資本とは何か
資本とは,単なる貨幣としての富のことではなく,ある程度以上の大きさがある富,とマルクス自身が既に言っています.家内工業的なもの,個人的資産くらいなら,あくまでストック(蓄積)された富であって,それらを一々資本「主義」的蓄積とまでは全くいえません.それどころか,あらゆるイキモノは,環境変化に備えて,必要にして十分なストックを持たないなら,決して生き延びることはできません.現代では「お金(貨幣)」の量に代表されまた象徴されもする「富」,それがあらゆる階層の人びとの再生産の基礎であり道具であるのは,ヒト文明発生以来,貨幣発生以来,いつの時代でも変わりはなかったのです.
しかし,ほんらい富とは,ヒトがこれを使うものであって,ヒトに一方的に使われるだけの,いわばヒトの奴隷だったハズのものです.それがいつしか多くの人びと(労働者階級)を「時間奴隷」として顎でコキ使う「主人」になってしまったのです.社会の「主人」=「(大)資本(家)」=「(大)ブルジョア(階級)」,ということです.資本「主義」社会とは,富が「主人」で人間が「奴隷」としてそれに使われている社会のことにほかなりません.
イギリスでは,まずは毛織物工業の発展で,農地の囲い込み運動によって「ヒツジがヒトを食う」現象が出始め,さらに,産業革命の進展によって生じた富の蓄積によって,いわゆる資本「主義」的生産,つまり「富が人を食う」現象が出始め,ここに労働者「階級」といえるような人びとが大量に発生しました.資本主義勃興期における悲惨な状況は,エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』参照のこと.資本主義とは一種の「全社会的」な現象のことなのです.
マルクス,エンゲルスが高く評価しているのがフーリエです.そのフーリエに「豊かさが貧困を産む」という命題があって,彼が注目しているのは,フランス革命において「大」ブルジョアが果たした役割です.君主制とは,それは第1の階級としての貴族階級の支配であって,それは第2の階級としての教会僧階級に支えられていました.それがフランス革命によって倒され,第3階級である市民階級のそのうちの「大」ブルジョアが,彼らにとって代わったのです.彼は,支配者階級すなわち社会の「主人」の交代,に注目しているのです.少数の支配者たちにとってのみの「豊かさ」が,大多数にとっての「貧困」の上に成立している社会,それが当時のフランスだったし,フーリエにとっては,大多数者の貧困の度合いは,少数者の豊かさの度合いに比例する,とさえ思えたのでした.少数者が豊かなればなるほど,多数者はそれに比例して貧しくなる,という現象が資本「主義」社会なのです.
日本でもそうでした.明治維新によって幕藩体制が崩壊して,三井三菱などの政商が,かの悪名高い「財閥」となって支配者層を形成していきます.明治維新をブルジョア革命であるか否かで,いわゆる「講座派」と「労農派」が延々と論争をやりましたが,実際には,天皇「家」を中心として薩摩長州の士族層とそれに繋がる政商たちいわゆる財閥が支配者階級(社会の「主人」たち)を形成していくわけです.
アリストテレスの定義によれば,ただ一人のみが自由で社会の主人であるのが王政(独裁制)であり,少数のみが自由で社会の主人たちであるのが貴族政(寡頭制)であり,大多数が自由で社会の主人であるのが民主政(大衆制)です.さて,今,社会を「支配している」はずの,その「主人」とは,一体誰でしょうか? 世の人びとは一体「誰の」奴隷になっていて一体「誰の」ために苦労して働いているのでしょうか?
たとえば「もし」私が江戸時代の小作だったりしたら,5割方以上もっと,6,7割は結局,地主さまのために働いている,という意識にキットなるに違いありません.現代の普通のサラリーマンだったら,8時間分はまぁとにかく会社という組織の「再」生産のために働かねばならず,残りはまぁまぁ自分と家族の「再」生産のために会社で稼いだお金を使って生活ができる,という意識になるでしょう.「時は金なり」だそうだから,1/3は,事実上,会社(「資本」=会社のモトデとなるお金)の「再」生産に奉仕する時間奴隷なわけですね.
わたしはほんらい誰の奴隷でも一切なく,誰を奴隷とすることも一切ない,わたしは少なくとも自らにとってのみの主人でありまた奴隷でもあります.つまりわたしは,一個の自由人,一人の自由な市民(ポリスの民)であって,自らと自らの家族そして自らの帰属する社会(コスモポリス)のために,心身を労し,かつ働いているのだ,と万人が確信をもっていえるような社会,それが自由・平等・友愛の理念の実現した,あるいはその理念が実現しつつある社会,世界自由市民社会,でしょうが,さてこの現代のこの現実はどうでしょうか.