言論空間における自由のありかた
ヒトの行為が,自由であること,の必要条件を,原点に立ち戻って,ここでもう一度整理してみましょうね.
現実的自由の最低条件: その行為が,自他に対して無危害であること,相互無危害性一般,つまり,価値破壊的でないこと.
現実的自由の付加条件: その行為が,自他に対して善行であること,相互善行性一般,つまり,価値生産的であること.
言語行為だって,ヒトの行為の一種です.したがって,これは言説空間,言論空間においても成立しなければなりません.そうなるとどうなりますか.
言論空間の自由の最低条件: 他者を傷つけるコトバ,とくに差別的言辞すなわち不正は許されない(バカ,とか,チョン,とか).虚偽もまた不正であり許されない(お前の母ちゃんデベソ,とか).これは,コトバの価値を破壊し,対話を無意味にするどころか,「怒り」により「復讐」の感情を呼び覚ますでしょう.
言論空間の自由の付加条件: そのコトバが極力,自然学的に正しく,自然学的に確かであること.その理論が自然のロゴスにおいて「正しく」,かつ,自然において「確かな」事実に基づいていること.つまり,お互いに価値ある情報を与え合うことで,価値生産的対話が成立する,ということです.
これらがあってはじめて,言論の自由,ですよ.日常的な対話や議論でも同じでしょう.差別的言辞で罵り合いになったり,虚偽の応酬で騙し合いになったりしたら,言論空間もまた,「血の復讐」のロゴスによって崩壊します.それ以前に,コミュニケーションが成立しない,だけのことでしょう.
日常会話を考えてごらんなさい.まず,無害な会話から始まります.「よいお天気ですね」,「まったく」.それから本題がはじまります.「ところで,あのキノコは・・・」,「ホホウ,食べられますか」,といったわけで,有意味な情報,何らかの価値ある情報,をお互いに与え合うことができる,有意味なコミュニケーションが成立する,ことになるわけです.
中国は,言論の自由がまだありません.それを「悪・用」して,さらに延々と「日本の侵略」を教育してきたから,大都市はともかくも,いったん事があると,地方はまだ危ないと思います,「資本『主義』の権化」みたいに,ヨーロッパにおけるユダヤ人のように,攻撃の的にされると思います.よくよくそうした地理・歴史的背景を研究してからでないと,「貧困な」よって賃金のより安いであろう,地方への進出は,とても無理ではないでしょうか.