資本「主義」と人間「主義」
「主義」あるいはイデオロギーにうさん臭いものを感じるとしたら,それこそは結構なコトバ感覚です.コトバはキチンと定義して使いましょう.「主義」というのは福地桜痴のismの訳語ですが,これはいい訳ではないのです.ほんとのismって,「学派」って意味で,その学説を学ぶ人びと,あるいはその学説を「信念の体系」にしている人びと,という程度のことなのに,Marx-ismというとマルクスを神のような絶対者として崇め奉る党派の人びと,いわば狂信者の集団,カルト,のように思われるようになってしまいました.
福地桜痴の訳語の意味をそのままとると,お金(資本)が「主」で,人間が「従(道具,手段)」なのが,いわゆる資本「主義」capital-ismです.人間が「主」でお金(資本)が「従」なのが,いわゆる人間「主義」human-ismです.
さて,賢明な経営者だったら,会社では,ヒトを雇いヒトを生産手段の一部として働かせて,お金儲けに専念しているはずでしょう.またそうしなければ儲かるはずもありません.儲からなければ会社が潰れるだけです.したがって賢明な経営者は,お金儲けを追求するでしょう.それが資本「主義」的行動様式です.
しかし,その半面,賢明な経営者だったら,キチンと給料(お金)を払ってヒトを大事にしなきゃ,働いてもらえないことを知っているはずです.つまり,ヒトを主にしてお金をその従つまり手段にしなければ,働き手を失って,これまた経営がままならなくなるでしょう.したがって,賢明な経営者だったら,雇用する労働者に対しては,どうしても人間「主義」的行動様式をとらなければならないでしょう.最低賃金までけちって(つまり不法,不正に)儲けに専念したりすれば,それこそ「復讐のロゴス」が発動し,監督官庁から行政指導を受け,またいつかは労働争議が起って,会社が潰れるだけでしょう.
結局,賢明な経営者だったら,資本「主義」的行動様式と,人間「主義」的行動様式をうまく使い分けているはずです.もっとも,これをご都合「主義」とか折衷「主義」と称する場合もありますが.
個人を含め,家族,氏族,あらゆる組織は自分自身を大事にし,その組織内では,相互無危害性および相互善行性原理,最大限の自由・平等・友愛・平和を指向しています.しかし,その組織の外部との競争となると全く話は別になってしまうのです.相互無危害性および相互善行性原理が侵犯されれば,より大きなイキモノ同士,家族同士,組織同士,はては国家同士の闘いが起き,自由はより大きな支配に,平等はより大きな差別に,友愛はより大きな憎悪に,平和はより大きな戦争に変わってしまうでしょう.そうならないために,あらゆる組織間の相互無危害性および相互善行性原理,より大きなイキモノたち相互の自由・平等・友愛・平和な存在様式をもった「新たな存在の場」が求められるでしょう.現代の世界では,諸資本(組織)の「存在の場」が(資本,信用,商品,等々の)市場がそれですが,その秩序はいかにも脆いもので,それこそお金儲け「主義」と人間(組織)「主義」との間で振子のように揺れ動いて,それが不安定さや危機を絶えず作り出しているのです.
今どき,自浄作用,自己反省によって自らを浄化しようする意志,それこそ自性清浄心をもたないような巨大組織は,もう生き残れないでしょうし,そのような世界になってほしいものですね.