プラトンの自然学
自然の「まねび」としての自然学 自然学=physics=自然が<する>「よき・行い」のヒトによる「まねび」,というお話をさせていただきました.それは決してわたしの独断と偏見によるものではなくて,自然,ピュシス(physis)とは,ギリシア語「産みだすもの」の意であり,それは能産的自然であり,わたしたちを産み育くむという「行い」を<なしうる>ものだったのです.また自然学(physics,ピュシスのロゴスの「まねび」)は,自然およびその自然のロゴスについて書かれた書物を,ギリシア語で「ペリ・ピュセオース」(自然について)と呼んだことに由来しています.多くの古代ギリシア人たちがこの題名で,自然を論じました.その中で,もっともまとまった書物の一つが,プラトンの書いた『ティマイオス -自然について-』です.それを継ぐものが,アリストテレスの『自然学』です.
わたしの持論は,素粒子たちからなる極小のミクロコスモスから,星々や銀河たちからなる極大マクロコスモスに至るまで,つまりこの世界の全体は,ミクロやマクロの動力学的ハイパーサイクル・システムで満ちていて,それらが全て「慨」周期的循環運動をしている,この自然は動的ニある,「活・動」している,それが,[1つの論理的原子=1つの動力学的ハイパーサイクル・システム]論とわたしが呼ぶ「ただ1つのモデル」で記述できる,というもので,それを「メタ自然学システム(自然のロゴスの,その背後に潜むより本質的なロゴス・システム)」と呼んでいます.それがわたしの「自然学およびメタ自然学の探究」です.
ティマイオスの夢 「ティマイオスの夢」は,プラトン『ティマイオス -自然について-』の私なりの解説で,その最後に,プラトンを代弁するティマイオスなの人物が,この「ただ一つの善美なる自然(世界)」を讃える場面が出てきます.これを読むと,プラトンがいう「魂」とは実は,現在でいうところの「光」であることがわかります.したがって,「魂」の循環運動とは,そのまま「光」の循環運動なのです.
太陽(光の国)から出た光が,地上に降り注いで,それが人びとの血液に宿って,ヒトの「魂」として活動することが,ヒトの生命活動の自然本性であると考えられたのです.ヒトがその頭で「思考する」こと,それじしんが,「光」(=純粋な「火」)を宿した血液が,頭部を循環運動すること,だったのです.古代の人びとは,血液が「赤い」のは,そこに「火」の純粋なものである「光」が宿っているからだ,と考えました.そして,純粋な「火」を宿した血液の循環運動が,ついに停止して,そこに宿っていた「光」すなわち「魂」が解放されて,また光の国に帰還する,それがヒトの死である,と考えられたのです.
プラトンの考え方は,古代自然学者ヘラクレイトスが,「火」をもってして,自然の万物を産み出しまた滅ぼすもの,と考えたことの,その延長上にあるのです.プラトンの自然学もアリストテレスの自然学も,ミレトス学派にはじまる古代自然学とりわけ古代原子論の影響を強く受けて成立しているのです.
プラトン『ティマイオス』は,神の聖霊=光,という考えかたによってヨーロッパにもっとも大きな影響を与えた自然観でした.同様に,ゴータマ・ブッダによってはじめられたといわれる原始仏教もまた,古代の自然観を反映しており,東洋には最も大きい影響を与えてきました.
この二つには,今にして思えば,驚くほどの共通点があります.それは,ギリシア古代におけるデモクリトス/エピクロスによる古代原子論であり,インド古代においてはアビダルマ仏教です.古代原子論やアビダルマ仏教における論理的原子論の萌芽が,現代的論理的原子論として見事に復活をとげて,それがいわゆる現代の「技術システム」とりわけ「情報理論」を支えていることは,誰もが知っていることでしょう.
パルメニデスの謎,自然の事物の自己同一性と自己「非」同一性との相剋 1が「永遠に」1であるのか,あるいは1は永遠に1では<ない>のか,つまり現在の1が1でなくなるとき,すなわちこの世界,わたしたちがその内に住むこの宇宙,がついに消滅するようなときが来るのだろうか? ということは,プラトン以来の「難問(アポリア)」でした.
具体的にいうと,地球上ではいかなる1つの個体(イキモノ)も,生まれて滅する(死ぬ)ことには,いかなる例外もありえません.しかし,この1つの大地に支えられた世界そのもの,あるいは天上に輝く星々たちは,それぞれが1つの個体であり続けることができるように見えます.つまり地上では1は永遠不変ではなく死すべきものであり,天上では,あるいは大地それ自身においては,1はヒトの短い生にとっては永遠に1であるかのように見えます.
さて,不死なる天上の星々たちそしてこの1つの世界と,地上の多くの死すべきものたちとを,つまり,永遠不変な天上の1者たちと,生成運動変化消滅する地上の1者たちとを厳然と分け隔てているものは,一体何か? 「死すべきモノとしてのイノチ」と,「不死なるモノとしてのイノチ」の別が,ひょっとして<ある>のではないのか?
それが当時の人びとには解くことができない「難問(アポリア)」だったのです.プラトンは,それを,1なるイデア(それは永遠に,1=1,であるハズ)の存在,として発見し,また難問を解決しえた(と思った)のです.
より正確にいうと,1者は永遠に1者である,と主張したのはパルメニデスです.<ある>は<ある>,<あらぬ>は<あらぬ>,つまり,神的な(永遠不変な)ロゴス(コトバ,記号)の自己同一性,の主張です.コンピュータの原理であるブール代数でも,1は<ある>,0は<ない>に対応させられていることはご存じでしょう.「数」とよばれる記号システムの永遠の自己同一性から,現代の「数・学」は成立しています.現代では,数学こそは,真実のロゴス(コトバ)である,永遠の真理である,と思われています.
しかし実際,この自然の現実においてはどうでしょうか.イキモノが誕生する,ということは,そこで<ない>ものが<ある>ものになることであり,0が1に<なる>ことです.イキモノが死滅する,ということは,そこで<ある>ものが<ない>ものになることであり,1が0に<なる>ことです.生成するということは,0⇒1,消滅するということは,1⇒0,です.この自然においてはいかなる1も永遠に1では<ない>し,0もまた永遠に0では<ない>のです.この世の全てのイキモノが「死すべきモノ」である限りは,このことこそは真理であり,事実でしょう.
するとどうなりますか? 神的なロゴスは「実は」真理ではなく不老不死の妄想と同様に単なる「夢」なのであって,「死すべきもの」としてのロゴス,「諸行無常」,それこそが真理である,ということになりませんか?
数学は真実では<ない>のでしょうか? もし真理ではないとすれば,数学にその「厳密さ」を依拠する現代諸「科」学は,その一切が真理では<ない>ものによって,自分たちは真理である,と「空威張り」しているにすぎない,ということになりませんか?
この古代からの謎,パルメニデス以来の難問は,自然そのものをより忠実に映し出すことができる「自然の鏡」としての現代メタ自然学によって,ようやく解明されはじめたばかりなのです.