論理的原子論の起源

 

古代原子論の誕生  古代から,4大,火=運動(エネルギー),空気=気体,水=液体,土=固体,がミクロ領域からマクロ領域に至るまで,極微のものから極大のものに至るまで,「慨」周期震動,「慨」循環運動(往復運動を含む)を「行っている」ことは,デモクリトス,エピクロス,ルクレティウス等の少数の人びとにはすでに気づかれていました.しかし,20世紀の現代に至るまで,大部分の人びとはそれを信じませんでした.原子の運動状態であるところの「慨」周期運動や「慨」循環運動が,この自然の全てを作り上げている「原動力(デュナミス, dynamics)」であり,自らが自らを自らにおいてカタチづけることができ,その試行錯誤の過程において結果論的にではありますが,自らのあるべき姿をデザインし,そのカタチを実現することができる,つまり進化することさえできる,そのこと,が実証されたのは,ようやくわたしたちの「この・現代(20世紀後半)」つまり「われらが時代」においてはじめて,なのです.

古代的原子つまり<不可分なるもの>(アトム,atom)とは,それを「数える」ことができる離散的な個体のことで,古代的空虚つまり<空なるもの>(ケノン,kenon)とは,それを「量る」ことができる連続的な媒質,火とか空気とか水とか土とか,のことです.あらゆる自然現象は,多くの<不可分なるもの>である諸原子たちが,ただ一つの<空なるもの>である運動の場(空虚)において生成・運動・変化・消滅していく風景として,これを総括することができます.

いわゆる「雰囲気」というのは,絵画における「地」つまり背景のことしょうが,それはまた古代的な<空なるもの>の絵画的表現のことでもあります.<空なるもの>は,熱的あるいは量子的な「ゆらぎ」と呼ばれる雑多な運動から成立しているのです.<空なるもの>とは,それ自身がミクロには運動しておりしかも同時にマクロには静止している(と見える),という矛盾(ミクロな「運・動」性とマクロな「静・止」性という反対概念の同時的存在)に満ちた存在なのです.

そして,そこに描かれる対象である「素なるもの(点,線,面,3角形等々)」としての「図形」が,古代的なロゴス的に<不可分なるもの>なのです.多くの「図形」が集合し結合しあって最終的に「一つの物」つまり1つの個体としての<不可分なるもの>の,その絵画的表現を形作っていくのです.「描く」という「行い」は,素なるものとしての諸図形を,ヒトがそれを「描き」またそれを「組み合わせて」そこに1つの個体を「再」現<する>という「行い」から成立するヒトの営みであるといえます.

また,画家が描こうとする対象を,キャンバスの上に「再」現<する>ために使う(自分自身をも含めた)道具,それがすでに「オルガノン・システム」と呼ばれる「メタ自然学」的存在者なのです.メタ自然学とは,自然をヒトのロゴス的営み(典型的には思考作用)のうちに「再」現<する>ための「オルガノン・システム」の探究,なのです.自然を忠実に再現しようとするならば,自然のロゴスを体現した「正しく・確かな」再現の技法が必要です.それが,わが「オルガノン・システム」の存在であり,それを一般化したものが,わがいうところの「技術システム」なのです.

 

イキモノとしてのロゴス的に<不可分なるもの>とロゴス的に<空なるもの>  古代の人びとにとって,文字はある種の「神的な(永遠不変な)」イキモノである,と考えられたのです.たとえば,「リンゴ」という文字列をとってみましょう.「リ」「ン」「ゴ」という文字列は永遠に「リ」「ン」「ゴ」です.しかしこの「リ」「ン」「ゴ」というそれぞれの「文・字」はほとんど意味をなしません.しかし,「リンゴ」となるとどうでしょう.それは俄然具体的にリンゴという果物を指示し,また「リンゴ」の本質である「甘さ」とか「よい薫り」とかを彷彿とさせませんか.つまり「リ」「ン」「ゴ」という文字は結合しあい「リンゴ」という文字列を形作ることによって,そして,わたしたちがそれを「読む」ことによって,俄然「活き活き」としはじめます.

また,「リンゴ」という文字列は永遠に「リンゴ」です.1つの文字は「1つの図形」としそれを見た場合には,全く不変であり,また「記号列」そのものとして見た場合には永遠です.つまり,「リンゴ」という文字列はまるで「不死なる(=神的な)イキモノ」のようではありませんか.むろん,このイノチは,わたしたちがそれを「読む」という「行い」によって,その文字列にいわば「吹き込まれる」のではありますが.

これに対して,「リンゴ」が意味指示するもの,「この・リンゴ」とわたしたちが発話する際にそれが具体的に指示するモノとしてのリンゴは,永遠不変であるどころか,食べればなくなるし,ほったらかしにしておけばいつかは腐ってしまうでしょう.個々の具体的なモノとしてのリンゴ,イキモノとしてのリンゴは,それこそ諸行無常です.ここに個体である変化するモノであるリンゴと,普遍的かつ永遠の記号列である「リンゴ」との対立が現れるのです.異なる時刻をt1t2とすると,個体としては,リンゴ(t1)≠リンゴ(t2),ですし,文字列としては,「リンゴ」(t1)=「リンゴ」(t2),です.個々のリンゴは明らかに死すべきモノですが,リンゴのもつ普遍性が「リンゴ」という文字列の普遍性に,そのまま象徴されていると古代の人びとは考えたのです.

結局,古代においては,「リンゴ」という文字列それ自身が,生成・運動・変化・消滅する個々のリンゴたちの,いわば永遠不変なココロ([]Sinn,意味)としての普遍性を宿している,神的なイキモノである,と考えられることになったのです.つまり,個々のリンゴは「リンゴ」という文字列が宿すであろう「永遠不変なココロ」に与る(それを分有する)から,暫定的にせよ,仮初めにせよ,リンゴ<である>ことができるのであって,個々のリンゴは生成・運動・変化・消滅するのだが,しかし,個々のリンゴの共通の本質でありそのココロとしての「リンゴ」性は永遠不滅であろう,と.

このようにしてみると,篆刻の文字は,それじしんがまるで毛が生え頭と手足と尻尾をもつイキモノのようではありませんか.マヤ文字もまた,それじしんがイキモノ(動物)のように見えるではありませんか.

 

イオニア自然学から古代自然学への道  ルクレティウス『事物の本性について』(本文,私の注釈),『ギリシア自然学(初稿)』を整理して発表する予定にしています.イオニア自然学から,その古代原子論としての完成,へ至る過程までは,ほぼこれで尽くせるでしょう.

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