  鶏が先か,卵が先か.その正解は,どっちも先で,どっちも先でない,でしょう.鶏も卵も,1つの自然種の1つのライフ・サイクルの不可分な一部であって,ホントは不可分一体なのです.その分けられないものを,無理に分けてまで議論しようとするから,堂々巡りになって,ケリがつかないのです.

これと似た論争が中世にも延々とあって,個体が先か,その普遍(本質)が先か,という議論であり「普遍論争」と呼ばれました.ヒトという個体があるから,個体の普遍であるところのヒト種があるのか,ヒト種という普遍があるから,それに帰属するヒトという個体があるのか,というわけでした.

こうした個体と種の関係性を巡るパラドックスの解決は現代ではきわめて簡単なことでしょう.個体も種としての普遍も,1つの不可分な全体としてあるのであって,あらゆるヒトは1つの自然種に帰属することによって,そのままに全体として自然の一部にすぎないのだ,それぞれの個体が・その普遍としての種という共通の自然本性に与っていることによって,個体は・普遍的な種として存在することができるのだ,ということで,鶏と卵と同様に,簡単にケリがついてしまいます.

 

古代に発生し,「迷信」とともに中世を生き延びてきた自然学  イノチ,ココロ,古代的魂(=プシュケー)とは,現代でいえば,「光」のことにすぎません.プラトンが『ティマイオス』(キリスト教の教義のモトになった,ネオ・プラトニズムに影響を与えた著作)で,ヒトが思考するコトとは,光(古代ではそれは「非」物質であると考えられました)が,血液として頭部を回転運動すること,つまり循環運動することである,といっています.光とは現代では立派な物質(電磁場の振動,光子)として考えられていますし,コンピュータが思考することも,電子が回路の中を忙しく循環運動していることです.「観念(イデア)論」の始祖であったはずのプラトンでさえ,現代では,明らかな唯物論者であり,しかも無神論者でさえあるといわれるでしょう.

わたしのいう自然学およびメタ自然学,そしてエンゲルスの言う「弁証法的(=動的であるということ,と考えてよい)唯物論」は,「個々のモノ(静物,個体)のみが(静的に)ある」という類のいわゆる「静力学的な」という意味での「機械論的(mechanical)」唯物論でも,いわゆる物質「主義」でもありません.それは,この自然にあるモノどもつまり自然のモノは,単なる素材(マテリア)であるだけではなくて,その「魂」の属性として,運動性や作用性,運動のロゴスつまり運動法則性 -古代でそれは形相(イデア)と呼ばれました- を内在させるものと考えます.

したがって,自然のモノ,具体的にはヒトの身体, を離れて,ココロが存在する,というのなら,それは「真っ赤な嘘」であり,インチキ宗教家のいう「地獄や極楽のこの世の実在」を騙るのと同様の全くの「迷・信」にすぎませんでしょう.この世に,この自然の内に,神秘や不可思議などは全くありえません.

エンゲルスの『自然の弁証法』にも,当時のいわゆる自然「科」学者(たとえば,進化論を唱えたウォレス)が心霊術師にマンマと騙されて「完全に・嵌まっている」風景が痛烈に描かれています.ご注意なさいませ.目茶苦茶な「あの世」,インチキ宗教「屋」の狂った頭のだけにあるような「幻影」が,この世に,この自然に「もし」接続していたりしたら,この世の自然法則は,もう成り立っておらず,自然学者は全部廃業の憂き目に会いますよ.

自然の素材(マテリア)が,自然のカタチ(イデア,モノのイノチ,ココロ,プシュケー=古代的魂,東洋でいえばそれが「気」でしょう)作り出すつまりイノチやココロを自然において創造することのできる原理,それが動力学的ハイパーサイクル・システムの普遍的存在だ,というのが拙論の骨子です.今や「日の下に新しきものなし」と断言できます.

日本でも,自然学の伝統に連なる人びとがいました.安藤昌益,富永仲基,片山蟠桃,三浦梅園などがそうです.彼らは,江戸時代,見かけは自由な町民風ではありながら,しかし結局は,「無知と野蛮」による支配に服していた(つまり武士階級にシッカリ支配されていた)時代に生きた,町民としての「異端の思想家たち」でした.その根底,底流には,いわゆる自然法,自然のロゴス,が脈々と生きていたのです.

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