共生と共進化

 

<不可分なるもの><空なるもの>とは共に進化する  論理的原子論と多階層的動力学的ハイパーサイクル・システム論によれば,よりミクロな領域における多くの<不可分なるもの>が,その存在環境であるところの1つの<空なるもの>において相互無危害性と相互善行性関係を充たす運動や相互作用を行う場合においてのみ,かれらは動力学的ハイパーサイクル・システムを形成し,よりマクロな<不可分なるもの>となってマクロな存在の階層に出現することができる,ということが証明されました.したがって,「もし」1つの動力学的ハイパーサイクル・システムを構成するたった1つの要素において,たとえば突然変異によって微小な進化が起こる場合には,その1つの動力学的ハイパーサイクル・システムの「全体」が進化することができなければなりません.つまり,共生することができる,ということは共進化することができる,ということに他ならないのです.

  しかも,多くの<不可分なるもの>としての動力学的ハイパーサイクル・システムの進化は,動力学的ハイパーサイクル・システムじしんの存在が環境から自由エネルギーを取り込んで(同化して)消費する(異化する)ことによるのですから,それを取り巻く環境としての<空なるもの>をも変化させずにはいられません.したがって,動力学的ハイパーサイクル・システムとしての諸個体の進化は,その存在環境としての<空なるもの>の進化をも伴うことになります.実際,この地球上における藍藻類の発生,つまり葉緑素をもつものへの生命の進化は,大気中の2酸化炭素のほとんどを酸素に変えることによって,地球環境をも決定的に変えてきたのでした.

 

個体とそれが帰属する共同体とは共に存在し,共に進化することができる  わたしのいいたいことは,多くの動力学的ハイパーサイクル・システムすなわち諸個体の<なす>ところの多くの「行い」によって,すなわち論理的原子たちの「存在」によって,この自然のあらゆる事物が成立している,という「ごくごく・あたりまえ」のことです.実際,わたしたちは,毎日毎日,自他に対して何事かを「行う」,そのことの積み重ねによって,わたしたち自身とその存在環境とを毎日毎日,「再」生産することができて,それによって「生きている」ように,自然の全事物が,そうである,ということです.

例えば,クモの糸,それはナイロンのようにタンパク質からできていますが,それは金属よりもよほど強固なシロモノなのです.ミクロコスモスでは,そうした「きわめて固い」タンパク質が多様なカタチをもっていて,それぞれが相互作用しあって,ぶつかりあって,それぞれのイノチがもつべき諸機能を果たしているので,多くのそれらを統合する1つの細胞や,さらに多くの細胞たちを統合する組織や器官すなわち有機体(オルガノン)としてのイノチ(機能)が成り立っているのです.

そうしたタンパク質たちが十全に機能する,その原理が,相互無危害性原理(相互安全性)および相互善行性原理(相互最適行動性),すなわちそれをヒトの社会関係性の階層でいうと,自由・平等・友愛です.それが,共同体の中で,それに帰属するモノどもが共生することができる,ということ,自然と・共に・よく・生きる,ということです.みんなが傷つけあうことなく(安全,平和),お互いが世話しあって(友愛,共生),生産活動に(強制されるのではなくて)自発的につまり自由に協力しあうようでなければ,いかなる共同体も,長持ちするはずがありません.

細胞内レベルに戻ると,もし,タンパク質が相互に傷つけあう(破壊しあう)事態,相互に助け合うことができないような事態になったら,それが1つの細胞の機能の不全を引き起こすでしょう.それがイノチあるもの全て,この自然のモノ全ての,老いであり,病であり,死です.

 

あらゆる生態システムの諸階層において存在する,共生と共進化  生態システムの中には,共生と共進化の事例が多々見られます.そもそも,真核生物(わたしたちの「細胞」を構成するもの)自体が,多くの原核生物(細菌)の共生体です.真核生物は,実際,ミトコンドリアと共生することによって,その呼吸機能を取り込むことによって,酸素呼吸を行うことができます.

ミトコンドリア自身の存在は,約10億年以前,嫌気性の真核細胞が,酸素呼吸をはじめるきっかけとして,好気性の原核生物(バクテリア)をその細胞内に共生させることに成功したのが,そのはじまりだ,といわれています.太古の地球は高密度の2酸化炭素に覆われていて,そこに生命が発生しましたが,藍藻類が光合成をしはじめて大気中に酸素が急激に増えたので,嫌気性バクテリアやそれを食って進化してきた真核生物たちは,大絶滅するような危機に陥ったのです.そうした危機を乗り越えることができたのが,好気性バクテリアを共生させことによって,それに酸素呼吸作用を行わせることに成功した真核生物でした.結局,ミトコンドリアと共生することによって酸素呼吸を行うことができた真核生物から,現存するすべての多細胞生物が発生することができたのです.

このように,わたしたちを構成する真核細胞それじたいが,バクテリアの集合態でありその共生態である,ともいわれています.太古から,生物たちは,共に助け合って,共同体というよりは,多くの協働態を作ることによって相補いあって生き延びてきたのです.うまく自然と共生できたグールプあるいは集合が生き残ってきたのです.多くの小さなものどもが共生することによって,より大きなものを作り出し,また,その環境適応力によって,価値「再」生産システムの効率性によって,他を圧倒して生き残ることができたのです.

わたしたち真核生物は,多くの細菌の共生の結果であり,それらとの共進化の産物です.共進化することができる動力学的ハイパーサイクル・システムのみが生き残ることができます.

さらにわたしたち多細胞生物は,多くの細胞の共生体である組織,そして多くの組織の共生体である諸器官,そして諸器官の共生体です.それらが共進化することができなければ,わたしたちは進化できなかったはずです.具体的にいえば,わたしたちが2足歩行するように進化するためには,手足の構造と,それを制御する脳神経ネットワーク・システムとが共進化しなければならなかったのです.

  共生と共進化のロゴスは,個体や種という限界を越えて機能することができます.たとえばリスは木の実を集めて,それを冬のために穴に蓄えておく習慣があります.これは一方的な捕食関係ではなく,食べ残された木の実が,やがて発芽して再び実を結ぶようになれば,それは種にとって分布を拡げることができたわけで,そこにはリスにも,リスに食べられる木の実を結ぶ植物にも,まったく意識されない,「正の・ハイパーサイクル・システム」つまり共存共栄のロゴスである相互無危害性(安全性)と相互善行性(最適性)原理の存在があるのです.

  さらにいえば,単なる捕食関係つまり「負のハイパーサイクル・システム」と見えても,それは相互善行性に支えられた「正の・ハイパーサイクル・システム」であることがありますし,また「正の・ハイパーサイクル・システム」に変化することができることがあります.例えば,文明発生以前の古代において,わたしたちの祖先が動物を捕獲したときに,それを全部殺すことなく,残しておいたとします.それらが繁殖して子を生めば,これはすでに牧畜の成立です.さらに,彼らが飼育していた動物たちの食物を栽培するようになれば,それが農耕のはじまりです.おそらくこうした動植物との共生が,採集から農耕へ,狩猟から牧畜へ,の変化であり,農耕革命を引き起こした当のものです.すなわち,ダーウィンのいう「自然選択力」とは,こうした共生のロゴス,共進化のロゴスに他ならなかったのです.

 

雌雄の共生と共進化  雌雄の「共・生」は,今もなお生物学者を悩ます謎ですが,多分,寄生体を排除し,種としての安定性(安全性)を確保するために発達した「しくみ」ではないか,と考えられます.要するに,はっきりと健全であると示すことができるような配偶者を「のみ」選択して配偶活動,自己増殖活動,を行うことができれば,性選択が健全な個体を選択することであれば,その種としての存在の安定性(安全性)を高めることができます.

寄生体が寄生しているような,病的な相手を間違って選択して,結局は,その種全体を滅ぼすような危険な真似をしなくても済むなら,それに越したことはありませんからね.ちょっと色気のない話ですが,雌雄は要するに,自然な本能によって好みの相手を選ぶことによって,その共生関係である雌雄関係をお互いに強めあって,自らを強固な協働体として,種を「再」生産することができる本質的な「しくみ」として,それを維持しているのでしょうね.

 

共生と共進化こそ,種の進化のロゴスである  今西進化論も,スペンサー流のマルサス人口論をモトにした生存競争による進化論も,双方が,いろんな誤解を生んできました.ネオ・ダーウィニズムに代表される現代進化論も,ずいぶん変わりましたよ.もうそれは,自発的種の進化論,いわゆる「共生の環」の進化論,関連する種が生態システムとして次第に進化していく,ことと全く矛盾しません.結局,対立しているようで,みんな同じような考えかた,に収斂しつつあるのです.

エンゲルスも,いわゆる「共食い」や「生存『闘争』」を進化の原因とするような,自由競争論,などに立っているのではありません.彼は,階級間の「諸矛盾」が社会進化の原動力であるというのみであって,それは「矛盾」を力でもって,つまり内乱やら戦争などの「殺し合い」でもって解決する(結局は,何も解決しない,むしろ悪化させる)ような「蛮行」をいうのではありません.むしろ,諸矛盾を合理的かつ平和裡に解決しようと指向する諸運動や諸作用,つまり問題解決行動こそが,進化の原因に<なる>ことができるのです.

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