死の商人たち

 

この間の対話の「おかげさま」で,自然,そして自然の内なるヒト,をかくも苦しめ,「貧困と野蛮」の中へ押し込めてきたのは,「血の復讐のロゴス」であることが明らかになったと思います.「血の復讐のロゴス」は,実は,生態系では「しっぺ返し」と呼ばれるESS(Evolutional Stable Strategy),それは種の生存のための最適戦略でした.しかし,ヒト種がこれだけ地上にはびこって,生態系の頂点に立ってしまったからには,「自滅」を避けるためには,あらゆる人びとの,心の奥底に潜む「死の恐怖」とそれに基づく「血の復讐のロゴス」を徹底的に撲滅しなければなりません.そうしないと,もうヒトの未来はきわめて危うい,と思うのです.

しかし,いわゆる戦闘的ウヨクは,未だに戦争を美化することによって「血の復讐のロゴス」を正当化しようとします.いわゆる戦闘的サヨクは,いまだに革命という名の実は単なる叛乱と独裁を美化することによって「血の復讐のロゴス」を正当化しようとします.これじゃもうどっちもダメでしょう.

原爆・水爆(いまや,原発もそれに加わってしまった),そして化学兵器や生物兵器がいとも簡単に作れてしまうようなこの時代において,どっちも,もう自滅への道であることは,あまりにも明らかです.あくまで,相互無危害性と相互善行性のロゴス,自然のロゴス,自然の全存在の自由・平等・友愛・平和の根源的原理,に立ち戻って「再」出発しなければならない,と今改めて思うのです.

その昔,某軍需産業大手の「偉い人」の部屋に入ったことがあります.彼は不在だったが,その部屋には奇妙なコレクションが充満していました.マムシ酒やらハブ酒どころか,ネズミの腹子(胎児)の老酒漬けやら,いわゆるゲテモノばかりのコレクションでした.髑髏杯もありました.明らかに人骨とわかるものの上にたっぷりと銀がはめ込んであり,それなりに豪奢な,見事なものであり,それはいわゆる立派な美術品でした.秘書さんはそれと知らずに毎日それを磨かされていました.こんな悪趣味な連中が支配する会社の武器が世界中で今人殺しをしているのですよ.このグロテスクなコレクション,それが「死の商人」の,いわゆる「立派な感性」の賜物なのです.そこには「イノチの輝き」どころか,「死の匂い」がするではありませんか.

髑髏杯には,多くは戦争(戦闘)で恨みを呑んで死んだ戦士の頭蓋骨そのものが使われました.親族が殺された場合には,それを髑髏杯にして,復讐心を忘れないようにするのです.それこそ,臥薪嘗胆,というわけです.敵が死んだ場合には,それによって復讐心を満足させるわけです.髑髏杯とは,「血の復讐」のロゴスそのものの象徴であって,それそのままに,滅びに至る道の象徴なのです.

アメリカでは武器が簡単に手に入るから,いろんな大量射殺事件がおきています.ヨーロッパもやはりそうです.日本が例外的に平和なのは,猟銃すらも規制されているからでしょう.それですら,猟銃をもちだした発砲事件が起きるのです.ヒトはみな「血の復讐」のロゴスを宿しているのであって,発狂せぬまでも被害妄想とやら,いささかの不条理を感じるだけで,短気な奴はすぐ武器をとることになるのでしょう.

部室に「武器」ともいえないようなチンケな角材を持ち込んだ連中のことを,もう忘れたのでしょうか.警察はそれを「凶器」とすら呼んで弾圧したではありませんか.それも結局は,武器がもたらす「滅びへの罠」にマンマとはめられていたのです.

知らず知らず,天の則に従う,とかは6070の枯れ切ったそれこそ独善ジイサンのいうことです.積極的に,武器よさらば! に越したことはないですよ.

煙草だって「死の商人」がもたらしたものでしょう.当人が「よい・趣味」だと思い込んでいるから,たとえ家族がそれを諫めたとしても,ヒトそれぞれの感性の輝きだ,イノチの輝きだ,などと屁理屈をつけて,なかなか止められないわけです.かといって,友人が,「死の匂い」を「イノチの輝き」と勘違いしている(と私には思える)のを,諫めないのもとっても後味が悪いものだから,あえて言うのだが,「悪・趣味」はもうそろそろ止めたようが余程よいと思います.

廟は,氏族のうちの豪族,後の王侯貴族,そして皇帝へと昇っていく人びとの「祖先祭祀」からでてきたものです.それがいわゆる庶民にまで広範になったのは,明や清以後のことでしょう.そうした墓つまり死者たちの家を「飾る」ことを商売にするような「死の商人」もまだまだ多いようですね.

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